押しかけ探偵事務員の受難


33


 時どき呟く声がある。
 たとえば理不尽な依頼があり、電話口でひたすらに謝罪したあと、彼女が小さなキッチンでカップを洗い、茂木が手洗いから戻ったとき。水音にまぎれるように覗いてみると、途切れたそれの合間にぽつり、落ちる。

「逃げちゃ、だめだ」

 それから重く細い息を吐き出し、水気と一緒に憂いまで吹き飛ばすように手を小さく振る。
 茂木が声をかけると、何事もなかったかのような顔で振り返る。なので彼はの、影のさす静かな眼差しの理由を訊ねられずにいた。
 40の探偵が何をおじける。
 茂木は自嘲する。
 だがいくら考えても触れられず、「何でもねえよ」と言ってコーヒーを催促するのだった。
 茂木が知らないだけで、は何度も同じように俯いていたのかもしれない。その時、かたわらに立ち、笑い飛ばしてやれないことを、ほんの少しだけ悔しく感じた。
 なぜか?
 自らに問うても、冷静なはずの判断力は空転する。
 の手本になりたいわけではない。そんな恩着せがましい感情などはかけらもなかった。
 今までになく近い位置にいる人間だから、助けてやりたいと、人情的に思っているのかもしれない。
 もしもそれがでなかったら、茂木はどうしただろう。
 たとえば、あの小さな探偵だったら。

(……ハ)

 ぷかりと煙を浮かべて、口角に嗤いをのせる。
 絶対にこんな気持ちは抱くまい。

 茂木は聞き返してやることにした。
 久しぶりに重なったいわれのない批難の声に巻き込まれ、すっかり疲れ切ったが拳を額に当てて、唇だけ動かす。
 嫌なことがあったからといって、怖い気持ちがあるからといって、物事を投げ出してはいけない。それは後悔を生み、によくない事態を招く。
 彼女の顔も口元も茂木には見えなかったが、直感的にタイミングがわかった。
 ああ、今、こいつは自分に何かを言い聞かせている。
 茂木の唇は自然と、世界を斜め上から見下ろすような色を帯びた。

「なあお嬢ちゃん。あんた、一体全体、何を怖がっていやがる?」

 すべてを見透かすような茂木の言葉に、はびっくりして顔を上げた。撥ね飛ばされたような勢いで動いたので、茂木の方が面食らった。
 彼女は「聞こえてましたか?」と、反応に困ったように言った。
 聞こえてなどいなかったが、直感どおり当たりを貫いたとみた茂木は「聞こえていたも何も」と返した。

「辛気くせえ顔で俯いてボソボソと。陰湿な空気はご免だぜ」
「す、すみません、でも今は何も呟いてないんですけど……」
「口パクでも喋ったのと変わらねえだろ」
「……うう……」

 人の領域で勝手に落ち込んだ負い目を感じ、は強く出られない。
 重ねて、問う。

「あんたはいっつも、何にビビってんだ?」

 は視線を俯かせた。
 答えづらい。
 非常に答えづらい。
 逃げて、後悔して、うっかり死んでしまってまた『やり直す』ことになってしまったら。
 一度きりのことかもしれないけれど。
 一度きりのことだったとして。
 恐ろしさに変わりはない。

「……私は……」

 は言いあぐねた。

「あんた、後悔しねえように生きるんだろう」
「は……」

 いつだったか聞いた話を持ち出すと、は相槌未満に頷いた。

「ならそうやってうじうじしてる時間も『無駄』なモンで、失っちまった数分でできたことがあったんじゃあねえかと『後悔』する羽目になるんじゃねえのか」

 確かそのような話をしていたな、と思い出しながら言う。
 煙混じりの言葉は、に苦笑をもたらした。
 その通りだ、と思う。
 『逃げるな』と自分に言い聞かせている時間がもったいない。
 の喉から情けなく鳴った。

「そうですよね。わかってはいるんですけど、なんだか最近、くせになっちゃってるのかもしれません」
「振り返ってる暇もねえくらいに仕事を渡して欲しいのか?」
「えっ、まだそんなにお仕事があるんですか?」
「反応するところはそこじゃねえよ」

 茂木との二人がかりなので、事務所にはまったく仕事は溜まっていない。舞い込む端から優秀な探偵が解決していくし、勉強中の秘書もそのサポートと努力を惜しまない。彼女の反応もあながち的外れではなかった。

「……ま、そういうのは置いといて、だ」

 茂木の手が煙草を灰皿に押しつけ、火を消すさまを、ぼうっと見る。

「あんたがどういう信条で生きていようがどうでもいいが、そこまで根を詰める必要があんのか、ってこった」
「は、あ」
「本当に逃げちゃいけねー時ってのは、逃げる余地もねえモンだ。そん時が来るまでは、せいぜいが一週間に一度言い聞かせる程度でいい」

 死にそうな顔で呟かなくても、と続けるつもりだった。
 しかし茂木は口をつぐんだ。
 が笑ったためである。
 彼女はつい、といったふうに、一瞬だけくすぐったそうに頬を持ち上げた。

「あん?」

 茂木は中途半端に手を止めている。
 その探偵と目が合い、秘書は小さくなった。

「もしかして、なんですけど。違ったら、すみません。……いえ、やっぱり違うかも、しれないんですけど」
「要点はまとめて喋りな、嬢ちゃん」
「はい。……あの、茂木さんって」

 から、茂木の天地をひっくり返すような評価が飛び出した。

「私のことを心配してくれたんですか?」

 今日の煙草はこの一本で終わらせるつもりだったが、茂木は無言で箱からもう一本を取り出した。
 火をつけ、ふかす。
 成程なと思う。もしかするとそうだったのかもしれない。
 茂木はが心配だった。
 言われてみるとしっくりくる。自分のイメージには合わないし、まさか誰かにこういった心の傾け方をするとは予想もしていなかったけれど。
 フ、と茂木も小さく笑んだ。

「上司にこれ以上心配をかけんなよ。次は面倒は見ねえからな」
「あ、はい、あの、……はい」

 こくこくと必死に頷いたからは喜色が抜けない。
 彼女からの視線に居心地が悪くなり、茂木は椅子をくるりと回して彼女に背を向けた。
 やれやれ、と肘かけに肘をつく。
 の挙動がやけに目について仕方がない。
 きっとまた何かあれば、事務所の空気が悪くなるだの、こちらまで陰鬱になるだのと理由をつけて、指摘してしまうのだろう。
 容易に想像ができ、茂木はまだ起こってもいないその未来を面倒がって肩を竦めた。





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20150602