押しかけ探偵事務員の受難


31


 コーヒーが切れた。
 これが最後の一杯だ。ラスト一滴までしっかりカップに落としたは、腕時計を見て眉根を寄せた。まだ昼だ。
 茂木はどこかの行きつけのレストランにふらりと向かい昼食をとる。それからの退勤時間までは6時間から8時間、コーヒーは軽く三杯は出る。中毒になるのではないかとはらはらするのだが、その心配はの領分ではなかろうといつも目を逸らす。
 馴染みの豆でなくても茂木は軽くをつつくだけでなにも文句は言わないけれど、こだわりの強い人だ。翌々日あたりにお気に入りの豆を買って、でん、とキッチンシンクの上に目立つように置いておくに違いない。それはの『秘書』あるいは『事務員』としてのプライドにちょっぴり関わった。
 どうせお昼の休憩なのだ。昼食がてら、足をのばしてコーヒーを買いにいこう。
 はお財布とハンカチ、ICカードの入ったバッグを肩にかけ、「いってきます」と茂木に頭を下げた。
 茂木もちょうど出るつもりだ。ジャケットと帽子を装備した彼は、の背中に声をかけた。

「今日もコンビニのサンドイッチか?」
「はい」

 カフェ・ヒグチで働くころは時々まかないが出ていたので空腹には困らなかった。しかし探偵事務所ではもちろん、そんなものはない。積極的に料理をしようとは思わないの昼食は自然と限られた。
 定食屋や蕎麦屋で済ませたほうが栄養にはいいとわかっているが、身についた中途半端な節約魂は数百円の差にモヤモヤしたものを感じてしまう。100円と少しで買えてポイントカードにポイントも溜まるコンビニのおにぎりやサンドイッチのほうが、お腹は満たされるのだし、いいんじゃないかなあと思うのだ。

「わびしい生活をしていやがる」

 やれやれと肩を竦めた茂木は、の肩をぽんと叩いた。が一瞬ぎくりとしたのに気づき、心中で怪訝に思う。すぐに、普段誰かに肩を叩かれることがないのだろうなと思い至った。

「来な。特別に欲望を満たすのに持って来いな宮殿に連れて行ってやるよ」

 もう少し簡単な言葉で誘ってくれればいいのに。
 物言いたげなが背を追ってくると知っていて、茂木は片手をズボンのポケットに入れて事務所のドアを開けた。慌てて茂木に駆け寄るは、小動物か何かのようだ。
 勢いに負けて階段を下りたは、茂木が車にキーを差し込むのを見てハッと思い出した。

「あ、そうだ。今日は行けないんです。コーヒー豆が切れちゃったので、買いに行かなくちゃいけなくて」
「ンなモン帰りに買えばいい」
「通り道なんですか?」
「通りはしねえが近くだ」

 ならば、といざなわれるまま車に乗り込もうとして躊躇する。以前に乗った時も茂木は当たり前のように顎で助手席を示したが、彼の年齢と性格を考えると何らかの『テスト』であった可能性はないだろうか。今回も試されているのでは。

「俺のアルファじゃ不満だってか?」
「い、いえいえ、そんな。ただ、私なんかが助手席に乗らせていただくのは茂木さん的にどうなのかなあって」
「俺が乗れっつってんだろうが」
「そ、そうですよね」

 焦りすぎて謎の汗が首筋をしめらせた。
 ぎこちなくシートベルトをつけるに、こちらもきちんとベルトを締めた茂木が気障っぽく口角を持ち上げて言った。

「一丁前に照れやがって。そういうのはもう少し色気を出してからにしな」

 今すぐ穴を掘って蹲りたい。言い当てられたは居たたまれなくて仕方ない。
 ギアを入れ、茂木の『じゃじゃ馬』は昼の街に繰り出した。

 連れられたレストランは、流行りのつくりとは違い、落ち着いた雰囲気がある。テラス席などはなく、白い壁にお洒落なシダが絡まることもない。細い針金が何本も束ねられたような白いアーチ状の門をくぐると、飛び石のように埋められた大きめの石畳の両脇に薔薇の花が植えられているのがわかる。白薔薇はたっぷりした花弁を重ね、の鼻に香りを届けた。みずみずしく甘い花の匂いがする。

「ミツバチよろしくふらふらするのもいいが、服をとげに引っ掛けねえようにな」

 いちいち何かしらの比喩を入れなければ倒れてしまう病にかかっているのかもしれない、とは最近思い始めた。
 茂木に続いて敷居をまたぐ。ドアにつけられたベルは飾りかと思うほど古びていたが、見かけによらない透き通った音で来訪を報せた。
 店のひとは茂木の顔を見てにこりと微笑んだ。

「いらっしゃいませ。いつものお席、空いてますよ」
「ああ」

 常連らしい。
 いつもの席、と言われた場所には、案内を待つまでもなく茂木が向かった。
 間接照明で薄暗かった入口のあたりとは違い、大窓のほうは太陽の光をとりいれてとても明るい。雨の時は天井からぶらさがる照明が働くのだろう。
 天井から足元まで張られた窓からは庭園が見えた。茂木は窓際の、もっとも奥の席に座った。
 テーブルの灰皿も重厚なつくりだ。小ぶりなのにごつごつした灰皿は、に何かを思い出させた。そういえば、こういうもので殴りつけたかった男がいたなあ。遠い昔の話に感じられた。
 メニューを見ることもなく、お水を持って来た店員に注文した茂木は、のバッグを指さした。

「手帳、持ってるか?」
「あ、はい」

 仕事の予定が書かれた手帳を取り出し茂木に手渡した。茂木のような苦み走った男が女性向きの手帳を持つ姿はミスマッチだ。
 シンプルなデザインとはいえ、明らかにターゲットの性別を絞っている手帳を何度かめくった茂木は、目当ての月のページを開いてに見えるようにした。ひとつの日付を指さす。

「この日は休みだ」
「事務所が、ですか?」
「ああ」

 見ると、水曜日だった。映画に行くのもいいなあととりとめなく予定を想像する。
 何があるのか気になったが、訪ねていいものか。
 とりあえず手帳にくっつけてあったボールペンで『休み』の文字を書き加える。
 よほど訊きたそうな顔をしていたのか、探偵はあっさり答えを寄越した。

「人間ドックだよ」
「……わあ」

 予想外すぎた理由に、それしか言えない。そうだった、この人、そういうのが本当に必要な年齢なんだった。
 しかしひと息で現実に引き戻された気がする。もう少し「シカゴに行ってマフィアと対決してくる」というようなロマンあふれる探偵らしい理由であって欲しかった気持ちもなくはない。はたしてそれが『探偵』の粋に収まる仕事なのかはおいておいて。

「ハードボイルドな探偵でも、健康診断はちゃんとするんですね」
「フン……。幻想が壊れたか?」
「いえ、意外だっただけです」
「この商売は身体が資本だからな」

 なるほどと頷く。
 時機を見たかのように話題の切れ目に運ばれたオードブルに目を輝かせ、はフォークを手に取った。

 もちろん支払いは自分で済ませるつもりだった。
 茂木がカードを一枚、伝票も見ずに店員に差し出したので、メニューに記載された金額を渡そうとしたのだが、しっしと厄介そうに手で払われてしまう。

「誘っといて払わせるわけがねえだろうが」
「でも……」
「ごねるなよ、面倒だ」

 渋々財布にお金を戻す。
 給料から天引きだ、くらい言ってくれれば気もおさまるのに、こういう時ばかり冗談を言わずさっさと済ませてしまう。大人って、もう。
 成人した身でありながら、いまだに大人になりきれない自覚のあるは、車の前で茂木に向かって小さく背を曲げた。

「ありがとうございます。あの、おいしかったし楽しかったです」
「そうかい」

 茂木はあっさり受け止める。

 香ばしい空気の中でコーヒー豆を挽いてもらう間、はカフェスペースの椅子に座り、待ち時間用にと小さな紙コップに注がれたコーヒーを舐める。茂木も向かいの席で脚を組んで、同じようにした。
 不思議と沈黙が続いても居心地が悪くならない。
 は知人であっても無言でいると焦ってしまって無理に話題を捻り出すタイプなのだが、この場合はまったくそんな気が起こらなかった。相手のほうがずっと年上だという甘えもあるのかもしれない。だとすると茂木には申し訳ないなあと思いつつも、きっとこの探偵も沈黙が苦ではない人種なのだろう、と何も言わなかった。
 探偵は黙って窓の外、昼下がりの街並みを瞳にうつしている。人の歩く姿を観察しているようにも、ぼうっとしているようにも見える。紙コップを口元に運ぶ動きも、茫然とした印象をに与えた。
 コーヒー豆の薫りを胸いっぱいに吸い込む。
 自分からはあまり飲まないけれど、胸をさざめかせる罪な匂いだと思う。鼻に届く匂いと飲んでいるコーヒーの味が異なるのが残念なところだ。
 何の前兆もなく、茂木がに話しかけた。

「暇なら甘いモンでも探して来いよ」
「はあ、いえ、でも今月のお小遣いには限りがあるので。まだ事務所にクッキーもありますし」
「小遣い制って、オイオイ……。あんた、本当にベイビィかよ。誰に貰ってんだ?」
「あ、誰かに貰ってるわけじゃないんです。自分で、ひと月に使ってもいい金額を決めて、それ以上は使わないようにしているだけで」
「シケた生活してやがる」

 個人経営ながら、腕利きの探偵にはたっぷりの収入がある。管理費や生活費などで一部が消えても、財布を圧迫するには至らない。
 特にうらやむでもなく、は素直な顔で茂木からの味気ない返事を受けた。心の底から笑顔になれる生活状況ではないのは確かだ。
 茂木の事務所で働くようになってから、余裕ができたといえばできた。だがどちらかといえば金銭面よりも精神的なところが大きい。心が落ち着くだけでこんなにも焦りが消えるのかとびっくりするくらいだ。

「今月の小遣いにはあといくら残ってんだ?」
「え、ええ……?」

 自分から打ち明けておいて引いてしまうのも悪いので答えなければと思うが、具体的に金額を言うのは足踏みしてしまう。
 目を逸らし、ぼそぼそと告白した。
 茂木は訊いておきながら、興味がなさそうに目を細めてまた通りを見る。強い風が吹いて女性のスカートが大きくなびいた。
 白だ。
 の眼差しも白くなった。

「茂木さんって……」
「あん?」

 意味がわからんと言いたげに振り返られたので口を閉じた。見ていなかったのか。
 コーヒーを飲み干して首をめぐらせる。レジの男性店員と目が合って、反射的に会釈すると、あちらもにこりと微笑んだ。
 ちょうど機械の音が途切れ、シーラーの熱が包装を溶かした。密閉されたパッケージを紙袋に入れた彼はレジを抜け、たちにそれを差し出した。

「お待たせいたしました!」
「ああ……」
「ありがとうございます」

 受け取るのはだ。付き人のようだなと内心で笑う。
 付き人を従えた探偵は、輸入食品であふれかえりそうな店内から抜け出した。 
 お昼の休憩の時間はだいぶ過ぎてしまったけど。

(茂木さんが一緒なんだし、いいよね……)

 茂木がちらとも時間を確かめないので、も素知らぬ顔で助手席におさまった。

「さて、戻るか」

 エンジンがかかるのに合わせ、品の良いラジオ番組が曲を流し始めた。





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20150512