押しかけ探偵事務員の受難
29
朝、目を覚ましたは気がついた。
朝ご飯になるものがない。
冷蔵庫を開けてもそこにあるのはお水と、気まぐれで買ったものの食べずじまいで賞味期限の切れたアロエヨーグルト、お醤油とポン酢だけだった。
ダメだこれは。
項垂れたは、予定外の出費となるが、事務所に向かう間におにぎりでも買って食べようと決める。
散財防止の為、財布の中には最低限の金額しか入れないようにしている。自分で自分にお小遣いを渡すような気分だ。毎月更新されるそれは、言いかえれば月が変わらなければ増えないわけで、新しい月を迎えて二週間ほど経ったの財布には紙が三枚と小銭が七枚しか入っていなかった。
大人としてどうなんだと呆れた顔をいただいてしまうと容易に想像できるので、誰にも言ったことはない。本人でさえ、社会人としてどうなのかと思う日もある。
その底をつきそうな小銭を握ったところで、携帯電話がぶるりと震えた。
表示を見ると茂木の名前がある。首を傾げ、耳に当てた。
茂木はいつもの、世の中を斜め上から俯瞰して肩を竦めたような低い声で切り出した。
「よぉ、嬢ちゃん。あんた、好きなパンはあるか?」
「はい?」
「パン屋のタダ券を貰ったんでな。食いてえモンがあるなら買って行ってやるぜ」
「え、ええ!?」
にまとわりついていた、朝独特の眠けの残滓が綺麗に吹き飛んだ。
なんとタイミングがいいのか。
誰に貰ったのか、どうしてに電話をかけたのか。そんなことは些末すぎて気にもならない。
彼女の声が元気になったのを聞き、茂木はハン、と鼻で笑った。
自分は絶対に使わないだろうタダ券を見て一番に思い出したのは、この、いつでも幸が薄そうな女のことだった。何を与えても「は、はあ……」と抵抗もなく受け取るのだろうなと思ったので、出勤がてら車を走らせて買ってやるのも悪くないと考え電話をかけた。
まさに想像の通りで、は戸惑いながらも「クリームパンが好きです!」と弾んだ声を出した。
「他は?」
「え……、何枚あるんですか」
「三枚だ」
「そうなんですか。でも私、クリームパンだけで大丈夫です。あとは茂木さんが使ってください」
「なら、適当に買ってくぜ」
の返事を待たずに電話を切る。
車は迂回するように進路を変え、信号をいくつかやり過ごし、パン屋の前で停車した。
紙袋を差し出されたは頬を緩ませて茂木に礼を言った。
茂木は一度手を動かしてそれを受け取り、帽子を脱いでコート掛けにひっかけた。
茶色の紙袋は口が何度か折りたたまれている。それを開いたとたんにふわりとあふれたパンの匂いに目を細める。営業前の事務所で、はぱたぱたと忙しく動いて紅茶とコーヒーを淹れた。
コーヒーを茂木のデスクに。紅茶をローテーブルに置き、パンを取り出す。
三つあるパンのうちのひとつはのクリームパンだ。まだあたたかい。
もうふたつは、カツサンドとメロンパンだった。に衝撃が走る。
(茂木さんって、カツサンドとメロンパンを食べるんだ……)
イメージが結びつかない。
茂木はネクタイを軽く緩め、の正面にあるソファにどっかりと座った。デスクのコーヒーをローテーブルに運び直したので、ここでパンを食べるのだと察せられる。
クリームパンを両手で持ったには目もくれない。茂木の手は迷いなくカツサンドにのび、包装をむいた。
そのまま一切れ、二度にわけて口に入れる。
の口では三度ほどに分けなければ食べられないのだが、茂木には苦にもならないようだった。
ぼうっと正面を向いたままクリームパンを咀嚼する。コーヒーカップが何度か茂木の唇をしめらせた。
茂木はパンを食べ終わり紅茶を飲むのほうに、残ったもう一切れのカツサンドを滑らせた。
ぱちくり、瞬きをしたがカップを下ろさないまま眼差しで茂木に問いかける。
「やるよ。俺ぁ二つも要らねえ」
「小食なんですね」
「朝はあんまり食わねえんだよ」
クリームパンを食べ終わる前に言ってほしかった、という内心を丁寧に押し隠し、はカツサンドをありがたく食べきった。肉厚のカツとパンにしみこんだソースが絶妙だ。空腹が幸福で満たされるのを感じ、自然と笑顔が浮かぶ。
ゴミを紙袋に入れるに向けて、さらにメロンパンが押し出される。
どれだけ空腹だと思われてるんだろう。は少し自分が情けなくなった。
さらに、茂木が渡せば渡すだけ胃袋に入れる自分の姿を面白がって見ていると気づいては、いっそうすわりが悪くなる。
「……おいしいです……」
はできるだけ茂木から目を逸らして言った。
「安上がりな仔猫ちゃんだな」
こちらは普段のペースである。
そういえばこれはタダなのだった。
少し悔しくなっただが、ある疑問に行き着き、反抗心は霧散する。
「そういえばそのタダ券って、どなたに貰ったんですか?」
依頼人かとあたりをつけたが、返されたのはまったく違う答えだった。
「槍田の姉ちゃんだよ。前に会っただろ、あのクールな女探偵……」
「ああ、爆弾騒ぎの……」
「『騒ぎ』ってレベルじゃあなかったけどな。どっかのお嬢ちゃんは殺されちまうし」
「うっ……、すみません……」
それに関しては何も言い返せないだった。
槍田郁美。
原作に出てきていたような、いないような。の記憶はとても不確かで、とてもではないが頼れたものではない。
素直に見たままの女探偵の像を思い出した。
が知るだけでも、今回のパンを含めて槍田は二度、茂木にクーポン券を渡している。一度目は高級旅館のデザート無料券だった。
「顔の広い方なんですね」
「別嬪だから、余計によく集まるんだろうぜ」
「そういうものですか」
「誰だって相手に近づきてえと思やあ、まずブツで攻めるだろ」
「じゃあ、茂木さんは槍田さんから攻められている最中なんですか?」
「ハン。どうせ興味を持ったのは俺じゃあなく……」
茂木は人差し指でを示した。
も自分を指でさす。
「私?」
「珍しいんだろうよ。探偵の……特に俺のところで働きたがるヤツはいねえからな」
「そうですか……」
電話番号も何も交換しなかったし、名乗り合っただけだったけれど。
片づけようとしたパンの紙袋は、そう言われるとなんだか重く感じられた。
意外とすごい立場にいるのかもしれない。
(……協調性、なさそうだもんなあ……)
図太いことを考えたが、鋭い茂木に読み取られる前に立ちあがって誤魔化した。
ゴミを捨てて、紅茶を飲んで、テーブルのパンくずを拭う。
営業時間が近づいていた。
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20150504