押しかけ探偵事務員の受難


37


 茂木は片眉を器用にしかめた。

「ルチアーノ?」
「はい。そういう名前のひとが今、来日してるみたいです。コナン君から聞いたんですけど……」

 コナンから連絡が入ったのはつい先ほどのことだ。事務所から出たところでいくつか言葉を交わして質問もされたが、は何も知らなかったので、茂木に問い合わせることにした。
 茂木はしばらく記憶の糸をたぐる。どこかで聞いた名前だ。つけっぱなしのハンディテレビから陽気な音楽が流れ始め、ようやく「ああ」と合点した。

「イタリアかどっかのプロデューサーみてえなやつさ」
「そうなんですか」
「どこでどうやって会ったかは訊かねえんだな」
「訊かれたくないかなと……」
「後ろ暗いこたあ何もねえ。前に話した、シカゴでの事件にそいつが一枚噛んでたんだよ」
「えっ、じゃあ……犯罪者なんですか?」
「潔白じゃあないだろうよ」

 大きな情報を手に入れてしまった。
 詳しいことはコナンから説明されなかったが、何かの事件を追っていることは確かだ。そうでなければに――否、の背後に構える茂木にこんなことを問いかけはしないだろう。ルチアーノという名前のひとを知ってる? そう言われて外国の横文字の名前に戸惑ったのはつい先ほどで、まだあのときの困惑が胸に残っている。
 どこかで耳にした名前だとは思わなかった。はその人物の名前をすっかり忘れていたのだ。
 だから、その名前が意味するところをまったく察せなかった。

 外回りに出かけた茂木は、途中での携帯電話に電話をかけた。ちょうど依頼人が依頼内容をまとめ、事務員であるの両手を握りしめて「お願いします」とむせび泣いて帰ったところだったので、どこか疲労を感じながら受話のボタンを押す。声に疲れが出たのか、茂木は二言三言、心にもなさそうなねぎらいの言葉をかけてから本題を切り出す。
 急きょ、仕事が入ったらしい。
 茂木が各方面に持つなかでもひときわ強いパイプからのものだそうで、そのあたりはぼかされたが、聞くところによると警察内部と関わりがあるらしい。捜査何課が何を担当しているのか、は『一課』以外はわからなかったので詳しく聞こうと姿勢を正した。
 茂木はが神妙に頷きながら自分の話を聞いているのだろうなと想像して、場違いにも口角を上げて笑った。
 敏腕探偵にこっそり情報を横流しした『捜査二課知能犯捜査係』の捜査員によると、今この日本にはふたりの大型怪盗が揃っているらしい。
 ひとりは知る人ぞ知る、などとはとても言えない、一大スター扱いされ一面を彩る気障なシルクハットの紳士、怪盗キッド。
 そしてもうひとりは。
 は自分の思考がぴたりと硬直するのを感じた。話だけは、わかる。そんなものもあるんだなあと思った記憶も、なんとなくある。だが実際に話を聞くと、その衝撃たるや。

「……ルパン三世?」
「知らねえか?」
「知ってます、けど……、その……、……冗談ですよね?」

 茂木は呆れたように「おいおい」と言った。もちろん、冗談でないことはちゃんとわかる。も否定して欲しくて言ったのではない。ただ動揺しただけだ。
 ルパン三世が来日したという話はあまり広まっていない。極秘ほどではないが、かん口令が敷かれていた。それくらいは当然だ。
 の頭の中をめまぐるしくめぐる単語があった。

「……ルパコナ?」
「あん? 悪い、電波が弱いらしい」
「いえ、なんでもないです。それで、茂木さんが頼まれたお仕事というのは?」

 あわてて取り繕い、話を本筋に戻す。もともと横道にそれていたのはだけだったので、茂木はそのまますらすらと、昼食の献立を読み上げるようによどみなく続けた。つらつらと流れる『依頼内容』の説明に、はちょっとだけ心をワクワクさせた。
 茂木はルパン逮捕を裏から支援するよう頼まれたのだという。
 ただ彼曰く、茂木の相手はコソ泥ではない。コソ泥相手では体も心も錆びついてしまう。それが茂木の弁であり、積極的に請けるつもりはないようだった。
 しかし熱烈に希望され、まさにがついさっき依頼人にされたのと同じように両手を握りしめられ、涙ながらに懇願されては断るのもしのびない。を仕事場に受け入れてから、面倒な事柄に対する耐性がかなりついたのか、煙草のフィルターを噛みつぶした茂木は仕方なしに協力を決めた。といっても、独自に捜査して手に入れた情報を横流しする程度の働きだが、藁にも縋りたい捜査二課の何某にとっては救いの声に聞こえたのだろう。「ありがとう! ありがとう!」と言った声がまだ耳に残っていやがる、と茂木は可愛らしくないことを言った。
 そうですか、とは電話を切った。そのまま、ぼふりと脱力してソファを軋ませる。

(ルパコナ……)

 まさかルパン三世とコナンが対決する、アレにぶち当たるとは。
 しかもそれに茂木が関わることになるなんて。
 彼女は遠い目をしてぼうっとしてから、思い出したように茶器を片づけた。

 だが実際に関わったのは、のほうだった。
 街中でどん、と誰かにぶつかる。咄嗟に「すみません」と謝ってから、どう考えても向こうからぶつかってきたよなあと思い釈然としない気持ちになる。謝ってしまったものは取り返しがつかないのでそのまま通り過ぎようとした、その時に。

「待ちな、お嬢ちゃん。それにそこの、君さあー」
「え?」

 肩を掴んでを引き留めたのは、細身の身体に目立つジャケットを羽織った日系の男だった。
 男はもう片方の手で、にぶつかった大柄な男の腕をとらえる。細い身体に似合わない力強さにひるみ、つかまえられた男は狼狽した。

「その右ポケットにしまったモン、お嬢ちゃんに返してやりな」
「な、何のことだよ? 言いがかりをつけるんなら」

 細身の男はにやりと、悪い笑みを浮かべた。

「素直に返せば見逃してやるよ。……なあ、日本の警察って怖いぜ?」

 催促するように腕を振った男を前に、は何が何だかわからず目を白黒させる。
 大柄な男はやけっぱちにポケットから、とても見覚えのある携帯電話を取り出した。

「あっ、私の」
「これでいいだろ、放せよ!」
「ああ、オーケーオーケー。んじゃあーな」

 素直にスリを解放してしまった男に驚愕する。スリは今までのやりとりを吹き飛ばすように、つんのめりながら走って逃げた。
 残されたは、彼の後姿が消えるまで茫然と見送ることしかできなかった。
 細身の男がの肩を優しく叩いた。スリに向けていた時とはまったく違う、優しげな、言い聞かせるような声音で話しかけ、の顔を覗き込む。彼女の瞳には人好きのする陽気な笑顔が焼き付いた。

「そんなカバンの盗りやすぅいところに大事なモンを入れちゃあいけないぜ」
「あ、はい、あの……すみません、ありがとうございました!」

 携帯電話がなければ何もできない。データを売られれば人生で最高に焦って、絶望したことだろう。あ、いや、絶望の度合いで言えば、もう少し上位にランクインする出来事がたくさんあったような気もするけれど。は男から携帯電話を受け取り、きちんとカバンの中にしまいこんだ。
 満足げにうんうんと頷いた男は、の身体を素早く、頭のてっぺんから靴の先まで眺めた。なかなか可愛い女の子だ。まだ大学生ぐらいだろう、とあたりをつける。日本人の女性は時に童顔に見られるし、の年齢も大幅に外れているわけではないので、彼の見立てはおおよそ正しかった。

「なあお嬢ちゃん、これから俺とちょーっとお茶でもどうかな?」
「……えーっと、すみません。今、手持ちがないので」
「奢るぜそれくらい。なあ、俺ぁ最近日本に戻って来たばっかりでさあ、可愛いオンナノコとお話がてら最近のニュースについて色々と知りてえのさ」
「私じゃないほうがいいのではないでしょうか。あまり、世の中のことに詳しくないですよ」
「お嬢ちゃん、名前はなんての?」
です」
「下の名前」
ですけど……」
「んじゃあちゃん。憐れな俺を助けると思って、30分だけでも! いいだろ?」

 太陽のような笑顔が、をほとんど無理やり喫茶店に引きずって行った。

 何をするでもなく、無難な紅茶を選んでちまちまと飲んでいく。男は、明らかにいま適当につけました、と表す態度で、にこにこしながら偽名を名乗った。
 世間話でもしようぜと持ち掛けられたので、は苦心したうえで、こちらも紅茶と同じく無難に最近流行りのニュースを口にした。

「えーっと。……怪盗キッドって、ご存知ですか?」
「ああ、日本の怪盗だろ? 年齢不詳、センセーショナルな気障なヤツだって聞いたぜ」
「その怪盗が怖がる唯一のひととして、日本の新聞に知り合いが載ったことがあるんですよ。なのにどうしてか、新聞の一面まで飾っておいて、世の中にはあまり名前が知られていないみたいで。皆さん、あまり興味はないんでしょうかね」
「ふぅん。まあ、目立ちたくないって気持ちは読者にも伝わるんじゃあねえのかな。意外と人間ってのは敏感なんだぜ」
「そういうものなんでしょうか」

 次には、男――サブロウと名乗った――の飲み物に目を向けた。アイスコーヒーだ。アイスコーヒーと言えば、やはりあの少年である。

「そのひともアイスコーヒーが好きなんですよ」
「へえ?」
「はい。……でももう、目立ちたいとか目立ちたくないとかは関係なく、その人にかかったらきっと世の中の怪盗はずっとひやひやすることになるんだろうなって思ってます」

 ここで彼女は、少し前の茂木との会話を思い出した。
 笑い話のつもりで、軽く口にする。

「怪盗キッドで無理なんだから、たぶん誰も彼の目からは逃れられないですよね」

 男は大げさに肩を竦める。
 頬杖をつき、面白そうに目を細めてを見た。

「いんや、そうとは限らねえんじゃねえかな?」
「え?」

 面食らったは、含むような男の笑顔にぶち当たった。

「人が良さそうだからちょーっとイイコト教えてやるけどさ? 実は俺様もセンセーショナルな怪盗なんだぜ。それも、キッド様よりも凄腕の。キッド様よりも、す、ご、う、で、の。……探偵なんかメじゃねえぜ?」
「はあ」
「名前くらいは聞いたことあンだろ? ……ルパン三世、って」
「……ルパン……って……」

 は改めて、男のジャケットを見た。派手! といった色づかいで目にも鮮やか。ネクタイをきちんと締めているのに、きっちりした印象は受けない。表情が笑顔だからだろうか。
 ルパン三世、と頭の中で復唱する。
 その名前って、もしかして、茂木さんが追いかけている?
 あの、ルパン三世?
 表情をこわばらせたに、サブロウと名乗っていたルパンはわざとらしく落ち込んだ顔をした。

「通報しちまう?」
「あ、いえ……、そこまでの度胸はないので……」
「そりゃあー助かるぜ」
「でも、……色々と訊いてもいいですか? その……」

 ルパンはが何を言い出すのか、興味深げに眺めた。も自分が何を言い出すのか、口だけが勝手に動いているような不思議な感覚を味わう。茂木の役に、僅かにでも立てればいいなという気持ちがを突き動かした。……ような気がした。ただ、好奇心が勝っただけかもしれないが、は自分にそれだけの度胸があるとは思っていなかったので、目の前にあるあからさまな理由をバリケードにして、ルパンに質問を投げかける。

「好きな食べ物って何ですか?」
「んん? そりゃまた奇妙な質問だけっど」
「ダメですか? 友人に……ルパンファンがいるんです」
(……嘘が下手なお嬢ちゃんだな、こりゃまた)

 そうではないのだろうなと予想はできたが、可愛らしい女を無碍にするわけにもいかない。冷汗を隠して紅茶を飲み、「アイスティーにすればよかった」と言いたげな顔をしているに可愛らしさを感じたのもある。焦る女性の姿はだいたい、可愛く見えるものだ。
 ルパンはいくつか食べ物の名前を挙げた。極限の空腹状態で食べたミートボールのスパゲッティの話をする時は、口の中に味すら蘇ってきたくらいだ。そういえば空腹だったかもしれない。店員を呼んで、軽食を注文する。テラス席にはすぐに料理が運ばれてきて、勧められたも付き合いの意味を込めて、ひと口サイズのサンドイッチを頬張った。
 ルパンの回答をふむふむと聞いたは、次にまたとりとめのない質問を何度かした。そのたびにルパンは丁寧に答えてやった。決して暇ではないのだが、息抜きも大切だろう。どうせ昼間に動く予定は、まあ、あまりない。
 はルパンの忙しさを知っているかのように、言葉少なに、手短に問いかけを済ませると、ちらりと横目で伝票を見て財布を取り出した。
 ルパンはそんな彼女を制止し、伝票を取り上げる。

「女の子に払わせるわけにはいかねーなぁ。男の見栄っ張りとでも思って任せな、お嬢ちゃん」
「はあ」

 『お嬢ちゃん』と呼ばれるのにもすっかり慣れてしまった。誰の影響かは、言うまでもない。
 おかわりの紅茶まで頼んだルパンは、アイスティーを渡されてしまって動けなくなったにウインクを残した。

「んじゃ、また。どっかで会えたらその『ガキンチョ』の話でもして茶ぁしばこうぜ」
「は……」

 ルパンは笑って、に背を向けた。
 そして数歩歩いて、「ああそうだ」と振り返る。

「簡単に、知らないオトコに名前を教えちゃあダメだぜ、ちゃん」

 一瞬、何を言われたのかわからなかったが、ルパンはそれだけ言い残して本当に店を出てしまった。テラス席とは反対側の方へ歩いて行ったので、はもう彼の姿を見ることはできなかった。
 今さらながらに動揺がを襲う。何をやっているんだ、私は。自問しても答えは出ない。勢いと場の空気にのせられるままに色々と余計なことを喋ってしまった気がする。『ガキンチョ』と言ったということは、が世間話として誰の話をしたのかもわかっているのだろう。そういえば面識があるのだったか。『エミリオ』という名前のアイドルが日本で公演を行うというニュースがあったから、たぶん、もう初対面の一戦はずいぶん前に交えたあとなのだろう。
 深くため息をついて、紅茶にガムシロップを溶かした。
 ルパンに取り返してもらった携帯電話を開き、メールの画面を呼び出した。宛先は茂木である。

 から届いたメールに、茂木は思い切り首を傾げた。

「『ルパン三世が最近お気に入りのグラドルは』……?」

 その後には女の名前が続いている。
 他にも、『好きな食べ物』や『おすすめの観光スポット』『今までで一番驚いたこと』など、女子同士が交換するプロフィール帳に記載されているような情報ばかりが並べられている。
 いったいどういうことかと電話をかける。
 ルパンに会った、と言ったに、茂木はさらに脱力した。

「あんた、探偵には向かねえが助手には向いてるぜ」

 二拍ほどの沈黙。
 女の声が心なしか低く、窺うようなものになった。

「褒められてるんですか?」
「どうだかな」
「……褒められてるって思っておきますね」

 はいつもと変わらぬ、少し気の抜けた声を残して電話を切った。
 茂木も事務所用の携帯電話をポケットにしまう。依頼はこういったものを求めているのではなさそうだったが、伝えてみるのも悪くないだろう。せっかく秘書が手に入れてきた情報なのだから。
 それにしてもおかしな問題にばかり巻き込まれるやつだな。
 殺人事件に巻き込まれて職を失ったところから始まり、旅行先では事件が起こり、出席したパーティーでは爆弾騒ぎで危うく死にかける。茂木の依頼に付き合ったかと思えば爆死を装わされたり、ずいぶんと忙しいではないか。

(なんか悪いモンにでもやられちまってるんじゃねえか?)

 実際に『ヤバイ』のはではなく、ほぼすべての事件に関連しているコナンの力が大きい――とは思っている――のだが、当然、茂木にはわからない。
 真剣に、本人ですら気づかないうちにを心配し始めた茂木だったが、結局その『心配』の気持ちがに直接伝えられることはなかった。





main
Index

20150621