押しかけ探偵事務員の受難


08


 ユの字に近い廊下は接点が少しだけ奥に突き出し、自動販売機が数台並ぶ小さな空間ができている。今、そこは血みどろだ。

 どうやら気を失っていたらしいと気がついたのは、目を覚ましたからだった。無理やり寝付いた時のように頭が重くて気持ちが悪い。
 起きない方が幸せだったかも。
 はふとそう思った。それから、自嘲する。
 の頭の中には膨大な記憶が宿っていた。まるでかたく閉ざされていた引きだしの中身を、一気にぶちまけたかのように。容赦のない奔流だった。
 江戸川コナンがキーだった。あぁもう、一生忘れていたかった。死神レベルで事件を引き寄せ、お手玉でも転がすように問題を解決していく小学生のことなど。
 どうしろというのだ。
 心配そうに顔を覗き込む蘭に微笑みかけつつ、内心で頭を抱えた。
 こんな事件は知らないし――もちろんすべてを記憶しているわけではないけれど――なんて登場人物も知らない。もちろん以下略。
 だがまあ、順当に考えるとこれは『あの世界』ということになるのだろう。は日本で数多く起こる事件の中から(よりにもよって)殺人事件の関係者になり、(よりにもよって)江戸川コナンに救済されてしまったのだ。何という不運、何という幸運。
 はばたんと布団に倒れ込んだ。枕はふかふかでいい匂いがして、掛け布団はぬくかった。

 が腹をくくって初めにしたことはおやつを食べることだった。やっていられるか、しらふで。
 運んできてもらったお酒は飲む気になれないのだけど、やけを起こしてしまってどうしようもなくなる。
 部屋に用意されていた歓迎用のお菓子をひと通り食べたは、すっかり何もかもを諦め、元通りの、職に困って小学生の紹介を受け茂木探偵の事務所に押し掛けた成人女性に戻っていた。
 どうしようかな。
 生まれる前か死ぬ前かそれともいつだったか、よくわからないこの記憶が戻ってもにできることはない。警察の到着前に現場にちょっかいを出していた三人の名探偵も、今は追い出されたが別の切り口から捜査をしているはずだし、知識もないが混じったところで足手まといになるだけだ。
 しかしここで蘭と話していても落ち着かない。何かしていたいのだ。

「蘭ちゃんは死体を見て大丈夫だった?」
「あ、はい。慣れてますから」

 気遣いを見せたらとんでもない言葉を聞いてしまった。はこの世界の恐ろしさに慄き顔を背けた。口元を手で覆って、心の中で再び呟く。茂木さん戻って来て。


 事件の終わりはあっけなく、ほどなく被害者の同行者が逮捕された。
 動機は痴情のもつれ。最近はナイフを鞄に忍ばせて旅に出るのがトレンドらしい、と茂木は皮肉った。
 連行される犯人の後姿は寒風に吹かれ、とても冷え冷えとして見えた。
 事件が終わっても休暇は終わらない。ひどいスパイスにもめげず、と蘭は失った三時間と少しを取り戻さんと会話を重ねていく。
 一方、小五郎たちにはそんな余裕もない。
 眠りこけた小五郎を叩き起こし部屋まで連れていき、事のあらましを解決した当人に説明している。茂木はこの奇妙な事態の理解を放棄した。
 小五郎は何度か頷くと納得してみせた。よくあることだと慣れた仕草だ。
 こんな奇怪な探偵だったか? 『眠りの小五郎』とはまさに言い得て妙だ。茂木は感心してしまう。

「そういやあ初めてだったな、あんたと仕事すんのは。驚いたぜ」
「ん? あぁ、そうだな」

 歯切れの悪い小五郎に、コナンは苦く笑った。

(ハハハ……。『あの時』のおっちゃんはキッドの変装だったんだっけ……)

 茂木はスッと話を切り替える。

「ところでボウズ、お前、何で俺のことをあの嬢ちゃんに教えたんだ?」
「え? ……あぁ……」

 コナンの返答は曖昧だった。言いたくねえのか、と茂木は煙草に火をつけようとして、すぐにやめた。こうも風情のある旅館に紫煙は似合わない。柄にもないことを思う。口寂しかったので歓迎用の菓子に手を付け、塩気のあるあられを食べた。

「でも、お姉さんはいい人でしょ?」
「何が『でも』だガキンチョ。そんなことの為にアドレスを教えたんじゃねえぜ」
「『オッサンに解決できねー事件があったら、報酬の8割で受けてやってもいいぜ』……だっけ?」
「おいコナンッ、なんだァそのやりとりは!? 俺を何だと思ってんだ!?」
「キッドに化けられちまうようなへっぽこのチョビヒゲ親父だろ?」
「くぉんのやろォ……」

 まあまあと宥めるコナンも否定はしていないところがミソだ。
 茂木はコナンを視線で射抜いた。少年はものともせず、強い意志を込めて見つめ返してくる。何かあるのは明白だった。
 言いたくねえんだな、と茂木はあられを噛み砕く。疑念は確信に変わる。には何かがあるのだ。不気味なほど聡明な小探偵がマークするだけの何かが。茂木はコナンがと繋がり続ける為に体よく利用されたのである。
 あまりにも黙々と事件ファイルを読み込み時々気配の薄くなるの横顔を見つつ、どうしたもんかと日々考えている茂木にしてみると、子供の手玉に取られているようで面白くない。

「大人を甘く見るんじゃねえぞ」
「オジサンこそ」

 低く言い交わす。面倒そうな空気を感じて小五郎が煙草に手を出したところで、話は切り上げとなった。
 情緒なくくゆり立ち上る煙を数秒ぼうっと見送ってから、茂木とコナンは慌てて小五郎の手を押さえる。

「おじさん! 禁煙!」
「何処にも書いてねーだろーが」
「こういうのは空気ってモンがあるだろうが、オッサン」
「オメーに言われたかねーよ!!」





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20150107