押しかけ探偵事務員の受難


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 土産を献上したの姿に、茂木は気まずいものと馬鹿らしいものを感じてため息をついた。

「休暇中に事件に巻き込まれてちゃあ世話ねえな」
「すみません……」

 だって同感だ。せっかく与えられた休日を穏やかに過ごせたのは初日だけだった。
 殺人事件が発生し、なぜか近くに居たコナンによって犯人が見つけ出されたのは序の口だ。ベル・ツリー一世号という天空に生まれた密室でハイジャックとバイオテロに遭遇し、あっと思い出しても時すでに遅しと言わんばかりに現実はを嘲笑した。
 飛沫感染に、ゾッとした自分の心臓の音が耳に残る。
 銃で脅され、殺人バクテリアに感染したと信じ込まされ、赤い発疹の浮かんだ己の手を切り離したくて仕方がなかった数時間。
 江戸川コナンが解決する。そして感染は嘘っぱちだ。
 理性ではわかっていても身体と心はついていかない。怖がるは自分よりも年下の女子高生に優しく頼もしく慰められてばかりだった。
 澄ました顔をしていると犯人グループから揶揄されたものの、彼女は毅然とした態度を取りたかったのでも、恐怖を感じなかったのでもない。美しく荘厳になびいて尾の軌跡を引く難破船の中で、はとても恐ろしがっていた。恐ろしがり過ぎて感情が固まった結果の無表情である。コナンからは「さん、強くなったんじゃない?」と暗に茂木と茂木探偵事務所でのあれやこれやについてを根拠に褒め言葉と思しい言葉を贈られたが、何をのたまってくれるのかと恨めしかった。
 茂木だったらどうするか、頭の中で上司の行動をイメージして動くことはあった。
 茂木ならばここではふてぶてしく皮肉っぽく笑う。
 茂木ならばここでは余裕たっぷりに一服してみせる。
 茂木ならば――。
 は茂木ではないし、煙草も喫えない。真正面から犯罪者を睨みつける強さもない。腕に咲いた赤い花を見ないように心掛け、恐怖からくる身体の震えを御そうとするのみで精いっぱいだ。それすらもうまくできたとは言い難かったが、蘭は茂木に告げ口したり、の態度を笑い飛ばしたり、無粋なことはしなかった。
 蘭ちゃんは凄いんだね、と正直に伝えると、飛行船から降り、本物の風を浴びた彼女は、ついさっきまで進んでいた青空を見上げて風圧に撒かれた髪を押さえた。

「そんなことないですよ。私、さんたちが居たから、怖くても耐えられたんです」

 『私、弱かったもんね』と穿った見方で返事するのはやめた。蘭にそういったひねくれた意図はないと断言できる。そんなふうに口をきくと、心優しい彼女を傷つけてしまうだろう。


「この土産はどうせ、嬢ちゃんが食いたかったんだろうな」
「いえ、そんなそんな」
「それじゃあ男一人にバウムクーヘンなんざ持って来てどうさせるつもりだったんだか、納得いくように説明してみな」
「依頼人にも出せるかなと……」
「賞味期限内に客が来るかどうか、考えなかったアンタじゃねえ」

 繁盛する時と沈黙の時の差が激しい探偵事務所だ。ぴたりと依頼が途絶え、事務員として働くの仕事がまったくなくなることも稀にある。ふらりと出かけて行く茂木には暇がなくとも、置いてけぼりのは暇だ。そんな日にばたんと扉を開けて訪ねてくる不幸な依頼人は、この事務員から異様に手厚くもてなされるのだった。
 贅沢な菓子を出され、丁寧に茶をくまれる。いつも以上に親身になったはなるべく話を引き延ばそうと、普段ならば困惑しがちな雑談にもしっかり応じる。
 茂木しか知らない話だが、事務所を経営する『探偵』の気まぐれさと鋭い洞察力、扱いづらさを口コミで叩き込まれていた一般的な依頼人は事務員からのそういった丁寧な対応に拍子抜けして気構えの糸をほどき、早々に饒舌になるのだった。

 茂木の言うとおり、こういった時に出す菓子類はが補充している。
 できるだけ賞味期限の長いものを選ぶようにしているが、旅行先で用事を見つけ、立ち寄った場所の近くに有名な店があったため、彼女は珍しく半生菓子を一つ仕入れた。抹茶味の年輪が見事なバウムクーヘンである。薄くもなく厚すぎもせず、大きさも立派なものだ。
 食べてみたいとは一片も感じなかったとそっぽを向くには少々無理がある。

 コーヒーよりはと薄い赤色をそそいでから、抹茶味に紅茶とはどうなのかと気づく。ちくりとやられるかと思ったが、茂木は何も言わずカップを傾け、切り分けられたバウムクーヘンの生地にフォークを押しつけた。

「悪かねえな」

 良い、という意味で捉えればいいのか、は混乱した。
 これまでの言い方から察するに、悪い評価ではなさそうだ。
 外側のシュガーコーティングが甘く、抹茶の風味を引き立てる。紅茶を淹れたのは見当違いだったものの、口を潤わせるにはちょうどいい。

「それで、こいつは京都の土産だが」
「はい」
「何かして来たのか? 日頃パサついちまってる心に栄養を与える、青空と雲海の旅に相応しい観光でも?」

 これを聞くと『ああ出勤しているのだなあ』と実感するだった。

「神社に行ってきたんです」
「ほう」
「悪縁を切って良縁を結ぶ神社だそうでして」
「そいつぁ、アンタには大層必要な効果だろうな」
「……ええ、まあ……」

 は無駄に紅茶を飲んだ。
 どうやら効果が発揮されるのはまだまだ先の話らしい、とぽつりと洩らす。彼女にとって悪縁を切ることができたとは言い難い現実が携帯電話の中にしまいこまれているのだ。削除してしまえばいいのだけれど、突然かかってきた無名の電話に誤って出てしまうとも限らない。相手の名前が見えていたほうが回避に有効的なのではないかと考え、登録したままにしてあるのだった。
 悪縁を切り、良縁を結ぶと抜群のご利益を重ねてきた神社が存在するとは知っていた。
 確かそれは近くにあったはずと調べたところ、足をのばせば辿り着ける住所が出たため、できるだけ礼儀に則ってお参りしたはずなのだ。
 だというのに、この電話番号とメールアドレスを入手してしまった。天はに向かってこれが良縁だとでも言いたいのか。

「神社を出て、少し歩いた所で高校生に会ったんです。それがもう、怖くて」
「高校生なんてただのガキじゃねえか」
「高校生探偵なんです」
「ああ……、全国津々浦々で流行りまくっていやがる探偵趣味のガキンチョどもか」

 かなりの好成績は『趣味』の範囲に含めて良いものか迷う所でもある。

 神社を出たに降りかかった災難は、目の前で車がスリップして電柱にぶつかり、小規模な爆炎を噴き上げるという惨事だった。
 結論から言えばそのスリップは仕組まれたものであり、同乗者に恨みを持った運転手が自分だけは無事でいられるような細工をした上で見事に計画を成し遂げた、という絵に描いたような殺人事件である。
 これだけならばもはやの驚きも少ない。朝食の前に殺人事件を味わっているような探偵たちばかりが周りにいるのだ。今回は目撃者にもならず、キープアウトの外に群がる人だかりの中から事件現場をちらりと見るだけにとどまった。――はずだった。

さん!」

 事件を解決した小さな探偵がを見つけた。
 少年は人混みに向かって高く声を上げ、を呼び止めた。あちらの存在に気づいていなかったは、不意打ちにびくりとして首を廻らせてしまう。聞こえなかったふりで立ち去ればよかったと気づいたのはその直後だ。
 黄色いテープをくぐり抜けた江戸川コナンは、の手を取って彼女に笑いかけた。たった今まで黒こげの車を前に脳細胞を活性化させていた明晰な探偵とは信じられない無邪気な顔だ。は引きつった微笑みを浮かべるしかなかった。

「なんや工藤。知り合いか?」
「服部。俺は工藤じゃなくて……」
「おおっと、スマンスマン。俺は西の高校生探偵、服部平次。コッ……コナン君のダチっちゅーとこやな」
「ダチじゃねーだろ」

 ライバルと呼ぶほうが正しいのだろう。眩暈が起きてぐわんぐわんと警鐘を鳴り響かせる頭で考える。焦げ付いたにおいもパトランプも、片づけられていく現場の騒々しさも感覚器官からすり抜けた。

「彼女はさん。服部、お前、茂木遥史って探偵を知ってるか?」
「茂木遥史? 有名な私立探偵の中でも扱いにくぅてたまらんて言われとるあの茂木遥史か?」
「たぶんその茂木遥史だな。さんは茂木さんの事務所で働いてるんだ」
「なんや、関係者かいな。どうりで工藤と仲良うしてると思ったわ」
「服部」
「ん? ……おおっと、すまんなコナン君!」
「ったく……。おちおち話もできねえぜ」

 隠す気があるのかないのかさっぱり不明である。
 触れるべきではないと知っているが、厄介な人物に顔を覚えられてしまった悲しみと、そうさせたコナンへの恨めしさが募って、は少しだけ意地悪をすることにした。
 全身全霊を演技に込める。

「初めまして、です。……コナン君の苗字は『江戸川』なのに、服部君はどうして『工藤』って呼んでるの?」
「それは……その……アレや」
「うん」
「考え方とか喋り方がたまに似とんねん。な。せやろ」

 同意を求められたコナンが大きく頷いた。こんなに素直で大丈夫なのか、のほうが心配になった。

 服部平次は誤魔化すように「せや」と呟いて手を動かした。

「なっ。アドレスでも交換しようや。なんかあったら声かけてくれて構わへんから」
「ええっ。でも……」

 東と西は遠いけど。
 言いかけたにかぶせるようにして、コナンが小さい手での手を引いた。

「貰えるものは貰っておいて損はないと思うよ」

 の脳裏に、数十分前に拍手と礼を捧げた神社の境内がよみがえった。狂いがあるとは考えたくないし、考えられない。とするとこれは『良縁』なのか。にとっては良い付き合いになるのだろうか。探偵の知り合いが増えることで彼女にもたらされる幸いとは何か、興味がそそられるようでそそられない。
 断りきれないうちに、は服部平次のメールアドレスを手に入れていた。
 良縁でも悪縁でもなさそうな、単なる交流である気もする。


 ざわつく人々がだんだんとはける。
 役目を終えた高校生探偵は、ちらりと腕時計を見てザッと顔を青ざめさせた。

「アカン、和葉にどやされる!」

 コナンとは顔を見合わせる。コナンのほうはすぐに合点がいって半笑いを浮かべた。西の高校生探偵は、これから幼馴染と待ち合わせをする予定だった。
 事件現場に未練はなく、手短に挨拶を済ませた服部平次はに別れを告げてバイクに乗り込み、コナンと意味深な――探偵特有の通じ合うものがあるのだろう――視線を交わし合うと、にやりと笑ってエンジンをかけた。

さんはどこに行ってきたの? それともこれから行く予定?」
「私は……」

 なぜか正直に言いづらかった。

「これから茂木さんへのお土産を買おうかなって思ってる……」
「一大任務だね。僕も蘭姉ちゃんたちの所に戻るから、途中まで一緒に行かない?」
「そうだね、ありがとう。じゃあお言葉に甘えよっかな……」

 一人置き去りにするのは可哀想だと思われたようだ。
 スケボーを小脇に抱えたコナンと並んで歩きながら、は顔で笑って心で泣いた。


 そんな事情を説明し終えるとより悲しみが湧いてくる。
 バウムクーヘンの味で心を安らがせるに、茂木は微妙な憐れみを含んだ視線で事務員を見た。

「リフレッシュ休暇で病んできてどうすんだ?」
「ですよね……」

 げっそりした顔をうつむけて深々とため息を落とす。
 茂木は「難儀なこった」と呟いて、合わない紅茶をひと息で飲み干した。





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20160528