押しかけ探偵事務員の受難


32


 報告書を手書きする時代はとうに過ぎた。今はパソコンで作り、印刷すれば終わってしまう。
 携帯電話で地図も確認できるし、打ち合わせの急な変更も指定した番号にかけられればすぐに受けられる。
 けむたく薄暗い部屋で紙束に囲まれ、雑然とファイルをデスクに積み重ね、くたびれたソファに腰掛けて依頼人と対談する時代は終わったのだ。
 とはいっても、手書きの資料がないわけではない。
 携帯電話やパソコンで済ませるより手書きのほうが早い時もあるし、咄嗟にメモをとるとなるとやはりペンと紙を使ってしまう。しみついた行動といってもいい。
 茂木は事務所の奥でコーヒーのおかわりをカップに注ぐ。
 事務所ではが電話を受けていた。
 こういうとき、を事務所に入れてよかったと思う。中には面倒な客や、比喩であるが日本語の通じない人間もいる。そういった煩雑なやりとりから遠ざかれるのはありがたかった。
 の対応は悪くない。働き始めのころから――それ以外に仕事がないので――電話番を言いつけたのがよかったのだろう。今ではすっかり慣れた応対をみせる。

「なるほど、そうなんですね。奥様が。はい。……そうですね、茂木探偵事務所ではそのようなご依頼も受け付けております。ええ、はい。ですがただいま少々立て込んでおりまして、お時間をいただくことになるとは思うのですがよろしいでしょうか?」

 立て込むというより、大口の依頼が口を開けて茂木を待っているだけだ。遠出をするので、あまり依頼を多く受けたくない。それなので、小さな依頼の電話があった時はこう言うようにに厳命した。大体の客は結果を急ぐので、時間がかかると言われれば別の事務所を当たる。
 今回もそうだったようで、は電話越しに深々と頭を下げて「申し訳ございません。……はい、失礼いたします」と言って受話器を置いた。
 手元に置いてあったメモ用紙を切り取り、丸めてゴミ箱に捨てる。依頼の内容や依頼人の名前をキーワードとして書きとめたものの、決裂したので不要になったのだ。彼女の動きはよどみが無い。
 今朝ゴミ出しをして綺麗になったばかりのゴミ箱に、くしゃくしゃの紙はよく目立った。

「書くのがだいぶ早くなったな」

 思ったことをそのまま言う。
 茂木の発言に、は「はあ……」と困惑しながら相槌を打った。
 初めの頃、は何をメモしていいのかわからず慌てるばかりだった。見かねた茂木が『メモすべきこと』をまとめたシートをわざわざ作って渡してやったほどだ。
 今はもう、そのシートは必要ない。一応、メモ帳の隣に広げられているが、はざっと確認するだけで、こまめに参照したりはしない。
 褒められたのだとわかり、彼女は照れくさそうにした。

「ありがとうございます。ほとんど毎日やってますから、慣れたんだと思います」
「いいことだ。……にしても今日はずいぶん電話が鳴りやがる」
「いいことじゃないですか」

 言い返され、茂木は肩を竦めた。依頼が途絶えた時はぱったりと黙り込むくせに、忙しい時に限って泣きわめき始める電話のベルには困ったものだ。
 『いいこと』と言われれば否定はできないが、言葉にできない複雑な心持がある。
 も茂木の考えることがわかったのか、立ち上がって電話から離れた。
 メモ帳を持って定位置に戻り、自分のカップを見て「ああそうだ」と小さく呟いてから何かを書き付けた。
 ボールペンを彷徨わせて何か考え、棚の方へふらふらと歩いて行ったを見送った茂木は、高い背をまげてローテーブルの上のメモ用紙を手に取る。薄っぺらい紙には黒インクで『紅茶』とあった。
 戻ったはメモ用紙がないことに気づいたが、茂木がすぐに返したので何事もなかったかのようにしゃがみこんで何行か書き連ねる。遠目から、『紅茶』に続き『コーヒーの紙』『お茶菓子』『除菌スプレー』の文字が見える。
 買い物メモのようだった。

「茂木さん、何か必要なものはありますか?」
「特にはねえな」
「わかりました」

 ボールペンの頭をノックし芯を引っ込め、ペンケースにおさめた。
 茂木はもう一度、メモ用紙を手に取って明かりに透かす。
 の字は意外にも、流れるようなものだ。
 つつくとびくびくする性格なので、字も女性らしいものかと思いきや、どちらかというと茂木の筆跡に近い。それもどうなんだか、と茂木は微妙に笑った。
 綺麗か綺麗じゃないかで言えば、きれいな字だ。
 自由な仕事人は、どこかにしまったはずのの履歴書を探してデスクの引き出しを開けたり閉めたりした。ファイルの中に折り畳みのものが入っていたので開いたが、それももちろん、流れるような温度のない線ばかりだった。

「あんたの字は味気ねえな」
「は……はい? すみません……?」
「意味も分からねえのに謝んな。褒めてんのかもしれねーだろ?」
「褒めてくれてるんですか?」
「褒めちゃあいねえが」
「は、……はあ……」

 万年筆のキャップを開けるのが少し面倒だったので、手近なボールペンで、なんとの履歴書の余白に字を書き込む。、というの字の上に、、と茂木の字が並んだ。
 決して似てはいないが、遠くもない。
 可愛くねえお嬢ちゃんだな、と、ひとり笑った。





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20150512