押しかけ探偵事務員の受難


39


 理由を問われたならば、「気が向いてしまったから」と答えるほかに道はない。
 以前、女子高生の勢いに圧されるまま購入した可愛らしい洋服を身に着けたは、心なしか晴れやかな気持ちで通勤した。
 すでに到着していた茂木に挨拶をしたところ、ハードボイルドな探偵は室内であるにもかかわらず目深にかぶった帽子の陰で視線を動かし、上から下までザッとを観察した。

「めかしこんでどうした? 同窓会でもあるんなら早くに帰っていいぜ」
「始業前から上がりの話をするのはやめましょうよ……」

 相変わらず、自由な探偵である。
 同窓会などがあるわけではないので、きちんと否定しながらバッグを片づける。依頼人の目から見えない場所に私物をまとめ、茂木のデスクにコーヒーがないことを確認してから豆を挽いた。
 茂木探偵事務所で働く時は、もっぱら落ち着いた色のすっきりしたズボンや襟付きのシャツにパンプスを合わせた格好でいただが、今日は年齢相応の丈を保つフレアスカートと、甘すぎない黒地のトップスで揃えて、雰囲気がかなり違う。髪型はいつも通りで、化粧の仕方も変わったわけではないのに、ぱっと華やいで見えた。茂木が同窓会を疑うのも無理はない。

「男でもできたか」
「できてないですけど……。そんなにおかしいですか?」
「休みの前までは普通だったからな。急に秋の天気みてーにコロリと様相が変わっちまってるなら、気になるのも無理はねえ。そうだろ?」

 確かに、茂木が急にアロハシャツでを出迎えたら正気を疑うだろう。それと同じことかと納得し、「確かに」と頷いた。茂木はがおかしな想像をしたと薄々勘付いたが、深く訊くのも面倒になって新聞のページをめくる作業に戻った。

 依頼人がふたりやって来たのはいいものの、と休憩を迎えたはため息をついた。茂木は平然としているので、よくあることなのかもしれないけれど、にはなかなか刺激的な時間だった。まさか同じ家で遺産を争うふたりがほぼ同時に事務所の戸を叩くなんて、なかなかあることではない。
 初めに訪れた依頼人が茂木に依頼を受けろと詰め寄るのを横目に、が『用事がありますので』という意味を込めた札をドアの外にかけに行った時だ。制止するを突き飛ばすように乱入した、切羽詰ったもうひとりの依頼人が、ソファに座る敵対勢力に目をむいたのは。
 そこからはさながらひとりの男をめぐるキャットファイト。大の大人が掴みかかるわ引っ掻くわの大騒ぎを起こし、茂木が半ば強引に退出させて終息を迎えるまで、事務所の中はしっちゃかめっちゃかな有様だった。
 茂木も疲労を感じたらしく、うんざりした顔でに「『do not disturb.』の札を掛けときな」と片手を振ってせっついた。言われるがままに、受けつけ休止を意味する仕様に変更し、電話も勝手に留守録に切り替わるよう設定し直した。
 客が来ない間はどちらも自由で――働こうが休憩しようが――誰にも何も言われないので、しばらくふたりは黙ったまま、それぞれの作業に没頭した。
 はひと通り、荒れた事務所内を掃除してから息をつく。茂木はもうすっかり自分のペースを取り戻している。
 買ったばかりの本をバッグから取り出し、しおりを挟んだページを開く。黙々と読み始めると、時間はあっという間に過ぎた。

 終業時間が近づいても、茂木は札を取り換えるようには言わなかった。もう今日は依頼を受ける気がないのだろう。最後までゆるい日だったなあ、とお給料を受け取るのがしのびなくなりつつも、はキッチンを片づけたり掃除機をかけたりと、茂木以外の誰もいないのをいいことに、事務所を閉じる準備をした。
 綺麗な衣装で細々と動くを、茂木は頬杖をついて見つめる。
 スカートの裾が床につかないよう、気をつけて棚の下の方を掃除する姿からは女性らしさを感じられる。普段はズボンで生活しているようなのに、小さな気をまわすこともできるようだ。色気などはかけらもないが、目新しい後姿を、探偵として自然と観察していた。少し腹が減っているらしい、と察せたのも、平常時のを茂木がよく見ている証拠だ。少し、動きにキレがない。

「だが、残念だったな」

 急に切り出した茂木に、が慌てて振り返る。聞き逃していたかと身構えるを鼻先で笑い、言う。

「服装だよ。仕事に着て来ちゃあ、誰にも見せられなくて残念なんじゃねえのか。依頼人も『あれ』じゃあ見惚れる暇もなかっただろうしな。見られねえ洒落っ気は勿体なくて服のほうが泣いちまうぜ」
「はあ……」

 は曖昧に相槌を打った。でも、と思ったままに口を動かす。

「だけど、茂木さんが見てくれてるじゃないですか。私、それで充分ですよ」

 茂木が閉口した。
 いつも余裕ぶっている探偵が珍しく言葉を探しあぐねているので、は「何か変なこと言いました……?」とおそろしく不安そうな顔をした。てっきり軽口と皮肉が返って来るとばかり思っていたのに、意外と深刻に受け止められてしまったようだ。
 の発言に動揺させられた茂木は、ゆっくりと自分を取り戻した。そういった台詞は今までに何度か言われたことがある、ような気がするものの、色気のない秘書から発せられると、自分でも予想がつかなかったほどの衝撃がある。何も考えずに喋っているのだろうから面倒だ。年上として忠告してやらなければいけない気がするのだが、『忠告する』ということは茂木が『そのように』受け止めたという告白に他ならないのではないだろうか。
 だんだん面倒になってきた彼は、自然な動きで煙草を咥えた。
 いわゆる、『予想外にぐっときてしまった自分を誤魔化す』ための大人の逃げ足である。口元に触れた指が居心地悪そうに動いた。

「どこまでも目標の低いお嬢ちゃんだな、あんたは。上司にお披露目して満足しているんじゃあ、しばらくツレはできねえだろうよ」
「恋人が欲しくてお洒落をしたわけではないので、それでいいと思うんですけど……」
「志が低すぎると魅力がすり減るぜ、キティ」

 どう反応していいかわからなくなったは、複雑そうに眉根を寄せた。茂木の発言はいちいち遠回しだったり婉曲されていたりコミュニケーションの暴投だったりするが、こういう暇な時はいつも以上にとんでもなかったりする。特に恋愛についてをからかう時は、得意なジャンルだからより面倒くさい。
 は呆れながら、ちょっとだけ不安だったことをおそるおそる訊ねてみた。

「似合ってます?」

 茂木はの姿を見もしない。改めて確認するまでもなく、今日一日中そばに居てちらちら視界に入れてきたのだ。見なくてもわかったし、答えはレトリカルながらもひと言で済んだ。

「鏡の前で微笑むことも忘れていたような女の姿よりも、ショウウインドウに映った自分を見つけて胸を張れるような『そっち』のほうが俺は悪かねえと思うぜ」
「つまり……」
「似合ってるってこった」

 茂木がちらりと視線を遣ると、は言葉をゆっくり呑み込んでから、鳩が豆鉄砲を食ったようなその顔にぱっと朱を散らした。
 自分から訊ねておきながら、ここまで褒められるとは思っていなかった。はじわじわと首の辺りから耳にかけてが熱くなるのを感じた。いたたまれなくなってちょっと俯き、ああ返事をしなくちゃな、と思い至って茂木を見る。
 男性から面と向かって褒められることなど人生で数えるほどしかなかったので、免疫が少なすぎて対応しづらい。
 だが、だんだん照れが喜びに切り替わっていった。この審美眼の鍛えられていそうな探偵からお墨付きをもらえたのだから、本当に似合っているのだろう。自分ではわからなかったけれど、こういう恰好をするのもたまには悪くないのかもしれない。
 恥ずかしさの内側からこみ上げた喜びを表情にのせると、とても照れくさそうな笑顔が花開いた。

「ええと、あの。……ありがとうございます」

 その笑顔は、初めてと会った時から今までで、一度も茂木が目にしたことのない種類のものだった。
 煙草に火をつけたはいいものの、深く吸い込む気になれない。侵食するように燃えていくそれの灰を緩慢な動きで灰皿に落とし、「この探偵事務所の雰囲気ってモンもあるからな」と言った。
 言ったはいいが、本心ではないなと自ら気づく。何か他に言いたいことがあるはずなのだが、洞察力と言葉に強い茂木であっても、苦いほど素直な言葉しか浮かばなくて歯噛みする。修飾で隠すうまい言い方を咄嗟に思いつけなかった。

「あー……」

 お互いに発言を見つけられないまましばらく見つめ合い、気まずさに目を逸らしたのは茂木のほうだった。

「掃除が終わったら帰っていいぜ」
「え、あ、はい。もうすぐ終わるので、そうしたら帰りますね」

 はハッと我に返り、取り繕ったようなぎこちない笑顔で、耳を赤くしたまま床を見た。
 無心で掃除機をかける横顔を自然と目で追った自分に気がつき、茂木は自分に心底うんざりしたような顔で煙草をもみ消した。




 一方も、帰路につきつつ一日を振り返って硬直した。

「……私、もしかしてとんでもなく恥ずかしい発言をしたのでは……」

 往来にもかかわらず、うっかり口に出してしまったほどだ。
 もう明日から茂木さんの顔を見られないかもしれない、と心底から後悔した彼女は、後悔の気持ちをぶつけるべく、手捏ねのできるハンバーグを夕食に決めた。





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20150622