押しかけ探偵事務員の受難
34
水曜日。
仕事に空きが出たので、は苦しくなるほど長く眠った。
目を覚ましたのは昼を過ぎた頃で、もったいないことをしたような気もしたが、身体も心もスッキリしている。
のそのそと掛け布団から抜け出して焼いた目玉焼きの味が染みる。とろりとした黄身はパンの上で崩した。
三日分の洗濯を済ませてしまい、気分が乗ったので部屋の中もきちんと片してみる。
聴きっぱなしだったCDはラックに。読みかけで伏せてある本はしおりを挟んで本棚に。ふわふわの掃除アイテムで埃を払い、ラグにコロコロを滑らせてシートを二枚ほど消費する。
それからうっすら汗をかいたので、シャワーを浴びた。
せっかくだから外に出かけて映画でも観よう。
そう思って、仕事のある日は身につけない、年齢相応の服をクローゼットから取り出した。
着ると首と鎖骨があらわになり、腕のあたりのレースがふわりとして少し透ける。
似合うかどうかがわからなくて、無難な服しか持っていない。ショップの店員と話すと世界が違うように感じてどうしてもびくついてしまうので、サイズが適当で他の服に合わせやすいものばかり選んで買ってしまうのだ。残念に思うが、センスがないので仕方がない、と自分に言い訳してばかりいる。
どうせなら、服も探そう。
不思議なことに、休みとなると気を大きくできる。毎日が休みのようなものだったあの時はつらくて仕方がなかったのに、仕事を手に入れた今は空白の時間がとても楽しい。
人生にはメリハリが必要なのかもしれない。
は久しぶりにそれを実感した。
なけなしのセンスでおしゃれをし、は家のドアに鍵をかけた。夜になると暗くておどろおどろしい雰囲気すらある玄関口だが、昼間はうそのように明るい。早く蛍光灯を取り換えてくれればいいのに、と思いながら、街のほうへ歩いてゆく。
もはやトラウマになりつつあるラーメン屋の近くを通る。駅への道はがらがらだった。水曜日の昼過ぎなので、学生や社会人たちのランチタイムも終わり、日々のルーチンに戻ったあとなのだろう。時どきスーツ姿の人々とすれ違うのは、営業回りのサラリーマンだろうか。忙しそうにとすれ違い、暑いのか、ジャケットを肩にかけている。
は東都環状線で沢袋に向かった。
電車の中には、この季節独特の空調のにおいがこもっていた。ドアが開くたびに新鮮な空気に換気される。その時に前髪が揺れるのが、なぜだかはっきりと、『休日』の実感を与えてくれた。
米花から沢袋までは2駅ほどで移動できる。
そう時間もかからず、駅から雑多に人が交差する街へ出た。
そういえば、ととりとめなく思う。は晴れを呼び寄せるタイプではないはずなのに、最近は何かにつけて晴れ渡る空を見上げている気がする。
もしかすると、誰かの影響でも受けているのだろうか。
このまま晴れ女になれればいいな。
差し出される広告がポケットティッシュであるか否かを素早く確認しながら、はそのように考えた。
映画館で公開されている作品の品定めをする。
ラブストーリーが主のようだった。
沢袋という街柄か、アクション、ラブストーリー、アニメの三つで分けるならば、圧倒的にアニメの率が高い。アニメ、アニメ、ラブストーリー、アニメ、アクション、と左から順にカテゴライズしてみて、は残念な気持ちになった。あまり観たいと思えるものがない。
レディースデーのお得さを逃したような気がして、もったいなくなる。
けれど、無理にお金を使う必要はない。
浮いた千円は洋服につぎ込もうと決め、今度はファッションがメインの店のドアをくぐる。
こういうお店は久しぶりだった。
どこから入ろうか目移りしていると、の視界に割り込むように、笑顔が飛び込んできた。
「さん!」
「ら、……蘭ちゃん? それに、園子ちゃん?」
女子高生が二人並んで、紙袋を手に提げ、に微笑みかける。
の目は二人に気取られないよう、近くに小学生の姿を探した。居なかった。
「どうしたの、こんな……」
こんな所で、と言おうとして言葉を飲み込む。こういう店に不釣り合いなのはむしろのほうで、女子高生たちは何の違和感もなく溶け込んでいるではないか。
一瞬、気おくれしたに気づいたのか、蘭がさり気なく紙袋を持つ手を後ろにまわした。
気遣われたと知って、はさらにつらくなった。
「買い物に来てたの?」
「そうなんです。園子が連れてきてくれて」
「もう、大漁大漁! さんもお買い物ですか?」
「そうなの」
の頭がこくりと動く。
自分を低く見せるように、少し卑屈ともとれる笑顔を浮かべる。
「でも、ほら。どういうのを買っていいかわからなくて」
「ええー……?」
上から下までを眺めた園子が、の引いた態度を笑い飛ばした。
「もしよかったら、私たち、さんのお買い物に付き合いましょうか? アドバイスとかできると思うんですよね。現役JKの眼力! っていうか?」
思いもよらない申し出に思考が止まる。
びっくりしたに気づき、蘭が慌ててフォローを入れた。
園子ってば、と困ったように突っ込みを入れたのを見て、も我に返る。
嫌だったわけじゃないのだと慌てて伝えた。
「わ、悪いかなって。ほら私、一応、あの、なんていうか……、年上だし。人の買い物に付き合うのって面倒じゃない?」
「なに言ってんですかさん! ねえ蘭?」
「もちろん、全然! さんと一緒に何かができるのってすごく楽しいです!」
そこまで言われては断れない。
園子の言う通り、『現役JK』からのアドバイスはありがたかったし、他人であふれる建物の中で敷居の高いファッショナブルなお店に突入するのには勇気が必要だ。助けてくれる知り合いが二人いるなら、これほど頼もしいことはなかった。
お願いします、と頭を下げたに、「どんと任せちゃってください!」と園子が胸を張った。
似合いそうな店を見つけようと、園子はまずフロアをまわって店構えとの顔とスタイルを見比べた。
その中でももっともぴんとくる店に踏み込み、の財布事情を知ってか知らずか、まずセール品の棚から服を探す。これ以上情けない部分を見せたくないにとっては、感謝のあまり抱きしめてしまいたいくらいの気遣いだった。
園子と蘭の見立てで選ばれた服と一緒に試着室に押し込まれたは、鏡の前でぎこちなく着替えをする。
こんなに露出していいのだろうか。
これは彼女たちの個人的な趣味なのでは。
そう思いつつ袖を通す。
個室の前で待機する女子高生たちに姿を見せるのは恥ずかしかったが、選んでもらった手前、カーテンを開けないわけにはいかない。
そっとカーテンの隙間から顔を覗かせた彼女を、園子が引っ張り出した。
蘭が顔を輝かせる。
「お似合いです、さん!」
「ホントに似合ってますよ! さすが私……!」
「そ、そうかな?」
スカートの丈が気になって、腰が引けた。
ズボンのほうが気が楽だからと言ったにもかかわらず、強く勧められたのがこのミニスカートだ。あまりひらひらしていないのが、にとっての救いだった。
「これなら季節を選ばないし、使いやすいと思いますよ」
「さ、寒くないかな」
あまりにも弱気な発言だったが、園子は「黒のレギンスで合わせたらあったかいですよ。裏起毛とかあるし」と二言でぶった切った。
逃げ場をなくしたは、改めて自分の姿を鏡に映す。
襟の部分が濃く染められた袖なしのトップスは、襟が付け外しできるそうで、「一枚で二役ですよ!」との琴線にびしばし触れるような巧みな言葉選びでオススメされたものだ。これの上に羽織るカーディガンも渡されたが、こちらも色のチョイスが上手く、何にでも合わせやすそうだった。
スカートは風で軽やかになびきそうな生地で、の普段の恰好をもとに評価するのなら、驚天動地の短さだった。
ソックスは長めで、白くて、指で破れそうだ。
「……若すぎない?」
「さん、自分のこといくつだと思ってるんですか?」
「あはは……」
それもそうだよね、としか言えなかった。
自信はないが、嘘をつきそうにない園子が「似合っている」と言うのだ。蘭には悪いが、この点においてはは園子のほうが信用できた。
決意を固めてひとつ頷く。
「じゃあ、これ、買うね」
園子は満面の笑顔で、の背中をばしばし叩いた。
「あの茂木さんとかいう探偵さんもびっくりすると思いますよ! 絶対、着て行ってくださいね!」
「えっ!?」
「あれ? スーツでしたっけ?」
「い、いや、違うけど……」
こんな恰好で出勤したら、数か月はからかわれ続けていたたまれなくなるに違いない。
コーディネートを任せた手前、そう言うのも悪いなと考え、は曖昧に笑って誤魔化した。
その後も何軒か店を冷やかし、付き合ってくれたお礼にお茶をご馳走したは、軽くなった財布を持って家のドアを開けた。
購入した服を紙袋から出すと、くすぐったい気持ちがわいてくる。口では恥ずかしがりつつも――実際にも恥ずかしかったのだが――着飾って「似合う」と言ってもらうのは嬉しかった。
もちろん、職場には着て行かない。
でもちょっとしたお出かけになら、勇気を持って着られるだろう。
交換したアドレスにお礼のメールを送り、はにこりと微笑んだ。
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20150602