押しかけ探偵事務員の受難
30
いつもあの事務員は、あるんだかないんだかわからない契約で取り決めた時間よりも早く出勤する。たまに気が急きすぎたのか、茂木よりも早くに到着して、ドアの前で本を読んでいることもある。
鍵を渡してやろうかと思ったのだが、言い出せずにいる。インターホンを鳴らされて鍵を開けてやる面倒さにも慣れてしまった。携帯電話を失くしたこともあるというし、彼女も預かりたがらないだろう。そのように考え、せっかく作った事務員用の鍵は机の引き出しにしまわれたままだ。
そのは、いつもよりずっと遅れていて、姿を見せない。インターホンが鳴るかもしれないと思うと席を立つのもはばかられ、なんで俺が自分の事務所で気を遣わなくちゃならねえんだと毒づきながら、茂木は煙草の封を切った。
それにしても遅い。
いや、遅くはない。まだ営業時間前だ。
あの事務員にしては遅いというだけで、茂木が口を出せる時間ではない。――というか、来ても来なくてもほとんど何も変わらないので、茂木はに催促すらするつもりはなかったが。
そこまで考えたところで、ああ、何も変わらないわけではないな、と気がつく。自動でコーヒーが出てくるシステムは便利だ。
何をしているのやら。
煙草を一本くわえ、ジッポの殻を開けて気がついた。火がたりない。
普段と違う事柄が重なって僅かに苛立つ。
ヤニ切れのまま一日を過ごす気にはなれない茂木は立ち上がり、ジャケットを引っかけて外に出た。今日は風が肌寒い。
階段を降りると、その肌寒い風に吹かれたか、空に浮かぶ雲の流れが存外早いことに気がついた。
そして、通りの一本向こうに見慣れた姿をみとめる。知らない男と一緒だった。
「……何やってんだ、あのお嬢ちゃんは……」
の横顔は困り切ったものだった。
両手を頼りなさげに、もじもじと腹の前で組み合わせたり、小さく首を振ったりしている。何度も腕時計を確認するのは、出勤時間が遅れていると気づき焦っているからだろう。
茂木の知らない背の高い男は、いかにもチャラそうな恰好で、の顔を覗き込んだり、馴れ馴れしく肩をたたいたりする。そのたびにはびくついた。
ナンパかと思ったが、茂木の観察眼は第一印象を否定した。
携帯電話を取り出し、電話をかける。
は救いを得たような顔をしてバッグを探り、電話を受けた。
「は、はい。おはようございます、すみません、遅れてしまって」
「まだ遅刻じゃあねえ。ねえが、あんたはそこで何やってんだ?」
「えっ?」
の目が茂木の姿を探す。遠目からでも外国製のお高いスーツを着こなす茂木は見つけやすく、すぐに安心した表情が浮かんだ。
「茂木さん!」
「俺が煙草屋でライターを買ってるうちに事務所の前に戻っとけ」
「は、……はい……」
それが簡単にできたら苦労しないんだけどなあ、と考えたの胸中が手に取るように理解できた。
茂木は電話を切り、を迎えには行かずに言葉どおり煙草屋に向かった。小銭数枚とライターを交換する。
元々の押しの弱さから、断り切れなかったに違いない。
先ほどのの情けない姿を思い出すと呆れがこみあげる。
朝っぱらから何を売りつけられかけたのか、コーヒーの茶うけに訊いてみるのも悪くない。
用事をゆっくり済ませて戻れば、は心なしかげっそりした顔で茂木に頭を下げた。
「で、何だったんだ?」
「1分だけ私の幸せを祈らせてほしいと言われて……」
「今時ンなモンに時間とられるヤツがいるってことに驚きゃあ良いのか?」
「断ったら、今度は幸せになれる壺があるんだって言われて……」
「カモられてんじゃねーか」
これだから目が離せない。
茂木が外に出て、電話をかけてやらなければ、もっと解決が遅れていたはずだ。
それはもわかっていて、かくんと吊り糸が切れたように脈絡のない動きでお辞儀をした。
「ありがとうございます」
「探偵事務所の看板を汚されたくねえだけだ。秘書として自覚を持てよ、嬢ちゃん」
「す、すみません……」
まったく言い返せないだった。
茂木は買ったばかりのライターを手の中で転がす。
「看板もそうだが、あんた自身、10年、20年後に困らねえようにしておけよ。俺くらいのトシになりゃあ嫌でもサキモノや株、不動産なんかの押し売りの電話がかかってくるようになるぜ」
「俺くらいの歳、って……」
知らず、茂木の指先に注目していたは、節くれだつしっかりした大きな手が、自分の肩を抱き寄せたときのことをふと思い出した。力強さが肩に蘇るようでどきりとする。
何を考えているんだか、私は。免疫がないにもほどがある。
それに気を取られていたので、言葉は相槌と疑問の中間を漂った。
「茂木さんはおいくつなんですか?」
「おいおい、上司の年齢も知らねえのか」
「す、すみません」
何度も謝ってばかりで、「すみません」が口癖になりそうだ。よろしくない傾向である。
指の爪先から視線で腕を撫で上げる。
どきどきした気持ちが胸に残り、喋ろうとした茂木の喉仏がくっと動いたのに気づいて、いけないものを見たような気まずい心地で唇を引き結んだ。
新品のライターは火のつきが悪かった。何度かカチカチやってようやく点った爪くらいの大きさの火に煙草を近づけ、うつす。
細長くのびた煙が空気にぶつかって渦をつくった。
「40だよ」
「……えっ!? そんなに!?」
「若く見えたか?」
「い、行っていても36くらいかと。言動が……」
「ああ?」
「な、なんでもないです」
しつこいほどに言動が『ハードボイルド』なので、見た目から放たれる歳の気配が雲って見えた。
まさか四十路とは。
「アラフォーですか」
「男が人生で一番輝く時ですね、くれーの世辞は言えねえのか?」
「え、そうなんですか?」
「知らねえよ」
口の中で「適当だなあ」と呟く。
40、と改めて年齢を突きつけられれば不思議なもので、そう見えてくる。今までは年齢不詳、どこか異質な近寄りがたさがあったものだが、ひとつ情報が明らかになると距離が近づいたように思えた。
それにしても。
は腕を組んだ。
(……親子くらいかな?)
の年齢と茂木の年齢の差は、茂木が相当若いうちにが生まれたと考えればまあ、合わなくもない。
の考えを見透かしたように茂木が言った。
「あんたみたいなデカいガキはご免だぜ」
「よくわかりましたね」
「フン」
OPENの看板でも下げてきな、と茂木は片手をひらりと振った。
は茂木のデスクにある電話を留守番設定から切り替える。が来るまでは当然、茂木が自分でやっていたのだが、指先で転がせる部下ができてからというもの、こまごまとした雑務はすべて彼女の仕事になっている。
コーヒーカップを出し、湯を沸かす。ついでに紅茶のバッグを自分のコップに落とした。
40歳かあ。
は今、自分がどうしてそうしたのか、まったくわからないままため息をついた。
小さな吐息はケトルが吐き出す湯気と区別がつかなくなる。
年齢差があるからだろうか。
だからあれほど包み込まれるような感じがして、安心したのだろうか。
あれは、人生経験のうちに培われた力強さか。
二度あって、そのどちらでもを落ち着かせた乱暴な、抱擁ともいえない行為だった。
たぶん、とは目を伏せた。
どきどきしたのが悔しいのだ。緊張と恐怖があって余計に心臓がうるさかったから、ときめいたような気がしてしまって。それがずっと年上の男性からもたらされたものだとわかって。
こういう悔しさは珍しいものではない。大学時代、同じ講義で後ろの席になった何かのサークルの女子たちが、そんな感情の機微を笑い話にしていた。
表現しきれないから、単純に『悔しい』という言葉でまとめてしまう。になくて、茂木にあるものが、今のには欲しくてたまらなかった。
そんなの後姿に笑い混じりに茂木が言う。
「お嬢ちゃん、背筋が曲がってるぜ」
「えっ、あ、はい!」
は反射的に腹に力を入れた。
雲のような不思議な感覚は、その衝撃で消えてしまった。
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20150507