押しかけ探偵事務員の受難
28
茂木が事務所に帰ると、が終業の準備を始めた。
作業にも慣れたもので、茂木が何も言わずとも茂木の分のコーヒーは用意されるし、CLOSEの札もかかる。電話の留守番設定も手際がよくなり、てきぱきと仕事を片していく。
そんな彼女の動きを見ながら帰宅前の一杯をすする。
茂木よりもが先に帰るのがほとんどで、この日もはぺこりと頭を下げて「お疲れ様でした」と言い事務所を後にした。
後姿を見送った茂木は、今日は暇だったんだな、と理解する。事務所は簡易キッチンも含めて、徹底的に掃除されていた。客が来ず、日課も終わってしまうと、はこうして時間をつぶす。休みの時間と思って遊んでいりゃあいいのにと思うが、の性格上そんなことはできないのだろう。
飲みさしのカップをひょいと持ち上げ、下を確認すると、これもぴかぴかになっている。
茂木の私物には触らないように気を遣うは、デスク周りにだけは手をつけない。茂木としては、が悪さをする――度胸がある――とは考えていないのでむしろ掃除してくれたほうがありがたいのだが、やはり雇い主の領域に入り込むのは気がひけるようだった。
その割に、と立ち上がって壁で区切られた奥のキッチンに向かい、陰になる冷蔵庫を開けてみると、冷凍スペースにアイスクリームがある。
(こういうところはちゃっかりしていやがる)
茂木の分はない。
は茂木がハードボイルドな食べ物しか口にしないと思いこんでいるふしがある。プラスチックのスプーンで市販のカップアイスを食べる姿などは想像もしていないわけだ。依頼人からの貰い物やが仕入れた茶菓子など、勧められれば人並みに甘い物も口にするのだが、どうもしっくりこないらしい。コナンが初めに「ハードボイルド」と前評判を吹き込んだのが良くなかったんじゃあないかと茂木は思っている。
カップを軽く洗って棚に戻す。
夕食をどのレストランでとろうか考えながら荷物をまとめたところで、ふと魔が差した。
ジャケットを脱ぎ、冷凍庫からアイスクリームを取り出す。
いつもが座るソファに腰を下ろし、茂木は一片のためらいもなくバニラアイスにスプーンを挿しこんだ。
翌朝出勤したは、アイスティーの氷をとろうとして目を疑った。
アイスクリームがない。
確かに買って、こっそりしまったはずなのに、なぜ。
茂木はいつもホットコーヒーを飲むし、がここに勤め始めてからお茶をくむのはの仕事になったので、キッチンには滅多に立ち入らないはずだ。冷凍庫を開けることなんていっそうない。
しかしアイスクリームのカップは見当たらず、もしやと思いゴミ箱のふたを開けると、食べつくされた空の容器が捨てられていた。
はこれ以上ないほど素早い動きで、壁の向こうの茂木を二度振り返った。
(まさか……、食べた……!?)
茂木としかいない事務所で、が食べていないなら、茂木が食べたに決まっている。
だが、の中にそんな茂木のイメージはまったくなかった。
確かめようにも踏み切れず、電子音で「閉じろ」と催促する冷凍庫から氷をすくって事務所に戻る。ちらりと窺ったが、茂木はパソコンに目を向けていて、の視線には気づかなかった。
立て続けにやって来た依頼人との交渉が成立し、二件の仕事を任された茂木は、下調べの為にまたパソコンの画面に集中する。
は妨げにならないよう静かにコーヒーのおかわりを注いだ。それから時計を見ると、休憩時間がすぐそこだった。
おやつに食べるはずだったアイスクリームを思うとやりきれない。考えれば考えるほど食べたくなったので、財布を掴んで近場のコンビニに向かう。
事務所で作っても怒られない筈なのに、どうしてかコンビニに来ると午後に相応しい甘いミルクティーを買ってしまう。
ペットボトルを持って冷凍スペースの冷気を浴びる。
どれにしようか迷っていると、後ろから影が近づいてきたので無意識に場所を譲った。すると相手は「すまんのぉ」と明るく言ってと同じようなポーズでアイスを吟味し始めた。
大きなお腹を抱えたひとだ。白髪に似合わない快活さがある。いくつくらいなんだろう、とはこっそり背の高いひとの横顔を見た。
彼はの視線に気づき、慌てるに向かって照れくさそうに笑った。
その笑顔が顔見知りと重なった。
「あれ、……阿笠、さん?」
「ン? ……おお! くんか!」
コナンを通じて知り合った、初老を過ぎた天才博士だった。
「ど、どうしてここに」
「いやあ、家の近くで買うと哀くんの目が厳しくてなぁ」
「灰原さんが?」
「わし、ちょっと太り過ぎって言われてしもうて」
「……ああ……」
何とも言えない。視線は自然と恰幅の良い腹に向かう。
の生ぬるい返事に頭を掻いた阿笠は、気を取り直すようにアイスケースを指さす。
くどいほどチョコバーを勧められて黒色のパッケージを手に取ったと、ソフトクリーム型のアイスを両手に持った阿笠がレジに向かう。せっかくなのでと奢られてしまい、は咄嗟の断り方が思い浮かず狼狽えてしまった。そんな彼女を見て阿笠が笑う。陽気な声はを恥ずかしがらせた。
近くのベンチに誘われ、ついていく。並んで座った二人は親子のようにも見えた。
二人ともが自分のアイスに無言で取り掛かり、はひと口食べて本当においしかったので、偽りなく「おいしいです」と阿笠に言った。阿笠は得意げにニヤリとして、早くも食べ終わった一本目のソフトクリームの容器をビニール袋に入れ、「そうじゃろ」とを肘で小突いた。
の勤務先と雇い主のあらましをコナンから聞いていた阿笠は、どうじゃ、と水を向けた。
「茂木探偵は厳しいかな?」
レッドキャッスルホテルでの一幕を見れば、厳しいだけではないとわかろうものの。実際にに訊いてみたのは、ちょっとしたからかいの意味もあった。
食べながらでいいからの、と言われ、はチョコバーが溶けないようにはくはくとかじり、首を傾げる。
茂木は厳しい上司だろうか。
いやまったく、とすぐに答えが出る。
「……全然厳しくない……かも……」
「きっとくんがきちんと仕事をしておるから、叱ることもないんじゃろうな」
「え……、ええ? そうですかね……」
思い返せば、茂木はをあまり叱らない。苦い顔はしても注意するほどのことではなく、軽く改善策を言ってそのまま放置される。褒めもしないし叱りもしない。
(もしかして私、物凄く自由な職場にいるんじゃ……)
考え込んでしまったに、二本目のミックスソフトクリームを舐める阿笠が苦笑した。何だかんだでうまく回っている。
コナンから話を聞いた通り、でこぼこ具合がうまくかみ合っている二人は、目立ったトラブルもなくこれからもやっていけるだろう。
そこまで考えて、阿笠は一箇所訂正した。
目立ったトラブルはあっても、うまくやりすごしてこれからもやっていけるだろう。
こちらのほうがぴったり当てはまる気がした。
は溶けて指についたチョコレートをティッシュで拭い、腕時計を見た。
ちょうど阿笠も食べ終わったので、軽く世間話をして腰を浮かせる。お尻のあたりを手で払って砂粒を落とす。
「茂木さんが私のアイスを食べてしまったのでこうして買いに出たんですけど、阿笠さんに会えてよかったです」
「おお、わしも楽しかったぞ。今度はわしの家においで」
「ありがとうございます」
別れ際、コンビニの前で立ち止まり、阿笠はさっきの話を聞いて何気なく思いついたことを言ってみた。
「さっきの話じゃけど。もしかして茂木くんはくんと一緒にアイスを食べたかったんじゃあないか?」
は面白そうに笑う。
「いやいや、ないですよ。茂木さんですもん」
阿笠は少し茂木が可哀想になった。
ぽん、との肩に手を置く。
「アイスを二つ、買って戻ってやりなさい」
「は、はあ」
がアイスを選ぶのに付き合ってから、阿笠は来た道を引き返して行った。
良いことをした気分だった。
休憩を終えたはコンビニのビニール袋を提げてドアを開ける。中の氷菓子がこすれた。
茂木はパソコン画面を見過ぎて目が疲れたのか飽きたのか、脚を組んで窓を向き、細く開けた隙間からいつものように紫煙をふかしていた。
「戻りました」
「見りゃあわかる」
「ですよね」
もう慣れたもので、びくつくことなく奥に入り冷凍庫を開けた。アイスを二つ丁寧に収める。
ペットボトルのミルクティーをグラスにうつす。それを持ってソファに座った。
依頼人が来ればすぐに退いて茂木と交代するが、今のところそこがの定位置だ。そしておそらくこの先ずっとそうなのだろうなとは思う。茂木も同じことを思っていた。
「茂木さん、明日は一緒にアイスクリームを食べましょう」
「急に何だ、お嬢ちゃん」
前を向いたまま、悪行に抗議する。
「食べましたよね、私のハーゲンダッツ」
「美味かったぜ」
「ですよね。今度から茂木さんの分も買ってきますから、もう食べないでくださいね。ハーゲンダッツなんですよ」
「おいおい、俺の分は要らねーぞ」
はそこのところだけ綺麗に聞き流した。でも食べたじゃないですか、と。食べられたくないなら別にきちんと用意しておけばいい。二人ともが幸せになれる道をは求める。
茂木は昨日感じた悪戯心と、それを呼び起こした一抹の疎外感を指摘されたような気になってフィルターを軽く噛んだ。
「魔が差したんだよ、魔が」
「わかってますよ」
ここでは繰り出した。阿笠から、ぐちぐち言うであろう茂木を予想して伝授された、皮肉った男を黙らせる魔法を。
「私が茂木さんと食べたかったんです。いいじゃないですか」
言ったはいいが反応が恐ろしくて唇を引き結ぶ。
しかし魔法は的を外れず、茂木はハードボイルドな舌を引っ込めた。
「賢くなったな、お嬢ちゃん」
ツインタワービルの招待状にまつわったアレといい、茂木はが上手に誘いかけると面白がって機嫌が良くなるらしい。
ひとつ、茂木の性格に特記事項を追加したは、阿笠に感謝を伝えてもらおうとコナンのアドレスにメールした。
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20150503