押しかけ探偵事務員の受難


04


 三日後、は質のいい煙草のくすぶる匂いが漂ってくるような建屋の前に居た。
 教わった住所は、ここだ。
 メモ紙に視線を落とす。
 折り目のついた紙には大人びた文字が連なる。小学生の子供が書いたとは思えない、端正なものだった。健康的な見た目に違わず、江戸川コナンは握力もしっかりしているらしい。元太が読めなかった漢字もすらすらと書き、「はい」とに差し出した。ありがとう、と言うしかない。は何度か住所と『探偵』の名前を見比べ、どこか茫然とお礼を口にした。今まで興味も持たなかった地名だし、知らない名前だった。
 建物の前に立つと急に恐怖がやってくる。背中にのしかかり足元からを締め付ける緊張という名の拘束に負けそうになる。緊張は蛇のようにひやりとした肌での指先をくすぐり、ゆっくり彼女を責め立てた。雲ひとつない青空に似合わず、は重苦しいつばを飲み込んだ。何人か通行人が彼女の後ろを通り過ぎていく。邪魔そうにわざとらしく避けられ、はようやく脚を動かした。扉の前で上着を脱ぐと、呼び鈴を鳴らす。まだ何も始まっていないのに、審判を待つような気分だ。
 家主は姿を見せなかった。代わりに、緊張するの姿を屋内のモニターで見たのか、扉の横に取り付けてある小型のスピーカーから声がする。はしゃちほこばって返事をした。
 すぐに鍵が開く。

「失礼します……」

 室内には煙がくゆっていた。細く立ちのぼる匂いは決して不快ではないが、に気取った印象を与えた。
 壁も絨毯も綺麗だった。やにで染まっている気配はなく、趣味のいい家具が並べられている。素っ気ない感じもするが、どれも一つ一つこだわりがあり、持ち主の趣味が窺えた。あまり使われている感じがしないのは、外に出ることの多さを表しているのかもしれない。海の向こうへ飛ぶことも稀ではないというから。
 煙草の吸殻が少し灰皿に溜まっている。は何気なくゴミ箱に目をやり、中身が見えないボックスを確認したあと、煙草のゴミをこんなところに捨てるはずがないと気がついた。緊張がおかしな具合に作用しているのかもしれない。慌てて視線を彷徨わせ、時計を見る。時間ぴったり、問題はない。服装もおかしくない。

「はじめまして。あの、コナン君……じゃなくて、江戸川君にお願いして面接の時間を取っていただいた、と申します。本日はよろしくお願いいたします」

 ソファに深く腰掛け脚を組んでいた男がゆっくり立ち上がり、は次に、男の服装に目をとめた。こちらも詳しくはないが、外国仕立てのスーツに見える。この服装一つを取っても、長い物語がありそうだった。それ程の意識の高さが見て取れる。シャツの襟元は第一ボタンが開けられているのに、どこにも隙がなかった。自分の魅力を知っている、とでも言おうか。は早速泣きたくなった。男のロマンにはついていけそうにない。コート掛けに帽子があったということは、外に出る時は更にきざな恰好になるのだろう。更に逃げ出したさが増す。そういえば、近くには外国製の車もあった。車には詳しくないが、こうなるとハンドルの位置が違ったような気もしてくる。の我慢は限界だ。今すぐきびすを返し、コナンに電話をかけられればいいのに。

「まずゴミ箱に目をやったところは素質があるぜ、仔猫ちゃん。勿論、意識してやったんじゃあねえだろうが……」

 仔猫ちゃん。は意識が遠のくかと思った。

「ボウズから連絡があった時はやれやれと思ったが、聞いていたよりは見込みがありそうだ」
「……は、はい」
「だが俺は単独で動くシュミでね」

 確かに、集団行動が得意そうには見えない。コナンの評価を思い出し、の目の奥が痛んだ。切実に帰りたい。探偵業に一瞬でもロマンを抱いた自分が情けない。
 そんな思いは直後、に切りかかった。仕込みナイフを取り出す時、素早く手首を返さなければ刃が持ち主を傷つけてしまうように。

「一応、聞いておくが。何で俺の所へ来ようと思った?」
「は、あ。あの、バイトを辞めなくてはいけなくなってしまって……、と言うか、辞めざるをえなくなってしまって、職に困っていたらコナン君……江戸川君がこちらを紹介してくれたので」
「辞めざるをえない、ってーのは?」
「前のバイト先で殺人事件が起こりまして」

 言いながら、は自分の身にふりかかった不思議さを俯瞰して眺めた。
 あれは本当に奇妙な一日だった。殺害した者がいて、絶命した者がいる。は単に巻き込まれた不幸な人間などではなく、もしかすると彼女の手こそが耐え切れなくなり、衝動のまま人間の後頭部に凶器を叩きつけていたかもしれないのだ。頭の中で、想像とはいえ、何度もそうしたように。
 そう思うと冷えたかたまりが胃袋に落ちる。内臓を凍りつかせ、思考を止めてしまう嫌な感情だ。恐ろしさとも違う。事情を説明している口だけが勝手に回っているようだ。
 探偵は静かに耳を傾けていた。がすっかり話し終わるのを待っているが、急かすそぶりも、合の手も、何もみせなかった。時おり言葉の切れ目に微かな頷きを返し、促すようにコーヒーカップに口をつけるだけだ。なのには滔々と話し続けている。私立探偵の毛利小五郎が現場に割り込んできたくだりで、男は小さく唇の端を持ち上げたようだった。コナンの話がよみがえる。彼らは知り合いで、ともに謎を追いかけた仲だという。
 男は静かにを見つめた。すっかり話し終えたは、不意に視線を絡め取られ、激しく動揺する。

「それで、あんたは何ができる?」

 当然の質問が、の喉に深々と突き刺さった。声を出したいのに、うまく言葉が出てこない。返事をしなくてはならないのに。

「俺のベイビィはじゃじゃ馬だ。そいつを乗りこなすのに俺はかなり力を入れたし、今だって気を遣ってる。だがな、ただのじゃじゃ馬ならここまではしねえ。そうだろ? ワガママ放題の女も悪かないかもしれないがな」
「は……」
「俺はあいつを愛してる。……まあ……二代目なんだが……」
「はい?」
「いや、いい」

 ぼそりと呟かれた言葉を、彼女は聞き逃した。理解できない内容だったので余計にとらえ損ねた。

「なぜ手間をかけて乗り続けるか? 簡単だ。彼女が俺が望む以上の成果を出してくれるからさ。俺が力を注いだ分だけ、いや、それ以上にリターンがある。お互いに補い合う関係ってやつだな。実際、あのベイビィが居なくちゃあできねえ捜査もたくさんある」
「……」
「で、だ。……もう一度訊ねるが、あんたは何ができる?」

 は再び答えに窮した。探偵業にロマンを抱いた自分が恥ずかしい。ついさっき浮かんだ場違いな想いが今、の羞恥心を苛んでいた。
 答えられない彼女を見ると、探偵は透明の帽子の位置を直すように手を動かした。骨ばった手はそのまま前に伸ばされ、ローテーブルを挟んだ向かいに真っ青な顔で硬直しているの顔を、ぴん、と弾くがごとく跳ねる。距離があって手が届かないので、ふりだけだ。はっとしたの顔に、ハードボイルドを気取る男は気障っぽい小さな笑みを贈った。は何故だか悔しくなる。ここまで言われても心が折れず、咄嗟の行動であっても顔を上げられる反骨精神があるのは、一年三か月のつらい期間に心を打ち据えられ続けたからかもしれない。

「仔猫ちゃん、諦めてまっとうなバイトを探しな。ボウズには俺から言っておいてやるよ。……わかったか?」
「……」
「おいおい、ひどい顔だぜ」

 どうしても、諦める気になれなかった。
 興味本位でやって来たのは確かだ。は否定しない。だが、こんなふうに自分の無力さを暴かれ、黙っていられるだろうか? は否定する。なけなしの矜持を傷つけられ、自分自身の至らなさを自覚させられる。甘えていたと言われれば反発できるが、そうではなく、ただ弱い部分を突かれただけだ。では、するりと心の隙間に言葉の針を突き刺し、自覚の糸を縫い付けていった男を前に、これ以上みじめな姿を見せられるだろうか? はかぶりを振った。どうやら実際に小さく顔を逸らしていたらしい。気障ったらしい男をにらもうとすると頭が動いた。

「わかれません」
「あん?」
「このまま終わりたくないんです」
「……あー……」

 探偵はコーヒーカップを取り上げた。空なのに気づき、元に戻す。の扱いに困っている顔だった。
 だって、困られていることはよくわかっている。正直、ちょっぴりやめたい気持ちも出てきた。顔が熱くなる。
 探偵はしばらく、ソファの背もたれに身体を預けて考え事をしていた。指先だけが自動で動いているように、慣れた動きでするするとスーツのポケットから煙草を取り出し、一本抜いて火をつけた。灰皿が遠くにあったので、くゆった煙が天井で溶け灰ができる前に、は重そうなそれを引き寄せた。
 二人してじっと黙っている。
 時計の針がかちこちと歌い続け、三度ほど灰皿のふちを煙草が叩き、の気持ちが萎えはじめたころ、探偵は魔法が解けたように唇を開いた。宙に絡まる空気の糸を視線だけで壁に縫い止めていた彼が瞬きをすると、ようやく逃げ場を見つけたといわんばかりに室内の硬質さが霧散する。
 男は細く長く煙を吐き出す。

「やけどをしねえようにしな」
「……煙草でですか?」
「煙草よりも、俺に触るのが危ねえのさ」
「……」

 これは採用ということでいいのだろうか。今度はが困惑する番だ。
 時計を見ると、面接が始まってから一時間が経っていた。そして一時間ぶりに、は気が遠くなった。

 ハードボイルドを気取る少し変わった探偵――茂木遥史の下でお茶を汲むようになったは、これから何度も同じ気持ちを抱く羽目になる。望んだのは彼女自身であり、それゆえに何も言えないが、どうにかならないのかなあと頭の中で呆れるくらいは許されるだろう。茂木探偵は鷹の目で、何もかもを見通しているかもしれないけれど。





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20141220