押しかけ探偵事務員の受難
10
少し時間は遡る。
江戸川コナンは自分を信じている。……多くの場合。
もともと『犯罪』に関する嗅覚が非常に優れていたし、強くてニューゲーム状態であるゆえ余計にその感覚は研ぎ澄まされていた。青年の視点を持ちながらにして子供の第六感を取り戻す。探偵としてとても優秀だった。
彼の優れた嗅覚は一軒のカフェにある姿を見つけた時から働きっぱなしだった。
裏口で何かをやり取りする男たち。となり合う店同士の交流とはとても思えない陰湿な空気。手渡される茶封筒は分厚かった。従業員が店の男を呼びに顔を出したので、二人はすぐに不自然なほど慌ててやり取りを打ち切ったが、見間違いなどでは決してない。
灰原哀は黒ずくめの男たちに対して『におい』を感じるというが、まさにその時、コナンも同じものを感じ取った。
不自然にならない程度、頻繁にカフェの前を通りがかる。その姿は二度は見つけられなかったけれど、コナンは自分の目と直感を信じた。この店はどこかが世間から外れている。それも違法な方向に。
従業員はこのことを知っているのだろうか? 全員がグルなのか?
コナンが考えるうちに事件は起こった。手をこまねいていたことをこれほど後悔したのは久しぶりだと、小五郎と蘭を振り切るように走り出し、キープアウトのテープを潜り抜けながら歯を食いしばった。
落ち着いた雰囲気は女性客を引き寄せ、都会の明るい陽がランチセットのキッシュやスイーツを照らしていた。気の良さそうな店主は裏にあるどす黒いものを隠しながら笑顔を振りまく。開店前の店内に日常の面影はなく、整然と佇む椅子は寂しそうだった。厨房に踏み込めば、濃厚な血のにおいが脳天を突く。立ち尽くす従業員の顔には見覚えがあり、視線の先を追うと、そこには。
まさかまさかと信じたくない気持ちでいっぱいだったが、見てしまっては認めざるを得ない。血まみれで倒れ伏していたのは『カフェ・ヒグチ』のオーナーだった。
手がかりを断たれても、コナンは諦めなかった。初めに不審な行動に気がついたあの時、顔を出した女性店員は本当に関係がないのだろうか? 店内からガラス越しにコナンを見つけ、裏の扉の外で何かの取引をしている男たちに危険を知らせる為、わざと無関係を装って呼びに行ったのではないだろうか? 糸はまだ残っている。
もちろん被害者を発見し通報した彼女の蒼白な表情は知っている。もしもあれが演技だとしたら主演女優賞を狙えるほどだ。勘のままに言えば、彼女は本当に無関係なのだろう。だが、どんなにか細くとも手がかりを逃すわけにはいかない。
どう接触しようか一人悩んでいたところで偶然にもすれ違い、コナンは思い切り子供らしい声を出した。そして茂木遥史を繋ぎ目にし、見事にとの関係を持つことに成功したのである。末恐ろしいガキだと言われるに相応しいやり方だった。がこの経緯を知れば、必ずこう言っただろう。
「こわい」
まったくその通りだ。
黒ずくめの男について訊ねなければならない。
茂木には何も知らせていないので、彼のいないところで、探りがばれないように注意する必要があった。
が本当に黒ずくめの男たちの仲間だったとしても、茂木は今のところは何も知らない。コナンの行動に多少の不信感を抱いているかもしれないが、こちらも単なる親切な子供(かなり信じがたい行動だけれど)の態度を貫いている。としても不必要に目立つ言動は避けなければならないし、探偵業界でもある程度名の知れたハードボイルドな探偵がおかしなタイミングで死亡しては、各方面からの捜査は免れない。おそらく、とコナンは読んでいた。コナンならば調査するし、探偵というのはそういうものではないだろうか。
コナンは打算を笑顔の後ろに隠し、鋭く切り込んだ。
「おねーさんって、カフェで働きたかったの?」
茂木に休暇を投げつけられ街をぶらついていたは、眉根を寄せて下唇を噛んだ。いい思い出ではない。
質問の意図がわからず聞き返す。
「どういうこと?」
「すっごく嫌な目に遭ってた、ってあの時の事情聴取で言ってたじゃない。なのに働き続けたのって、あのカフェが好きだったってことだよね?」
「そうでもないけど……」
お金と職が欲しかった。それだけだ。できればアクセスが良いところにしたくて、コンビニよりはお洒落なカフェに勤めてみたかった。
子供にこんな邪な理由を告げていいのかなあ。は目の前の子供がただの小学生でないと知っているけれど、いたいけな姿かたちに惑わされてしまう。
「す、好きだった、かな。楽しいし……」
「楽しかったの?」
「……楽しくはなかったかも……」
言いづらい。それなりに言いづらい。高校生探偵も、アルバイトに夢を持つ年ごろだろう。探偵業で報酬を受け取っているとは思えないし、コナン――工藤新一も金銭目当てで成績を重ねているわけじゃない。たぶん。
はコナンの夢を壊したくなかった。夢見るイメージがあるのかは知らないけれど。
「で、でも、お給料良かったんだよ」
「ふぅーん」
「う……」
疑われている。完全に。は口の渇きをおぼえ、自動販売機で買ったジュースを飲んだ。炭酸にするべきではなかった。コナンは安定のブラックコーヒーだ。おいしそうに飲んでいるが、小学生の身体で渋いものを飲まれるとドキドキしてしまう。胃とか荒れないのかな。エナジードリンクにだけは手を出さないように言わなくちゃな。いや、もう知ってるか、このひとだったら。はコナンの次の言葉を待ちながら、とりとめなく思った。エナジードリンクってすごいや動けるようになる、と思っていた時もあったけれど、リスクが高いなら早いうちに教えてもらいたかったな。
たぷん、とまだ入っているコーヒーを揺らす。コナンはの言葉に嘘はないと感じた。本当に楽しくなかったらしい。嘘がつけなくて苦労しそうだな。
「樋口さんって変な人だった?」
「別に、普通じゃないかな。コナン君の周りにはいないタイプだと思うけど」
「どういう意味?」
はぽつぽつと話した。要約すると、つまり、就業三ヶ月目の派遣アルバイトに突然理不尽な文句を突きつけるひとはコナンの周りにいないだろう、ということだ。いまだに何が原因だったのかわからない。
(三ヶ月目か……)
そういえばそうだった。コナンはこっそり盗み聞きした事情聴取の内容を思い出した。
が店にいた期間は一年と三か月。今から一年前にカフェ・ヒグチで何があったのかなど、コナンにはわからない。コナンが店のオーナーをマークし始めたのはつい最近だ。だとすると、店長の態度との苦境はこの件には関係ないのか。
取引を目撃され、事情に深入りされる前にさっさとを辞めさせたかったオーナーがわざとにつらく当たった、とも考えていたのだが、コナンの予想は外れてしまった。
「最近は何かなかった?」
「死体になってたよ」
「……お姉さん、茂木のおじさんの影響を受けてるんじゃない?」
「えっ、そうかな」
ちょっと嫌だな、という顔をして、は苦そうに唇を引き結んだ。コナンはへの認識を改めた。
「もし――」
コナンは敏捷に言葉を振りかざし、深く切り込んだ。
「もしお姉さんが店長の……、……パンツが女性のものだって知っちゃったらどうする? それも盗品をバイヤーから買ってるの」
「なにそれ」
急に何を言い出すんだ名探偵。
律儀に考えるもだ。何か疑われているとはわかっていても、ちょっと質問が婉曲なものすぎていて真意を理解できない。
「趣味は人それぞれだけど、犯罪に巻き込まれたくないから仕事を辞める、かな」
「そっか」
「うん。……何が模範解答なの?」
「それでいいと思うよ」
「う、うん」
それでいいのか、名探偵。
コナンはコーヒーを最後まで飲み終えると勢いをつけてベンチから降りた。ランドセルを背負い直し、を振り返る。
「ねえ、さんの知り合いに、暑くても寒くても黒っぽい格好ばっかりしてる人っている?」
「……」
の口は一度開き、何も言わないまま力なく閉じられた。何を言わんとしているか、知っているにはわかってしまった。コナンがここまであからさまにアプローチしてくるとは思わず、首を傾げる。質問の意味はよくわかるが、何が彼にそう言わせたのかはまったく推理できなかった。
何かしたっけ?
口にはせず、否定する。
「いないと思うよ」
そうだよねー、とコナンはあっさり流して手を振った。なんなんだ、これは。は風のように去って行った後姿を見送る。炭酸の抜けたジュースを飲む気にはなれず、しばらくぼうっとベンチに腰かけていた。
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20150108