押しかけ探偵事務員の受難


38


 晴れた日のことである。何か問題が起きる時はいつも晴れているような気がして、雨の日よりも太陽がさんさんと輝く日のほうがの憂鬱を買うようになった。否、正確にいうならば、晴れだろうが雨だろうが、専用の着信音を設定したコナンからの電話が鳴るたびにびくついている。ただ太陽が目立つだけで、本当は、天気に罪はなかった。
 だがこの日の『晴れ』は洗濯物をよく乾かしてくれる善良さを持っていたので、気分が良くなったは誘われるまま薄らご機嫌で、少し恐縮しつつも、バルコニー席の一席におさまった。有名な歌手のコンサートに誘われたのだ。透き通る歌声は一聴の価値があるそうで、その手の話題に詳しくないでもどこかで名前を聞いたことがあるような気がした。

 途中で席を立ったのは、明かりが切り替わる際に腕時計が目に入り、「しまった」と思ったからだ。お気に入りの、どうしても手に入れたいシリーズの本の発売日がこの日だった。それはあまりにも人気なので、発売発表があると公式サイトのサーバーが落ちてしまうほどで、普通に購入できるようになるまでは、だいたいが一週間を要した。
 は待ち切れなかった。どうしても手に入れたい。できれば明日、読みたい。最近は探偵事務所にも依頼人が入らず、平和な勤務が続いている。休憩時間に事務所で読むぶんには叱られないだろう。
 当日に購入ボタンを押せば翌日の朝には確実に届く素晴らしいシステムを狙って、はいそいそと席を立ち、携帯電話の電源を入れた。端末からサイトにアクセスして、画期的なサイトで注文してしまうつもりだった。
 外は晴れなのかなあと、読み込む途中でふと考えたのがいけなかったのか。
 あとはカートに入れて決済するだけ、というところで、すごく重要な順序を踏む直前に、電話が鳴った。
 マナーモードにしていたので音は鳴らなかったが、電話をかけてきた人物の名前が目に飛び込む。『江戸川コナン』だった。

「あ、はい、もしもし」

 仕方がないので、廊下の隅で小さな声で応える。そそくさとロビーに移動し、通話可能なエリアの椅子に落ち着いた。

 江戸川コナンはとても焦っていた。携帯電話も何もかも通信手段は奪われていたが、幸いなことにイヤリング型の小型携帯電話だけはポケットの中にしまわれたまま見逃されていたらしく、それを使って110番に連絡し、なんとかヘリによる救出を要請できた。そこまではいい。
 だが公演を見ている最中の『大切な人たち』は当然、携帯電話の電源を切っている。注意を促し、せめて彼女らだけでも脱出を計らせるなどということはならず、悔しさと焦燥から唇を噛んだ。
 片っ端から、電源が落ちていることを確認するために電話をかけた。もしかすると、と期待があった。
 そして、四本目の電話で。
 蘭、阿笠、哀、。四人にかけた中、最後のひとりだけが電話を取った。

「あ、はい、もしもし」

 そのいらえを聞いたコナンの安堵は、にははかり知れないものだった。

 に戦慄が走る。戦慄、というキーワードからは何も思い出さなかったが、薄ぼんやりとこの出来事に関する知識が蘇ったような気がした。歌手の名前を知っているように感じたのは、もしかするとこのせいか。
 コンサートホールには爆弾が仕掛けられているらしい。今、たちの命はひとりの殺人犯に握られている。スイッチひとつで、彼女たちは木端微塵になる。あるいは圧死か、焼死か。いずれにしても笑えない冗談だ。
 ――大人しく歌に耳を傾けるのも悪くねえが、今はそういう気分じゃねえ。
 そう言って災難を逃れた茂木を、彼はまったく悪くないのに、ちょっぴり恨めしく思っただった。
 声が震えないように細心の注意を払う。コナンが百戦錬磨の探偵だとしても、大人として動揺を見せるわけにはいかない。相手は子供だ。元の身体に戻ったとしても、高校生。より何年も後に生まれた、年下なのである。たとえ貫録で負けていたとしても。にはくだらないと笑われそうな、ちっぽけな矜持のようなものがあった。
 コナンはが思いの外しっかりした声音で返事をしたことを意外に思った。『弱々しい一般人』という認識を改める。いくつもの事件を乗り越えてたくましくなったのかもしれない。少なくとも、初めて殺人事件現場で目にした時より、ずっと肝が据わっていた。
 だからこう言う気になれた。

「阿笠博士に伝えて、蘭たちと客を避難させるようにしてくれ!」
「ここのお客さんを全員? それは現実的に考えて無理だよ。それならコナン君が来て、爆弾犯を止めたほうが早い」
「止める、つもりではある。だけど危険は冒したくない」
「でも、今、この状況を考えてほしい。今はコンサートの途中で、お客さんは本当にたくさんいる。そこで突然、退室と避難を促したら、大混乱が起こって犯人に勘付かれる。そうしたらもっと悪い状況になるかもしれない。犯人は……」

 ここまで言って、は唇を舐めて湿らせた。続けて良いのか、わからないけれど。
 焦れるコナンを納得させるには、もっともらしいことを言わなければいけない。
 は決意を固める。

「犯人は、もしかするとこのホールを爆破することも、観客たちが巻き込まれて死ぬことも、どうでもいいのかもしれない。爆破はカモフラージュか何かで、誰かひとりを殺したがっているのかもしれない。その人まで避難することになったら、本当にどうなるかわからないよ」

 ABC殺人事件みたいに、とがあまり的を射ないたとえを出したので、コナンは冷静になった。
 そうだ、とイヤリング型の携帯電話をおさえる。の息遣いまでが聞こえてくるようだった。コナンの深呼吸も、おそらくに伝わるだろう。

「ごめん、さん。俺が……、すぐに止めるから」
「うん。蘭ちゃんたちは、どうする?」
「……できれば外に、出してほしい。だけど、……バルコニー席だったよね。犯人は会場全体を見渡せる場所にいると思う。一気に大人数が退室したら怪しまれる」
「じゃあ、このまま待ってる。哀ちゃんと阿笠さんには伝えるけど、いい?」
「うん」

 コナンとはほとんど同時に、こう言った。

「よろしくね」

 声が重なり、場違いにもはわずかに笑った。恐怖が高まりすぎて、心のバランスがちょっぴり崩れた証だった。
 電話を切って思い出した通販サイトでは、見事に本が売り切れていた。

 コンサートが無事に終わるころには、は背中にじっとりと汗をかき、心臓がばくばくと強く脈打ち、顔色も真っ青で貧血を起こしかけていた。もちろん、演出の為に照明が落とされているので誰にも気づかれなかった。明かりがついてもホール全体の色調にまぎれて、の不調はばれないままだったけれど。
 無事に演奏が終わったということは、コナンが事件を解決したのだろう。演奏中に哀が元太からリコーダーを奪って何かしていたし、とどっと疲労が襲い来るのを感じた。
 あとは犯人が動機を語ったり、警察が手錠をかけたりするだけだ。
 哀はが事情を打ち明けた時、「あなたの判断は間違ってないわ」とフォローのようなことをしたので、ぱちりとふたりの視線が合った機会を逃さず、小さく頷いて見せた。小学生を相手に、誰が見てもなよなよしいと言うであろう表情を見せたに、壮大な演奏の終わりにはそぐわない笑みを浮かべる。
 本当に、悪くなれないひとなのね。
 そう感じて、哀はほんの少し、に対して心の扉を開いた。
 疲れを感じさせない足取りで、刑事たちと共に駆け寄ってきたコナンが、額の汗を手の甲でぬぐって全員の無事を確かめ、ほうっと息を吐く。
 それからに手を伸ばし、注意をひいた。

さん、ありがとう」

 一瞬、お礼の意味がわからなかったは、首を傾げた。彼女の認識では彼女自身は何もしておらず、ただ事態がうまく進行しますようにとコンサートそっちのけで祈り続けていただけなので、感謝されるいわれが見当たらなかった。
 の様子に、コナンは目元を緩めて細く、吐き出すように笑った。

「私のほうこそ、ありがとう、コナン君。知らないままでいたい気持ちはすごくあったけど」

 やっぱりハードボイルドで皮肉屋なあの探偵の影響を受けているのではないかなとコナンは思った。

「でも、しっかり助けてくれて。本当にありがとう」

 どう返事をしようか迷ったコナンは、結局なにも言わなかった。それが正しい気がした。
 ただ手のひらを広げ、の手を掴んでささやかな握手を交わした。

 こうしての波乱万丈なコンサート鑑賞は終了した。
 気がそぞろでほとんど耳に入らなかった音楽を聴きなおそうかと、会場内で売られていたCDに手を出しかけたが、嫌な思い出がまざまざと思い出されそうだったのでやめておいた。
 また何かあったら誘いますね! と園子に言われたは、うっと一度ひいてから、引きつった声で「ありがとう」とお礼の言葉を絞り出した。

(できればコナン君のいない時に……)

 絶対に無理だろうなとわかっていたので、儚い希望を抱くことは早々に諦めた。





main
Index

20150622