押しかけ探偵事務員の受難


06


 が茂木遥史のもとで働き始めてから、今日で一週間半が過ぎた。働くといっても、茂木遥史が拠点とする場所に出勤するだけで、あとは何をしていても構わないと言われている。なんとユルいバイトだろうか。期待されていないとわかっているからこそ居心地が悪い。はできる限り茂木の様子を窺い、邪魔にならないようそっとお茶を汲んでいた。それから許可を得て、役立ちそうな知識を蓄える。
 茂木は事務所を不在にすることが多かった。安楽椅子探偵には程遠く、けれど足で稼ぐタイプでもない。ふらりと事件のにおいを嗅ぎつけるように街へ出ると、たんまり成果を上げて戻って来るのだ。
 ゆえに、はほとんどお茶汲み兼電話番と化している。
 ぱらぱらと事件のファイルに目を通すと、一つに見知った名前を見つけた。一軒の館で起こった悲惨な事件は、茂木にとってあまり良い思い出ではなかったのか、手短にまとめられていた。ただ『登場人物』の名前が書いてあるだけとも言える。江戸川コナンの名前はそこにあった。
 二人はお礼を言ったきり会っていない。コナンは小学生だし、生活リズムはすれ違っている。積極的に会いたいとも思わなかった。
 は窓の外に目をやった。空には重苦しい雲が立ち込めている。分厚い雲からひっきりなしに雨粒が垂れ、街のあちこちを濡らしてやまない。傘はいらないというアナウンサーの言葉を信じたは、長く続くだろう雨天にがっかりしている。コンビニで傘を買うしかなさそうだ。
 今日も茂木は外に出ていた。ぴかぴかの革靴と仕立てのいいスーツがどうなることやら、と過ってから、そういえば彼には車があったと思い出す。新品のアルファロメオは風塵をものともせず道を走り抜けるだろう。じゃじゃ馬を飼いならす茂木のハンドルさばきもよどみが無く、実に綺麗なタイヤ痕を残す。……のだろう。見たことはないけれど。
 ため息をついたところで携帯電話が鳴った。四角い画面を指で撫で電話に出ると、低い声が通る。茂木だった。

「これから出られるか?」
「はい、大丈夫です」

 茂木は即答したを笑った。

「喜びな。初仕事だぜ、お嬢ちゃん」

 五七五に近いリズムに気を取られ、は一瞬言葉の意味を呑み込めなかったが、反射的にファイルを閉じて立ち上がっていた。

「はいっ」

 元気の良い返事に、探偵はまた喉の奥を鳴らす。


「……初仕事、ですか……」
「骨休めも仕事の内さ」

 茂木はしれっと言ってのける。は胡乱な眼差しを向けるしかなく、口を閉ざした。
 道中わずかに降っていた雨はすっかり止み、太陽が照る。爽やかな風は冷たく肌を刺した。上着を着ていても肌寒い。上りの多い道だから、吹き付ける風も不規則でえげつない。
 茂木は小さく舌打ちをした。煙草の煙が遠くへ遠くへと流され、灰がどこかへ散っていく。あまり宜しくないので運転席に上半身だけ突っ込み灰皿に吸殻を捨てた。この潔さがは好きだ。
 しかし、慰安旅行とは。
 まだ何もしていないのだけどなと思うも、それは事務所に詰めっぱなしのだけで、茂木は随分とくたびれているのかもしれない。思い直したはわざと明るい声を出した。

「茂木さんの日頃のお疲れを取る、という」
「そんなところだ。嬢ちゃんも楽しみな。クーポンは使うに限る」
「クーポン?」
「仕事で連れ合ったやつに貰ったんだよ。期限が近いが仕事が入ってっから使えねえとかなんとか。お嬢ちゃんを連れて行ってやれと言われたが、一体どっからそんな情報を手に入れるんだかな」
「探偵さんですか」
「あぁ」

 日本の探偵は凄いなあ。はぼんやり感心した。実感はわかないが、茂木の口ぶりからすると彼の情報を調べ上げるにはかなりの労力と技量を要するらしい。となると、それをやってのけた同業の探偵は腕利きということになる。なぜわかったんだろう。
 素直に問いかけると、茂木は車に乗り込みながら言った。

「俺が腕時計を見る回数が多かったんだとよ」
「はい?」
「あんたの終業時間をいつにしようか決めかねてたことがあったのさ」

 そういえば初めと終わりの時間があやふやだった時がある。はははあと相槌を打つことしかできなかった。探偵、敵に回さないようにしよう。車に乗り込み最後のひと息を走る間に、は決意を新たにした。恐ろしい稼業だ。そういえば事務所の鍵はきちんと閉めたかな。ああ、閉めたな。そんなことを考え気を紛らわせる。

「ほォー……こいつぁ驚いたぜ」

 ハッと前を見ると、そこには一軒の――と言っていいのかには判断がつかなかったが――旅館があった。いかにも老舗といった構えに圧倒される。こういうの、ドラマで見た。の独り言に茂木が口角を上げた。
 うっすら灯りがともっているように見えるのは、ヘッドライトのせいではあるまい。建屋全体の雰囲気がそう見せるのだ。もしかすると実際にともされているのかもしれないが、まだそこまで近づいていないには区別がつかない。ここまで大きな旅館に足を踏み入れたことのないはただ感嘆するばかりだ。

「も、もしかしてここに泊まるんですか」
「信じられねえならクーポン見るか?」
「み、見ます」

 茂木はスーツの内ポケットから折り畳みの札入れを出した。器用に片手で開き、に紙を渡して見せる。

「ここらじゃちょいと有名らしいぜ」
「へえ……。……割引クーポンじゃないんですね」
「デザートが一品追加になるだけだ」
「それでここまで来たんですか……」

 茂木の口ぶりにはためらいがない。デザート一品のために県を越え、を愛車に乗せて来た男はまったく嫌がっていないようだった。これもハードボイルドの一環なのか? は首を傾げる。しかしすぐに首の角度を戻した。

「普段なら別の誰かに押し付けるトコだが、嬢ちゃんへの給料代わりだ」
「えっ」

 確かにまだお給料は貰ってないけど。雇用の形もフワフワしていて、ほとんどがの押しかけのようになっているけど。
 が蒼白になっているのを見もせず、茂木は車のエンジンを切った。
 車から降り、ぐるりと駐車場を見渡す。車の形はさまざまで、ともすれば無粋になってしまいがちだが、こちらも旅館の雰囲気を損ねない造りになっているのか不自然ではない。茂木のアルファロメオ(二代目のじゃじゃ馬娘)は少々目立ちすぎているが、その程度だ。

「もう、お父さん!」

 若い女性の声に、は足を止めた。茂木はすたすた歩いて行ってしまっているので、ついて行きながら何となしに振り返る。せっかくの旅行なのに、旅館を前にしてぷりぷりしなくちゃいけないなんて大変だ。そんなふうに思って。
 そこにいたのはすらりとした体躯の少女だった。女子高生くらいだろうか。に背を向け、車の中の父に向って何かを話している。ひょいと後部座席から降りた子供が苦笑混じりに肩を竦める。ハハハ、と空笑いが聞こえて来そうだった。
 その姿に、見覚えがあった。
 一瞬、ほんの少しだけ、「あっ見なきゃ良かった」と思ってしまったのは悪くないだろう。にとってあの三人の姿は、とんでもない失業の思い出を蘇らせるには充分な威力を持っていたし、あの小さな子供の鋭さにはちょっぴり恐怖を抱いている。うっかり目が合ってしまって、は口元をひきつらせた。
 江戸川コナンは目を瞠り、大きな、無邪気な声を上げた。

「わーっ! お姉さんだあ!」
「ひええ」

 は心の中で手早く十字を切る。何かが起こりそうな、そんな予感がしていた。茂木さん戻って来て。





main
Index

20150106