押しかけ探偵事務員の受難


26


 茂木遥史は冷静である。
 世を皮肉に評価し、仕事柄、客観的に物事を見る能力は鍛えられていた。
 その茂木が激情をあらわにした姿を見て、依頼人伊東は言葉を重ねた。

「よい結果が楽しみだ」

 幾台も設置された監視カメラの向こうで、茂木が強くテーブルに拳を振り下ろした。

 モニターに映し出されたの、恐怖に染まった情けない表情が目に焼き付いて離れない。
 最後に彼女が呼んだ名前は自分のものだった。
 爆弾のものと思われる轟音とスパーク、激しい煙を最後に、衝撃に負けた監視カメラがノイズと共に落下する。ばりばりと耳障りな音を立てて沈黙したそれは、もう何もうつさなかった。
 茂木は奥歯を噛み締めた。
 信号を待つ間、片手で煙草を取り出して口に咥える。火をつけ、香りを深く吸い込むと、少しだけ気分が落ち着いた。
 イヤホンをつけ、いくつか携帯電話を操作して電話をかける。この数分に何度もかけた。何度となく同じボタンを押した。
 アクセルを踏み、ハンドルから手は離さず、耳だけを澄まして一路横浜へ向かう。
 電話はつながらなかった。電源が入っていないと言われ、苛立ちと苦しさが喉に詰まる。
 それはの番号だった。
 くそ、と悪態をひとつつく。
 次にかけたのは、顔を合わせたことのある探偵の携帯の電話番号だ。こちらはまもなく通話状態になり、イヤホンから凛々しい女の声がした。

「もしもし。何かしら、私、いま少し忙しいのよ」
「俺もだぜ、槍田の姉ちゃんよ」
「奇遇ね」

 槍田郁美。
 かつて同じ事件で小五郎同様に共闘した女探偵である。
 どこか外で受話しているらしく、踏切の遮断機が立てる甲高い音が話に割り込んだ。

「……力を借りてえんだ」

 槍田がくすりと笑う。忙しいと言いつつも、移動中なのか、余裕はあるようだ。

「あら、あなたがそういうタイプだとは思ってなかったけど……。そうね。急ぎかしら? 実は私も手伝ってほしいことがあるの。探偵としてプライドに傷はつくけど、命には代えられないからぜひお願いしたいわ」
「ああ、俺だって普段ならこんな情けねえこたぁ言わねえよ。だが俺は今……、……かなりはらわたが煮えくり返ってんだ」
「何があったのか訊いていいかしら」

 茂木は事のあらましを説明した。その間に、何度か信号にひっかかる。
 交差点で三度目のウインカーを出し、大きくハンドルを切って話を終えると、槍田は細く息を吐いた。

「そう。あなたの所で働いてたお嬢さんね。……旅館のクーポンは喜んでもらえたようで安心したわ」
「多少のスパイスは利いたがな」

 ほんのわずか笑いがともったが、槍田の沈黙にあわせて茂木の胸中でまた怒りが煮える。が使っていたカップの模様が頭に浮かんだ。そうだ、あれはあの嬢ちゃんが気に入って持ち込んだんだったか。
 俺の事務所には似合わねえデザインだと思っていたが、とブレーキを踏んで目を伏せる。やけに信号に引っかかる日だった。何もかもが茂木の臓腑を重くする。
 の履歴書は目を通しただけで、真面目に読みはしなかった。家族構成も何も知らない。彼女のことを誰に伝えればいいのか、どうすればいいのか。まさかこんなことになるとは思っていなかった。茂木にしてはチープな言い訳が頭の中で渦巻く。煙草の灰がスラックスに落ち、更に胸が悪くなった。
 舌打ちが聞こえたらしく、槍田が茂木を窘めた。

「茂木さん、あなたどこにいるの? 合流しましょう」
「なら、第一のヒントの場所で会おう」
「わかったわ。それじゃ、……今は事件のことだけを考えて」
「……あんたに言われなくても理解はしてるぜ」

 槍田は何も言わず電話を切った。
 イヤホンを外し、助手席に投げる。手が背もたれに触れ、そういえばここにを乗せて走ったなと思い出した。かちこちに硬くなって緊張していたのを揶揄したおぼえがある。車のタイヤが水たまりに突っ込んで泥をはね上げ、茂木が「クソ」と悪態をついたのを、少しだけ笑っていた。
 どうしたらいいのか、茂木にはまだわからない。あの依頼人の権力と金で、何事もなかったようになるのだろうか。
 事件を解決して、何になるのだろう。やるせなさが襲いかかる。
 茂木が今、依頼人の言いなりになっているのは、決して腕の爆弾が怖いからではなかった。
 あの依頼人の正体を暴き、白日の下に晒し、怒りと屈辱と罰をぶつけてやるためにアクセルを踏むのだ。

 絶対に。





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20150503