押しかけ探偵事務員の受難


36


(ほ、本当に来ちゃった……)

 高速でびゅんびゅん飛ばし、景色を流し、ガソリンを消費して、と茂木は何度目かになる神奈川の地を踏んでいた。
 コインパーキングに停めるのはどうにも茂木の趣味に合わないので、少し遠回りになるが、目当ての店が有する駐車場に車を回す。その店は全体の雰囲気を損ねないよう、武骨な砂利の駐車場を何軒か離れた場所に用意していた。店を訪れる人びとはだいたいが空腹を抱えているので、面倒がって目の前のパーキングに停める。それなので、私有のそこはがらがらだった。
 がらがらなのを良いことに、車に凭れかかって仕事後の一服をする。車の中で思い出したように店に予約を入れたので、席が埋まる心配はしなくていい。
 は茂木に付き合って、手持無沙汰に携帯電話をいじった。悲しいことに、誰からも連絡は入っていない。
 薄暗い神奈川の一角に、煙草の火がちかちかと点っては勢いをなくす。煙が吐き出され、鮮烈に燃えた灰がパラパラと風に流された。
 車に乗り込んでから今まで、と茂木の間に目立った会話はない。
 だが不思議と居心地は悪くなかった。は茂木の車の助手席に何度もおさまったことがあるが、最初の緊張を乗り越えてからは、無理に話題を捻り出さなくても良い気がして、黙って窓の外を眺めていられた。あるいは、携帯電話をいじって小説を読む余裕ができた。文字を流し読みするうちに乗り物酔いを起こしてしまって、こっそりぐったりしていたのは秘密だ。茂木にはばれているかもしれないが、ちょっと自業自得すぎるので申告できなかった。それでも、察したか、偶然か、長旅になるからと茂木がコンビニに立ち寄ったのには助かった。冷たい水を飲み、少し気分が落ち着いた気がする。あれがなければ、この先に待つ食事の味もわからなかっただろう。
 茂木が煙草の吸殻を、車の灰皿に捨てる。窓を閉め、鍵をかけ、脱いでいた帽子をわざわざかぶり直して、彼はをいざなった。どうせ店に入ればすぐに脱ぐというのに、とは思った。
 いくつか角を曲がり、見えた店の扉を開ける。茂木がをエスコートするように動いたものだから、はびっくりしてしまう。そういえば、いつもこうして優先してもらっていた。それほど意識していなかったが、今日は妙にどぎまぎした。
 恐縮した様子のを見て、茂木が呆れた顔をする。

「なんだ、急によ」
「い、いえ、ちょっと……」

 下手くそにはぐらかし、案内された席につく。茂木が荷物を店員に預ける動きは手慣れていて、経験を感じさせた。
 色々な店を知ってもいるし、やはり四十路の貫録か。
 のしみじみした視線に、茂木は胡乱に目を細めた。

「おい、おかしなことを考えてるんじゃあねえだろうな」
「はい?」
「伊達に歳は食ってねえな、って言いたげな顔をしていやがるぜ」
「えっ、すみません、よく『嘘がつけないね』って言われるんです」
「なかなか言うようになったじゃねえか、仔猫ちゃんが」

 食前酒を勧められ、流されるままにメニューを見たは、ハッと気づく。

「すみません、茂木さんは飲めないのに。あの、私もやっぱりいらないです」
「別に、飲んどきゃあいいだろう」
「でも……」
「何を飲もうが飲むまいが、給料から引く額は同じだ」
「や、やっぱり引くんですか」

 などと言いつつ、実際に天引きされていたことはない。――はずだ。
 はウエイターの優しげな笑みに後押しされ、いくつかオーソドックスな食前酒の名前を教えてもらった。

(キール、マティーニ……、シェリー)

 なんだか色々と際どい名前の酒が多い。それもそうか、とは唇を引き結んだ。酒の名前をもじっているのだから、おかしいことはない。
 頼みづらいなあと思ったので、「特に一般的なものはこちらですね」と最後に勧められたシャンパンを選んだ。
 口当たりの良いシャンパンを胃に流し込む。茂木はガス入りの水を飲んだ。
 仕事に関する話をいくつかするうちに、料理がテーブルに並べられる。はひとつひとつに舌鼓を打ち、茂木はそんな彼女を面白そうに見る。

「相当に飢えてたみてえだな」
「あ、いえ……すみません、がっついちゃって……」
「それくらいうまそうに食ったほうがメシも幸せだろうよ」
「茂木さん……」

 珍しく皮肉の混じらない褒め言葉を投げかけられ、はほうっと息を吐いた。その直後に「見ててもおもしれえしな」と付け加えられて口元が引きつった。

 ひと通りメニューの順序が進み、メイン料理の肉を切り分ける茂木と、魚をばらすは、自然と言葉数が少なくなる。おいしいものを食べる時に集中してしまうのは、誰でも同じらしい。ただ時おり、茂木が『ハードボイルド』に料理を褒めてをはらはらさせた。
 パンをむしり、あ、と思いついたことを訊ねてみる。そういえば、なぜと茂木が神奈川くんだりまでやってきてこうしてテーブルを共にしているのかというと、恋愛話がきっかけだった。がうっかり上司をデートに誘ってしまったものだから、こうなっている。

「茂木さんに恋人さんはいらっしゃらないんでしたっけ」

 多少、性格が濃ゆくても、ちょっぴり言葉が回りくどくても、かなり芝居がかっていても、気配りの出来る良い人だ。凛々しい顔つきでもある。――ような気がしなくもない。に人の美醜を判断するだけの自信はなかったが、悪くはないと思う。
 茂木はが下した評価には気づかず、「今日の天気は晴れだ」と言うのと同じトーンで、「燃えるような事件が俺のパートナーだ」などとうそぶいた。

「そうなんですね」
「盛り上がらなくてつまらねえって顔だな」

 白けた顔をするに、思い出したようにこう言う。

「メシに飽きて暇してるんなら、ボーナス代わりにひとつ、食休みのタネに話でもしてやろうか」
「……ええー……、飽きてないですよ……」
「興味がねえなら止めるぜ」
「なくはないです」
「回りくどい言い方は悪くねえが、今の空気にはそぐわねえな」

 は心外そうな顔をした。あなたには言われたくないんですけど、と言いたげなそれに、茂木はくつりと笑う。
 デザートのティラミスとクレームブリュレを食べるよう促し、茂木は簡単に要点をまとめた。

「ちょっとした事件を追ってシカゴに行った時の話だ。大して喉は渇いてなかったが、つかず離れず、悪くねえ距離感で接してくるシニョリーナが居てな」
「シカゴって……アメリカですっけ」
「ああ、そうだぜ」

 茂木は自分の皿からクレームブリュレの器を取り、の皿に置いた。今は甘い物の気分ではないらしい。

「で、だ。簡単な話、その女は俺が追っていた事件の犯人だった。何となくンな気がしてたんで、明かりを消した真実の匂いが漂う部屋で俺の推理を話したら……」
「話したら?」
「撃たれた」
「え!? 撃たれた!?」
「ずいぶん前の話だ」

 『昨日、今日は出かけるって言ってませんでしたか?』『フン、そんな昔に言ったことは忘れちまったな』という会話を茂木と時どき繰り返すは、『ずいぶん前の話』を茂木が語ったことにまず驚いていたのだが、さらに衝撃的な言葉が飛び出し、とうとう素っ頓狂な声を上げた。

「声がでかいぜ」

 たしなめられ、羞恥で頬を染める。

「あの、……大丈夫なんですか、傷とか」
「問題があったら今も病院に縛りつけられてるだろうが」
「で、ですよね」

 あまりにもスケールの違う話に心臓がばくばく言っている。
 茂木はティラミスをたいらげた。

「早く食わねえと帰る頃にはテッペン超えちまうぞ」
「あ、はい、すみません」

 はまったく悪くないのだが、勢いにおされて慌てて手を動かす。
 そんな燃えるような事件が茂木の恋人。
 なかなか、デンジャラスな付き合いをしているようだ。

「人間に興味はないんですか?」
「奇妙な言い方をするんじゃねえよ」

 茂木は水を飲んだ。
 茂木が眼鏡にかなう女性を見つけていないだけで、条件が合えばその限りではない。興味がないわけではもちろんないのだ。現に、恋人としてではないが、付き合いのある女性は何人かいた。
 茂木のペースについて来られて、一緒に居て不快ではなく、自分の芯を持ち、前を見て生きる力がある人間に好感を抱く。同じ仕事でなくてもいい。人として魅力があり、まるで難解な事件を追っているかのように高揚と知的好奇心が満たされる人物であれば最高だ。
 そしてそういった女性に巡り合わないので、今現在、茂木はひとりを貫いていた。
 ただそれだけの話だ。
 かいつまんで解説してやると、は「へえ」と相槌を打った。

「良い人が見つかるといいですね」
「あんたもな」

 言い返され、は「うぐ」とうめいて、ティラミスの最後のひと口を口の中に閉じ込めた。





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20150615