押しかけ探偵事務員の受難


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 せっかく手に入れた五連休だ。ぽろんと棚の上から転がり落ちるような突然さには驚いたが、手に入ったのなら活用したい。
 家で一日中眠り続ける自堕落な消化の仕方はいけないだろう。身体は休まっても精神がほっと安らいだりはしないはずだ。

 何か綺麗なものでも見に行こうか。

 普段は足を運ばない美術館の公式ホームページを検索してみたりして、座椅子の上で計画を立てる。舞い込んだ休日は、安定した生活ができているという実感もあって有り難く愛せるものだった。
 ちん、とトースターが大きな音を立てる。焼いた食パンの香ばしい匂いが漂い、ここは狭い部屋ながら、優雅な朝といった感じがした。
 は皿とジャムを用意して、作業机と食卓の兼業をがんばる低いテーブルから小さなノートパソコンを下ろした。代わりに朝食を置き、つけっぱなしのテレビに目をやる。
 先ほども耳で何気なく聞いていたニュースが再び流れ出した。
 映像と、現場近辺で実況中継を試みるアナウンサーの声が印象的だ。
 大事件らしい、とジャムの蓋を開けながらは画面を注視した。探偵事務所に勤め始めてしばらく経つためか、世間で起こる事件がちょっと気になるだった。

 東京都西多摩市にある国立東京微生物研究所は恐慌で包まれた。武装グループに襲撃を受けたのである。
 グループは厳重に保管されていた劇物を強奪し、警視庁の対応をあざ笑うかのように犯行声明を発表。これによって日本中が恐怖で震撼している。――らしい。

 は、茂木はこの事件に興味を示すだろうか、と上司の行動を想像した。
 パンにジャムを塗る間に、スマートではない犯罪だからそこまで興味を惹かれはしないだろうと予想を終える。茂木曰くの『美味なる』事件とは種類が別だ。
 優秀なるハードボイルド探偵には興味もわかないのではないだろうか。
 ニュースを見るも、おそらく他の人々も、心の底からこの事件に震えあがる人の数は少ない。危機感があっても薄ぼんやりしたものだ。は特に、こういったジャンルに詳しくなかった。だから、こう思うだけだ。

(大変なんだなあ……)

 数分後にでもバイオテロが行われる可能性があると言われても、どうしようもできないわけだから、茂木にもコナンにも連絡は取らなかった。
 きっとコナンも、『大変だな』と思っているけれど、事件の規模が大きすぎるため、そして門外であるため、手を出したりはしないだろう。

 の予想は正しく、彼女は別の理由でかの少年と顔を合わせることになった。


 鈴木園子からメールが届き、テーブルのパン屑を拭き取ったは、床に膝をついて携帯電話を見た。
 鈴木財閥がプロジェクトを開発推進した世界最大の飛行船のプレオープンに来ませんか、という誘いのメールだった。
 本来なら、は断った。
 正直になるならば、『鈴木園子』との持つ『厄介事』のイメージはうっすらと結びついていた。遠慮もあり、そんな凄い権利をもらうわけには、と返信をすると、即行で電話がかかって、元気に満ち溢れた声がの背中をばしばしと叩いて『YES』の返事をもぎ取っていった。数年しか違わないはずなのになぜこんなにもパワーが違うのだ。
 予定が決まってしまったは、とりあえず今日一日を美術館巡りと散歩と映画鑑賞に費やすことにして、洗い物を片づけた。


 好みか好みではないかすら判然としない展示物をただぼうっと眺めながら、は機械的に順路を進んでいた。耳には解説用のイヤホンを挿し、それによって何とか歴史背景を理解する。来慣れていない人特有の、物珍しさで時おり道を間違えてハッとあたりを見まわす動きが混じった。

「ここは初めてですか?」
「えっ?」

 突然声をかけられ、の身体がびくりとした。
 振り返ると、そこには感じの良さそうな男性がいる。

「急に話しかけてすみません。迷いながら見てらっしゃったので、初めて仲間かもなと思って、つい」
「い、いえ……。あなたも初めてなんですか?」
「はい。もし良かったら一緒に回りませんか?」

 慌ててイヤホンを外したは、鮮明に聞こえるようになった小声に目を丸くした。
 好青年は首を傾げて反応を待っている。
 一体全体、なんの魂胆があって自分のような女に声をかけるのか、にはまったくわからない。美術館に慣れない者同士でつるんで意見を交わしながら歩きたいのか、それとも別の狙いがあるのか。
 ナンパ、という発想はちらりと浮かんだがすぐに却下した。彼女は自分がそんなことをされるタイプではないとよく知ったつもりでいる。これまでに受けたことはなかったし、これからもない未知の文化だ。
 困惑する彼女に、青年はぱっと頬に朱色を散らした。白い肌によく映えて、よりも少し背の高い物腰柔らかそうな童顔が照れ笑いを浮かべる。

「びっくりしますよね。変な意味じゃないんです。その、初めての美術館でちょっと緊張してて心細くて」
「あ……、はい。ちょっとわかります。えっと……、私で良ければ。ただ、何も面白い話はできないんですけど……。機械、使いますか?」

 青年はの提案を強く断った。そういうずるい目的ではないと、微かな声で強く否定する。その声音と様子からは、本当に単純に仲間を見つけたかっただけだという本心が窺えた。
 無粋な発言だったとも後悔して気まずさを隠し、機械は首にかけたままイヤホンを結びつける。
 二人は並んで、三つほど前の展示物まで戻ってまたガラスの向こうを眺めはじめた。
 微かな声で時おり、青年がに感想を耳打ちする。も首の動きで答えを返した。

 すべてを観終わると、彼女たちは美術館の喫茶スペースに席を取り、飲み物を注文した。
 冷たいグラスに、琥珀色の水面が揺れる。

「29番目の作品が凄くなかったですか?」
「そうですね、私、あんな大きいの初めて見ました」

 と、言ってもは経験と比較できるほど歴史的美術品を目にしてはいないのだが。
 青年の表情は穏やかで、溌剌とした瞳が好奇心豊かにを見つめる。

さんはどんなお仕事をされているんですか?」

 名前を付けづらい職業だ、と彼女は思った。

「自営業の手伝い、ですかね」
「へえー。上司さんとは仲良いんです?」
「嫌われてはいないと思いたいです」
「今日はお休みか何かで?」
「はい。ボーナスで休暇を貰ったので、普段しないことをしてみようかなと」

 そう考えられるようになったのは、の周りにいつしか集まって、の心を様々な場所へ引っ張ってくれた探偵たちのおかげかもしれない。一人で鬱屈とした先の見えない生活をしていれば、きっとこうはならなかった。休日は部屋でごろごろして、無為に時間を潰していた。
 ああ、と少しだけ納得する。
 もしかするとは、休日に何をしていたかと茂木に問われ、寝ていました、と答えたくなかったのだ。
 何かをして、挑戦をして、楽しく過ごせたと報告できればいいなとどこかで考えたのかもしれない。
 人生に潤いを、だとか、停滞しない毎日を、だとか。口にせずとも、茂木には先へ進もうとするポリシーがある。
 も随分と影響されたものだ。

 部分的に説明したところ、青年――江戸川と名乗り、を大いに驚かせた――は感心したように大げさに頷いた。

「素晴らしいですね、その上司の方も、さんも。僕には真似できないな」
「江戸川さんは、どんなお仕事をなさっているんですか?」
「仕事ってほどじゃないんですけど、まあ、新聞記者みたいなものですね。色んな人と関わって情報を集める」
「すごいじゃないですか」
「……って言えたらカッコいいんですけどね。はは」

 江戸川は頭を掻いた。

「最近は上手くいかない時も多いんです。デキる年下が邪魔してきて。またその子がキレッキレで可愛いんですけど」
「ライバルって感じですか?」
「少し違うかな。彼は……もっと力をつければうちの会社を潰せる、非常に有能で恐ろしい子で。ちょっとそんな未来にも興味があるから、ライバルというより、見守っていたい期待の新星って感じですかね」
「えっ、会社が潰されそうなのに?」
「不思議ですか?」
「え、ええ。すみません、失礼な驚き方でしたよね。でも、潰れちゃったらお仕事がなくなってしまうのでは?」

 も失業の憂き目に遭った経験があり、口調に不安がにじむ。あれは苦しいものだった。精神的にも金銭的にも打ちのめされ、呆然としてしまう感覚は二度と味わいたくない。
 江戸川の笑顔は悪戯っぽかった。

「副業があるので、しばらくは食べていけます」
「それなら……安心ですね」

 新聞記者の副業となると文章関連だろうか、と予想する。小説家と言われればそう見えなくもなく。
 テラス席のパラソルの端がはためいた。風が強くなってきたようだ。
 時計を見ると、時間もだいぶ過ぎた。飲み物の残りも少ない。
 江戸川にも今後の予定があるに違いなく、長く引き留めておくのは申し訳ない。優しそうな青年は、自分から声をかけたということもあって話を切り上げることに罪悪感や抵抗をおぼえているかもしれない。
 もこの後は映画を観に行くつもりだった。それを口実に区切りをつけようと決め、口を開いた。

「もうこんな時間なんですね。長々とすみません。ご予定もあります、よね? 付き合ってくださってありがとうございました」
「いやいや、何を言ってるんですか。僕のほうこそ付き合わせてしまってすみません。時間の流れを忘れてしまっていてご迷惑をおかけしたんじゃないかと心配です」
「とんでもないです。色々と話をさせてもらって楽しかったです」

 お互いにへらりと笑い合う。
 江戸川は素早く伝票を奪い取った。遅れたの指先が空をかく。
 焦ったの唇に指を押し当てる。
 そんな素振りを見せて、彼はの胸をどきりと言わせた。
 その手が動き、バッグの留め金にかけたの手に触れた。成人した年上の男性にしては華奢な印象を受けた。

「きっともう会うことはないと思いますから。最後に格好をつけさせてください」

 どこか艶然とした笑みを投げかけると、青年は女性を置いて席を立つ。
 後姿が会計口でいったん止まり、大した時間もかからずガラス戸の向こうへ消えた。
 一瞬ぽかんと見送ってしまったは、動きを思い出して立ち上がり、残った紅茶に手をつけず慌てて後を追った。
 ドアを開け、風通しのよいエントランスに飛び出す。
 見知らぬ入場者ばかりで、あの青年の姿はなかった。

(いない……?)

 立ち去ってしまうだけの時間があっただろうか。
 まばらな客の中で姿を見つけられないわけがないのに。
 駆け足で帰った、とか。


 立ち尽くすの横を、一人の女性がすり抜けて歩いた。ウェーブのかかった金の髪を背中に流した女性だ。
 その凛とした姿勢に気取ったところはなく、自然体で、薄手の長いコートを羽織って、大きめの美術館特製の紙袋を持ったまま太陽の下へ歩き出してゆく。
 彼女の存在にも、紙袋の中身にも、気を払う人間は誰もいなかった。

 女性は美術館の駐車場に停めてある車に乗り込み、今し方出てきたばかりの建物に視線を送った。
 つややかな声が独り言つ。

「『彼』からやけに声をかけられているからと思ったら、ただの幸の薄い事務員だったようね」

 期待外れと言えば期待外れだ。
 口紅を塗り直した唇が、綺麗な微笑みを刻んだ。

「シルバーブレットのお友達。……知らないだろうけれど、あなた、それなりに大変な人に気に入られているのよ」

 頑張ってね、と何についてか無責任な声援を送られた探偵事務員は、駐車場になど意識も向けず、映画を見るため美術館を後にした。





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20160526