押しかけ探偵事務員の受難


25


 差し出された腕時計のようなフリーパスを手首に巻く。
 かちりと留め金を嵌めたところで、は既視感を覚えた。

「先払い代わりに遊園地の優待パスたァな」

 優待パス。腕時計。ミラクルランド。
 レッドキャッスルホテルに招かれた茂木探偵と、秘書という名の事務員は、だだっ広い一室の椅子に腰かけ、依頼人の部下である高田に差し出されたものを何の疑いもなく腕に嵌めた。茂木は「趣味じゃあねえぜ」と不満げだったが、高田に急かされ仕方なく自分の腕時計を外し、それをつける。
 何かがおかしい、と気づいたのは別室に案内されてからだった。茂木だけが広間に残され、は高田に案内され小さな個室に通される。
 趣のまったく違うパイプ椅子に座ると、高田は丁寧にお辞儀をして出て行った。
 部屋に鍵がかけられる音がして、は慌てて立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 ノブを捻っても、当然扉は開かない。数秒もせず「無駄かもしれない」と気づいたものの、頭がに危険信号を送っていた。ここで諦めると大変なことが起きる。そんな気がしたのだ。
 手首のフリーパスがぴぴぴぴと高い音を立てる。視線をやると、ランプが点滅していた。
 思わず動きを止め、嫌な予感のするそれに指を這わせた。本能的に恐怖をおぼえ、外そうと留め金に取り掛かる。びくともしなかった。

「う、うそぉ」

 顔面蒼白のはようやく気づく。これが映画のひと幕であることに。
 このフリーパスが爆弾であることに。
 まさか爆発させたりはしないだろう。茂木を焦らせる演出だ。を殺す理由なんてない。
 そうわかってはいても、頭の片隅で「違う」と囁く自分もいた。相手は犯罪者だ。『ゲーム』を面白くする為なら何でもするのではないか。茂木の尻を叩くなら。
 茂木の尻を叩くなら、これが『ふり』である必要もまた、ない。
 助けを求めるように部屋を見まわした。出口は鍵のかかった扉ひとつで、窓もない。レッドキャッスルホテルのどこにこんな殺風景な部屋があるのか、問いただしたいくらいである。
 パイプ椅子を中心に部屋を映し出せる監視カメラだけが、無情にを見下ろしていた。
 もはや『後悔する』『後悔しない』の話ではないのではなかろうか。これは逃げるも逃げないも関係なく、どうしようもない死なのでは。

(まだ死ぬって決まったわけじゃない、けど)

 ランプの点滅が止まった。ぷすぷすと何かが焦げる音がした。
 咄嗟にカメラを振り仰ぐ。

「茂木さ――――」

 言い切る前に、爆音がして部屋にスモークが充満した。カメラが落下して粉々に割れる。
 反射的に身を竦めた。

 しばらくして、何もないことに気づく。の腕のフリーパスは独りでに外れ、床に落ちた。ランプの点滅も何もない。不吉な赤と緑の干渉もなく、は煙たい部屋で何度か咳き込んでから、床にへたり込んだ。

「……ブ、ブラフ……?」

 腰が抜けて立てそうにない。冷汗でびっしょり濡れた首元をハンカチで拭う余力もなかった。
 普段の自分からは信じられないほど緩慢な動きでハンドバッグから腕時計を取り出し、フリーパスがあった場所に装着する。体感で1時間、実際には30分ほど経ったころ、扉が外側からノックされ、鍵が開いた。
 入室したのは高田だ。
 人好きのする笑顔を浮かべ、「申し訳ありません」と彼は言った。

「驚かれたでしょう。どうぞ、お部屋の方へご案内します」
「……は、あ」

 立ち上がるのに苦労したを見かね、高田は彼女に手を貸してやった。
 支えるようにして廊下を歩き、足音を吸い込む絨毯を踏んでエレベーターに乗り込む。
 階はどんどん数字を重ね、最上階のすぐ下にまでやってくると、普段着で歩くのが躊躇われるような豪奢な造りのエレベーターホールを通って一室の前で立ち止まった。
 カードキーが認証され、は今までに見たことがないほど広いホテルの部屋に踏み込んだ。
 大きな窓、ソファはもちろんのこと、小さいながらもキッチンまでついている。
 ホテルの一室なのに、部屋の中にまた部屋があり、奥のそれは寝室だった。シングルサイズよりも二回りほど大きく見えるベッドには、ミラクルランドのマスコットキャラクターのぬいぐるみが置かれていた。Welcomeメッセージを抱えたぬいぐるみは愛嬌のある笑みを浮かべていて、の心をより荒ませた。
 高田はをソファに座らせ、手際よく備え付けのケトルから紅茶を淹れる。

「いやはや、申し訳ありませんでした。事前の説明もなく」

 まったくだ。
 は紅茶を受け取った。
 高田は向かいのソファには座らず、立ったまま深々とお辞儀をする。

「これに関してはさまには追加の報酬をお渡しいたしますので、ご容赦ください」

 普段のならば圧されるままに頷いただろうが、心底から驚かされ、また、茂木にも心配と迷惑をかけたという思いがを強くした。
 を知る人には信じられないほどの怒りをこめて高田を見据える。
 彼は慣れているのか、堪えもせず曖昧な笑みを浮かべた。

「実は我が主――依頼人は『茂木探偵はなまなかなことでは本気になってくれない』という情報を手に入れておりました。ですがこの事件を解決できるのは茂木探偵ほどの腕を持つ方だと思いましたので、彼に大きなショックを与える為に秘書であるあなたにこのような仕掛けをいたしました」
「そうですか」

 なりに精いっぱい怒気を込めて相槌を打った。
 聞けば聞くほど自分勝手な理由ではないか。
 まだ強く脈打つ胸をおさえる。

「それで、茂木さ……、茂木はどうしたんですか?」
「茂木探偵は快く依頼を受け入れてくださり、現在鋭意捜査中です」
「……はあ」

 もう何も言えない。面の皮が厚すぎて、手の施しようがなかった。
 は紅茶も飲む気になれず、ローテーブルにカップを返した。
 高田が部屋に置かれていたアタッシュケースを持ち上げ、カップの横で開いて見せた。
 見たことがないような札束がぎっしり詰められている。

「まさかこのまま、事実上死ね、とは言いませんよね」
「とんでもございません。茂木探偵が事件を解決なさったら、合流していただいて構いません。こちらはほんの心ばかりのお礼です」
「そうですか」

 先ほどと同じトーンで頷いたは、できるだけ冷ややかになるよう心掛け、札束を見澄ました。
 きっとがしゃにむに働いても手に入れられない額だ。しばらく遊んで暮らせるかもしれない。

「税の心配はなさらなくて結構ですよ、さま」

 ご丁寧にも言い添えた高田を一瞥する。
 がこれを受け取ると、高田は本当に思っているのだろうか。依頼人の男も、金で弄せると信じているのだろうか。
 だとしたら、とは心底から悔しさを覚えた。
 後がないほど困っていた昔のならどうだっただろう。受け取っただろうか。
 否、と彼女は自分を信じた。
 きっと受け取らなかっただろう。人の気持ちを踏みにじって手に入れるお金ほど、嫌なものはないから。

「必要ありません」

 声は震えず、真っ直ぐ通った。

「茂木が戻るまでここにいろと仰るなら、それは受け入れます。私が接触したほうが、茂木に危険が及ぶかもしれませんから」

 うまくいかなくなったら問答無用で命を木端微塵にできる、無情な爆弾が片腕を支配しているのだ。下手な動きはとらないほうがいい。

「ですが、お金は要りません」

 予想していたと言わんばかりに、高田は読めない笑みを深くした。

「かしこまりました。では、そのように。こちらで待機していただくうちは不自由がないよう努めさせていただきます」
「ミラクルランドへ行くことはできますか?」

 コナンがこの事件に巻き込まれるまで、まだ少し時間があるはずだ。
 ここで許可をもぎ取っておけば、ミラクルランドで少年探偵団と合流し、灰原哀経由でコナンに、そしてコナン経由で茂木に事情を話せるかもしれない。
 未来を知るの気持ちなどまったく知らず、高田は少し考えてから、「携帯電話などは預からせていただきますが」と頷いた。は内心で拳を握った。
 アタッシュケースごと部屋を辞した高田を見送り、ソファに戻る。紅茶に罪はないのでカップを取り上げ、口に運んだ。茶葉がいいのか、こんな気分でも紅茶はおいしかった。
 大きな窓から見下ろせるテーマパークには、今日も客が殺到している。
 部屋の電話がフロント以外には通じないように根回しされているのを確認し、没収された携帯電話の存在をひと通り恋しがってから、は3人はゆうに掛けられそうな大きなソファに倒れ込んだ。





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20150503