押しかけ探偵事務員の受難
09
休暇のあとは日々の疲れも取れ、の肌はつやつやになっていた。ある程度時間が経ったが、まだもち肌だ。最初の遠慮はどこへやら、吹っ切れたように老舗旅館での休暇を満喫したに、茂木は苦笑を送った。
「リラックスしたみてーで何よりだ」
「おかげさまで。ありがとうございました。飲み物代まで払っていただいちゃって」
「ツケだぜ」
「はあい」
随分とリラックスしている気がする。はこんなにも茂木の前で自然体でいただろうか。いつも緊張してばかりで、行きの道中は茂木のじゃじゃ馬の助手席でかちんこちんになっていたはずだが、帰りはシートに凭れて眠っていた。助手席に乗る人間が眠りこけるとは。
饒舌になった気もする。
以前は気を張り詰め、ちょっとつつくとびくびくしていたものだが、今はさらりと聞き流される。茂木のペースに慣れてきただけとは思えない変化だ。旅行中に二度目の殺人事件と出くわして肝が据わったのかもしれない。死体を見たショックで気絶したのがスイッチになったかと茂木は目を細めた。
まあ、いい。使えるか使えないかはまだ知らないが、受け入れてみれば煩わしい雑務を押し付けることができてそれなりに便利なお嬢ちゃんである。給料は雀の涙だが、諦めずに食らいついて来るのもなかなかだ。
「お嬢ちゃん。今日も祝日返上で来てるが、デートに出かけなくていいのか?」
「デート」
「デート」
は段ボールにガムテープを貼る手を止めた。相手がいないのでしようがないです、と答えようとして情けなくなった。茂木はあちらこちらに顔が利き、デートの百回や二百回程度ならこなしたことがありそうだ。
結局あたりさわりなく、そんな気分になれません、と言った。茂木は煙草をふかし、フゥ、と息を細く吐く。
「いねえんだな」
事実を冷淡に突かれると心が折れる。は再び無言でガムテープを引っ張った。
もう見ないと言った過去の事件ファイルをまとめ、事務所のデッドスペースに収納し、安く買ってきたそれなりにお洒落な布でカーテンを作り隠しておく。きちんとした内装なのに、ハードボイルドな探偵はデスクワークを後回しにしているのか、はたまた机に向かっている時間がないのか、無駄な所がいくつかある。あまりにも任せられる仕事がないために、はこんな必要なのかそうでないのかも微妙な作業を繰り返していた。何もしないわけにはいかない。
探偵業に休日はないとはいえ、こんな空気に近い自分が祝日にやってきても意味がないのはわかっているけれど。
「じゃあ、俺は出かけてくるぜ。明日まで戻らねーが、寂しがるなよ」
間の抜けた返事をしたに手も振らず、茂木は事務所を出ていった。
(どうして最後のひと言を付け加えずにはいられないんだろう……)
残されたは煙草の匂いが残る部屋でぽつんと一人、ガムテープののりがついたハサミを丁寧に拭く。棚にしまってお茶を淹れた。茶葉を持ち込んだのはなので、問題はないと思いたい。
こうなると、ほとんど電話番のようになる。CLOSEの札はかかっていないので依頼人は時おりここを訊ねるし、電話もかかってくる。はこの数週間でそれらを適宜処理できるようになっていた。まだ型通りの対応に近いが、茂木に言われたいくつかの決まり事と対応の仕方を忘れないようにすれば何とかなる。事務所の雰囲気か探偵の醸し出す空気か、なぜかハードボイルド小説によく登場しそうな依頼人がよくやって来るので、奇妙な状況の対処能力だけが上がっていく気がするのには目を瞑る。
この日も扉が叩かれた。
はい、と立ち上がり、飲んでいたお茶を慌てて隠す。
入って来たのは小学生の女の子だった。ぎょっと目をむく。淡い色の切りそろえられた髪とアーモンドのように整ったかたちの瞳。
「灰原……哀ちゃん?」
少女はこくんと頷いて、いいかしら、と指した。急いで立ち上がり席を勧めると、哀は躊躇なく小さな身体をソファに沈めた。
「ど、ど、どうしたの」
こんな場所で(というとひどく失礼に思えるが)まさか灰原哀に会うとは思ってもみなかった。誰が予想できるだろう。
用件の前にお茶を出すべきだと気づき、立ち上がったおかしな姿勢を戻して別のポットに茶葉を入れた。お湯を注ぎ、少し待つ間にカップを用意する。焦ってしまったからか小さく音が立った。
哀は我関せずと言った様子で黙ったまま、興味なさそうにを見ていた。
の後姿からは動揺がはっきり見て取れる。素直ね、と口の中で呟いた。
ようやく用意されたお茶をひと口飲み、その銘柄が阿笠博士の家で飲んでいるものと同じと気づいた哀は少しだけ顔を綻ばせた。
「いい趣味ね」
一瞬、紅茶のことだと気づけない。
数拍置いて合点し、ああ、と声を漏らしてお礼を言う。哀はソーサーにカップを戻した。慣れた動きに、は居住まいを正す。これから何らかの話がされるのだと、さすがに察せられる。
「あなたに依頼をしたいの」
「じ、事件ですか? 事故ですか?」
「そうね。事件よ」
言われるまま用紙に書き込んでいく。
最近仕事をなくした人がいる。その人物には落ち度がないように見えたが、ある時から風当たりが強くなり、店長から圧力を受けていた。おそらく自分から退職するように仕向けていたものと思われる。
しかしその人物は仕事を辞めず、それから一年もの間働き続けた。結果的には、辞職したのだけれど。
「調べてほしいのは、その一年前に何があったのか、ということ。必ず切っ掛けがあるはずでしょう?」
「……あのー……」
それって心当たりがありすぎるんですけど。はそろそろと手を挙げた。哀に続きを促され、思ったままに言うと、そうねとあっさり肯定される。
「一年前に何があったの?」
知りたいのはの方だ。なぜそこにこだわるのか? コナンと哀がに求めている答えは何なのだろう。
は憤りすら感じた。いい加減、そっとしておいて欲しいのだけども。
「江戸川君を助けると思って答えてくれないかしら」
「そう言われても……。ていうか灰原さんじゃないんだ……?」
「私は困ってないもの」
「えええ?」
さっぱりわからない。
困惑したのが面白かったようで、哀はくすりと笑って肩を竦めた。
真剣な色を前髪の奥に隠す。
「深追いするなと言ったけど、彼、聞かないから」
どくりと心臓が脈打つ。
もしかして、私、とんでもないことに巻き込まれてる?
は今更自覚した。おかしな質問をされた時から頭の隅にちらついてはいたが、知らないうちに黒の組織と接触でもしていたのだろうか。
いや、と首を振る。依頼を断る意味ではないと受け止め、哀は何も言わなかった。
(接触したのは私じゃなくて――……)
一人しかいなくないか。
記憶を辿る。ほつれたセーターの糸をたぐり寄せ、たぐり寄せ、元の服がほどけてなくなってしまうまで懸命に糸を巻き取っていく。
一年前に何があったかなんて、原因なんて、苛立ちの中に消えてしまってよく憶えていないけど、確か何かの翌日から店長の機嫌が悪くなっていた気がする。派遣が余計なことに首を突っ込むな、に近い言葉を投げつけられたような気もする。記憶を改悪してしまっていたら店長には申し訳ないなあと思いつつ、反省はせずにそのまま思い出の海を泳ぎ続ける。
電話を聞いた。
コール音が鳴って、それは店長の携帯電話で、無視するのも悪いなと思って店長に渡しに行ったらひったくられて、うわ怖、と思いながら引っ込んで。
そんなことはすっかり忘れて、帰りに挨拶をしようと厨房に行ったら彼は電話で何かを話していた。
――もう信用してくれたっていいだろ? いっつも来る男、怖いんだよ。毎回全身真っ黒なんて、今時流行らないし。
は額に手を当てた。これだ。
「電話を聞いたんだ、私」
哀が続きを促した。
「全身真っ黒で揃えてる男が、何度も店長と接触していて、何かを取引しているという電話だった。何かの仕入れかなと思っていたんだけど、……違うの」
訊ねる形を取ってはいるが、だってわかっている。仕入れは仕入れでも、たぶん危ないほうの仕入れだ。
拳銃とかかな。どんなカフェだよ。はだんだん具合が悪くなってきた。
「それね」
「だよね。これ以上は思い出せない、というか聞いてないと思うんだけど……。怒られてすぐ帰ったし……」
「何の取引かは江戸川君が突き止めるでしょうから、思い出さなくていいんじゃない?」
「そ、そうかな」
実を言うとこれ以上首を突っ込みたくないのでありがたい。はホッと胸を撫で下ろす。
は紅茶が冷めていることに気づいた。淹れ直そうかと申し出た彼女に、哀は丁重に断りを伝えた。
ねえ、灰原さん。は言った。
「もしかして、『そのため』に私は茂木さんの事務所を紹介されたの?」
「でしょうね」
「あ、そう……」
親切すぎる話には裏があるのだ。
この数十分の間に、短距離走を何度も重ねた気分だった。ぐったり背もたれに身体を預けたの唇から呻き声がこぼれた。
茂木に申し訳ない。ふとよぎった感情は間違ったものではないだろう。
の心の痛みを見透かした哀は珍しく、彼女を静かに慰めてやった。
「これはここの探偵さんと江戸川君の問題で、あなたは悪くないわ。知らない顔をして勤めていたら?」
米花町の人たちはみんなメンタルが強い。改めてはそう思った。
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20150108