押しかけ探偵事務員の受難
35
やることがなくなってしまい、と茂木はほとんど同時に時計を見た。針は午後四時を刻んでいる。終業時間まではまだしばらく時間があった。
使い切りかけたマヨネーズのチューブから最後の一滴を絞り出すように、何とか仕事を見つけ出して細々と作業をしていただったが、書類の角をきちんと整えてゆっくりゆっくり、精いっぱい時間をかけてホチキスで留める動きにも限界がある。が牛歩で、気まずそうに手を動かしているのを横目で見ながらパソコンに向かっていた茂木も、無理はないなと首を振る。今日は非常に暇だった。
閑古鳥というわけではない。茂木も午前中は外へ出て、ひとつの依頼をこなして来た。
だがそれも、茂木にしてみれば些細なものだ。
郊外に居を構える小さな館に突如、舞い込んだ謎の脅迫状。物々しい響きだ。
しかし行ってみれば何ということはなく、両親にもっと構われたい子供が必死に頭を働かせて考え出した悪戯だった。茂木にかかればこんな事件、真相を見抜くまでに三時間とかからない。さっさと解決して、気まぐれで一応、子供が強く叱られないよう弁舌をふるってやった。
事務所に戻ると、は「やることがないなあ」と言いたげな顔をしてソファに座り、紅茶を飲んでいた。
「おいおい、珍しいな」
見ていないところで仕事をさぼるとは、彼女らしくない。
そんな意味を込めてからかうと、は頬を赤くしたり青くしたり忙しく表情を変えてから、慌てて立ち上がった。
「あの、すみません、ちょっとやることがなかったもので……」
「別に叱っちゃいねえよ」
「そ、そうですか」
実際、どうでもいいことだ。茶を飲んでいようがいまいが、やることさえやっていれば茂木には何の文句もない。茂木自身、事務作業に飽きたら窓を開けて煙草を二本ほど喫う。コーヒーのおかわりも催促するし、留守をに任せてドライブに出かけることも、本当にたまにだが、ある。そのドライブの最中にほぼ必ずと言っていいほど事件が起こるので、茂木の暇つぶしはからは外回りに見えていたけれど。
茂木さんは凄いですね、と無条件な信頼を寄せられて、少しむず痒くなったこともある。
マグカップを片づけようとしたを止め、代わりにコーヒーを淹れさせる。その間にジャケットとハットをコート掛けにひっかけて、茂木の身体でさえもすっぽり包むような黒い革張りの椅子に身体を預けた。
はコーヒーカップを茂木の前に置く。缶コーヒーよりもこちらのほうが、やはり味がいい気がしてしまう。
(使ってる豆が違うしな)
見たままの印象どおり、茂木のこだわりは半端なものではない。
カップに口をつけた茂木を見て、もちまちまと水回りの整理を始めた。といっても、綺麗に整えるまでもなく、そこはすでにぴかぴかだ。シンクも磨かれたように新品同然の輝きを放っている。依頼人がひとりも現れなかったせいだった。
「暇だったか?」
「え、ええ、あの、まあ、そう……かもしれませんね」
雇い主を前に正直に暇だったと告白するのもどうなのか、と躊躇う。の内心を読み取り、茂木は「だろうな」と軽く頷いた。
パソコンの電源を片手で入れる。今回の報酬は後日、館の使用人が直接この事務所に持って来るらしい。振り込みでいいと言ったのだが、古風な館なりのやり方があるのかもしれない。
簡単な記録をつけようと、ファイルを新しくつくり、タイトルも入れないままテンプレートに打ち込んでいく。はしばらく、茂木の横顔を見つめていたが、はっと思い出したように顔を背けた。
(なんだか最近、茂木さんをよく見てしまう気がする)
勤め始めて数か月。ようやく、一国一城の主に対する余裕と興味が出てきたのだろうか。
何かが違う気もするが、それ以外に理由も思い浮かばない。とは違う趣味の持ち主だから、気になってしまうだけか。
はできるだけ丁寧に、ポストに入れられていたチラシを畳んでリサイクル用の紙袋に入れた。
午後四時を示す時計に、ため息をつく。
依頼人が事務所の戸を叩くのは、たいていが午前中か昼過ぎだ。この時間になると、余程のことがない限りチャイムは鳴らない。夜に向かう時間の中では、誰も薄暗いイメージのある探偵事務所には近寄らない。今日もそうに違いない。
だから茂木は、暇を持て余し居心地悪そうに紅茶にミルクを溶かす秘書にこう言ってやった。
「帰っていいぜ」
はあまりの自由度に目を丸くする。
「えっと……」
「やることがねえんだろう」
「ないです」
「目立った依頼もねえしな。今日はもう上がって、デートにでも時間を使やあどうだ」
なぜかは、急いで否定しなければいけない気になった。
「今はそういう感じじゃないです」
「そういやあ、いねえんだったな」
「……うう」
「あ? いるのか?」
「いないです……」
経験豊富な男からだからか、やけに言葉が突き刺さる。いなくても生きていけるじゃないか、とは内心で呟いた。恋人がいたって、を助けてくれるわけじゃない。今までの経験からいうと、そうだ。人と人とは本当の意味では分かり合えない。は今まで、あまり恋愛で良い経験をしたことがなかった。
ぼそぼそと、言うつもりもなかった言い訳を口にしてしまって後悔する。苦いものを噛んだように顔をしかめたに、茂木はただひとこと、「まだまだだな」と言った。
「まだまだですかね」
「信じてえと思ったことがねえんだろ。いっぺん死ぬほど誰かを好きになりゃあわかる。それとも、もう誰かに裏切られた後か?」
「いえ、まだ」
へんてこな会話だとは思った。
「そんな人が現れるんでしょうか」
「そいつは俺の知ったことじゃねえ」
「ですよねえ」
だが、と茂木は言葉を繋いだ。おかしな話題が盛り上がっていることに奇妙さを感じつつも、こちらも何となくだが、説教でもしてやるかという気持ちになった。
「現れるかどうかも大事だが、探すか探さねえかも重要だ」
「さがす」
「休憩時間にあんたがよく食ってる菓子。俺は詳しかねえが、新作を見つけてくるだろ」
「おいしそうなものがないかなと思って、チェックしてるので」
「そのくらいの気持ちで行けよ」
は首を傾げた。
「……もしかして茂木さん、恋愛のアドバイスをしてくれてます?」
「あんたのシケたツラは見飽きてるんでな」
自分の顔に手を遣ったから目を逸らす。まともな面構えになってきたかと思えば、急に気持ちが落ち込んだり、後ろ向きなことを言って元通りの辛気臭い顔に戻ってしまう。年齢特有のものなのか、性別ゆえか。茂木にはまったく縁のなかった感情の振れ幅の大きさにいちいち反応してやることもないのだが、同じ空間に居るからか、放っておけない。じめじめとした空気が事務所に蔓延して沈鬱さが生み出されるのが嫌なのだ。
ここは茂木の城で、はその一部だ。一部になったからには、ケアもしてやるべきだろう。
は「そうですか」と頷いた。
「……えっと、何の話をしていたんですっけ」
「帰ってデートでもすりゃあ良いんじゃねえのかって話だよ」
「ああ、そうでした」
アドバイスは受けたものの、すぐさま身になるかといえばそうではなく。アンテナを立てようにも周りに対象になりそうな男も居らず、は早々に恋人探しを諦めた。
「あっ、茂木さんがお仕事を切り上げて、デートに付き合ってくださったらいいのでは?」
「フン、上司を暇つぶしに使うたぁ良いご身分だな」
「ですよね」
なりに場を和ませようとしたのだが、やり方を間違えた気がしてならない。自分から言ったくせに、心臓が嫌な具合に音を立てた。
慣れない誘いはかけるものじゃないな。
帰る気にはなれなかったが、茂木の手前、ぎこちなく荷物をまとめるふりをする。
茂木はしばらく時計を見ていた。
「仕方ねえな」
「はい?」
立ち上がった茂木を見る。茂木は数時間前に脱いだジャケットを羽織った。目の前で唐突に起こり始めた衣装チェンジに目を白黒させるをよそに、茂木は手早く電話を留守設定に切り替えた。
「なにボサッとしてんだ」
「えっと……何をなさっているのかなって……」
「おいおい」
「それは私の台詞なんですけど……」
まさか乗るとは思わなかった。
途端に、『デート』などという気恥ずかしい単語を使ってやり返した自分が恥ずかしくなる。もっと別の言い方をすればよかった。否、そもそも血迷ったことを言うのではなかった。
顔が熱くなる。
まったく気にせず、茂木は窓に鍵をかけた。
「遠出するか」
車のキーをチャラつかせる。
は茂木に連れられて外に出た。
あれよあれよという間に車の助手席におさめられ、急かされてシートベルトをつける。じゃじゃ馬娘を宥めるように優しくアクセルが踏まれ、は「あの……」とか細い声で問いかけた。
「ど、どこに行くんですか?」
引きつったの顔が面白い。
茂木はフッと笑った。
「リクエストがねえなら神奈川にでも行くか」
「え!? なんでですか!?」
「うまいレストランがあるんだよ。さしずめ、疲れ果てたケモノが寄りつく最後の砦、ってトコか」
「何を言っているのか本当にわかりません」
の言葉は無視され、茂木の手が車のラジオにのびた。番組が切り換えられ、の心にはまったく染み入らない、陽気な音楽が流れ出した。
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20150612