押しかけ探偵事務員の受難


24


 毛利探偵事務所のソファの一角で小さくなる。
 ビール缶の詰まれたデスクを見ないように不自然に目を逸らし、指名手配犯のポスターが貼られたボードを眺めた。年がら年中これを視界に入れているとなんだか気が変になりそうだ。茂木の事務所にこういったものの影がないのは、が思うのと同じ理由かもしれない。
 そんな茂木探偵秘書を見て気まずさを味わうのは、競馬の実況をイヤホンで聞く毛利小五郎である。
 片耳にだけイヤホンをつけて新聞と照らし合わせてみるのだが、ちらちらと目に飛び込んでくるの動きが気になって仕方がない。依頼人でもなく、馴染みの刑事でもなく、身内でもない女がここにいるのは稀だ。しかもそれが茂木探偵の事務所で働く秘書となれば、注意を引かれないわけがなかった。
 数秒後、小五郎は目星をつけたものとは違う馬がゴールを切ったと聞き、舌打ちして乱暴な動きでイヤホンとラジオを投げ出した。
 雑な音にびっくりしたが顔を向けると、小五郎とぱちりと目が合う。
 小五郎は昼間から3本目のビールに取り掛かっているらしく、机の上で汗をかく缶をぐいと呷った。
 いいのかなあ、とは首を傾げる。身体に悪そうだ。
 壁掛け時計が時を刻む。待ち合わせの時間まで、あと10分もかからないだろう。
 がここにいるのは、蘭と会う約束があったからだった。
 毛利探偵事務所の下にある喫茶店で待つはずが、コナンに引っ張られて事務所で待機することになり、「ここで待っててね」とにっこり微笑まれて顔が引きつったのは20分前のこと。
 30分ほど約束の時間に遅れてしまうと焦った蘭が、博士のところへ出かける間際のコナンに頼んだのだ。喫茶店で、必要もないのに待ち合わせの為だけに飲み物代を支払わせるわけにはいかないと思ったのだろう。蘭の気遣いはありがたかったが、胸のどこかが切なく痛んだ。
 コナンが用意したオレンジジュースを、できるだけ少しずつ飲みながら待つのも限界だ。底をつきそうなオレンジ色を恨めしく見る。
 そんな時、毛利がデスクに頬杖をついた。

「あのなァ、なんでもあのガキの言いなりにならなくていいんだぞ」

 突然話しかけられたことに驚き、は素早く小五郎のほうを向いて目を丸くした。
 家主の前で居心地の悪い沈黙を保つのも苦しかったが、競馬の一勝負を終えた小五郎も同じ気持ちだったのだろう。

「あのガキンチョは意味がわからねえほど押しがツエエ時があるからな。無邪気な顔して恐ろしいヤツだ」
「は、はあ」
「どうせ今日も押し切られたんだろ?」
「えっと……」

 返事を促されたとはいえ、保護者の前で素直に頷いていいものか悩んでいると、小五郎は軽く手を振って理解を示した。

「だろうなァ」

 弱っちそうだし、と心の中で付け加える。
 ビールで煙草の苦味を喉の奥へ落とし、と同じように時計を見た。

「蘭は何の用事であんたを呼んだんだ?」
「詳しくはわからないんですけど、見せたいものがあるとか」
「見せたいもの、ねえ」

 女同士のグループが考えることはよくわからん、と思考を放棄し、小五郎はまた時計に視線を送る。釣られたも長針を見て、腕時計と照らし合わせた。無駄なことだが、小五郎もたまにやってしまう動きなので突っ込みはしなかった。
 やけにコナンが執着するこの、という人物。
 初めて接したのは殺人事件の現場、かつ自分が犯人扱いしてしまったという最悪の出会いだったが、次に高級旅館で顔を合わせた時、彼女から悪感情はまったく読み取れなかった。心を隠すのがうまいのかと邪推したが、そういうわけでもなく、本当にあの時のことは水に流したようで。
 素直なんだか馬鹿正直なんだかわからんヤツだなと思った。

(あの茂木の所で働いていられるんだ。まあ、悪かねえんだろうな)

 少し交流のある茂木遥史の性格は小五郎も充分にわかっている。風のうわさを耳にしては、変わってないなとしみじみ思ったほどだ。
 その茂木が傍に置くのだ。ある程度の人間性と忍耐力と素直さは保証されている。
 煙草を唇で挟み、火をつけようとした時だった。
 階段を駆け上り、ドアを開ける音がする。
 現れた女子高生を見てが立ち上がり、汗の浮いた首にはりついた髪を背に流した蘭は申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「本当にすみません、部活が長引いてしまって」
「気にしないで、蘭ちゃん」
「今、お茶淹れますね」
「いいよ、そう長くかかる用事じゃないんでしょ?」
「いえ、ゆっくりしていってください!」
「え……でもここ探偵事務所なんじゃ……」

 引き気味のに、蘭は顔を近づけて手を握った。

「お願いします! 私、さんとお話したいんです」

 は下手くそな笑顔を浮かべた。本当はもっとうまくできるはずなのだが、ここのところ、失敗してばかりの微笑みだ。
 ここまで純粋な好意を向けられた記憶の薄いは、真っ直ぐぶつかってくる若々しいエネルギーに気圧されてしまう。
 見かねた小五郎が邪見を装って蘭を窘めてやろうとしたが、それより先にこくりとが頷いた。

「わ、わかった。わかりました」

 とたん、輝いた蘭の顔に、父は嘆息する。

(誰に似たんだかなァ)

 ひとりの顔を思い浮かべ、こちらも気のない笑いを洩らす。

 本来ならば依頼人の話を聞く場所であるが、今日だけは特別だ。営業時間ももうすぐ終わる。
 可愛らしいコースターにが目を細める。その上に、アイスティーの入ったグラスが置かれた。ストローまで挿されている細やかな気遣いに驚嘆する。は家でも茂木探偵事務所でもこんなふうにストローを挿したことはない。
 こうしたほうがいいのかな、と考えながらガムシロップの蓋を開けた。

さんはガムシロップを入れる時と入れない時がありますよね。やっぱり、疲れ具合とかで決めてるんですか?」
「ううん、ただの気分だよ」
「あっ、そうだ。カロリーオフのガムシロップも一応ありますけど、ダイエットとか、気にしてたりしますか?」
「ううん、気にしてない」

 むしろついこの間まで、ストレスと金欠でろくに食事もとっていなかった。ダイエットとはしばらく無縁でいられそうだと喜ぶしか救いはない。
 蘭はの身体を見た。確かに、気にしていなさそうだ。少し失礼な質問に思われるかもしれないと一瞬焦ったが、はまったく気にした様子がなかった。ホッと息を吐く。年齢が少し離れた、のんびりした苦労性の女性のことを蘭は好きだった。
 なぜ好きかと言われても、説明はしづらい。
 出会いが出会いだったから、心配に思う気持ちが先にあった。
 二度目に会えた時、お互いの名前を交換し、気絶したの看病をしているうちに、はらはらしたのも良かったのかもしれない。吊り橋効果もあったのかも。
 けれど、理由なんてどうでもいい、と蘭は思う。
 今、蘭はが好きである。話をしていると楽しいと思う。だからこうして、用事だけ済ませて帰ろうとする少し淡白な彼女を押しとどめてお茶の準備をしたのだ。

「ちょっと待っててください。今、取ってきますね」
「え、あ、うん」

 何を?
 が問いかける前に、蘭は事務所を出て上階へ走ってしまう。
 数分もせずに戻った彼女は、に一冊の本を手渡した。
 表紙の文字を読み上げる。

「アルバム」

 開くと、砂浜の上ではしゃぐ園子とその後ろから海を眺めるの後姿が写る写真がまずおさめられていた。

「……えっ、まさか撮ってたの?」
「えっ、撮っていいよって言ってませんでした……?」
「確かに言ったけど、びっくりした。こんなところまで撮ってたんだね。カメラガールだね、蘭ちゃん」
「あまり上手な写真じゃなくて申し訳ないんですけど、せっかくの思い出なので共有したくて。これ、差し上げます」

 ページには所せましと何枚もの写真が並ぶ。がブルーハワイ味のかき氷を食べ、わずかの間無言になった横顔もばっちり撮影されていた。三人で写ったインカメラでのワンシーンも紙になり、の笑顔を誘った。
 ぱらぱらとページをめくる。アルバムの半分もいかないうちに、海の場面は途切れた。そのあとには空白が続く。
 蘭がとても優しい顔をした。は自分が幼い子供になったような気分で、ぼんやり彼女の笑顔を見つめる。

「この先の写真は、これから撮りましょう。また、一緒にどこかに行きませんか?」

 返事につっかえてしまったのは、決して蘭たちとの旅行が嫌だからではない。

(コナン君ナシがいいなあ……)

 もちろん口には出さないのだけど、思ってしまうのだけは許されたい。
 返事を待つ蘭に首肯する。

「もちろん。私でよかったら、いつでも。ありがとう」
「わ……!」

 蘭が心底から嬉しがって両手を小さく合わせる。 
 も、今度は綺麗に微笑みを浮かべ、アルバムを膝の上で柔らかく撫ぜた。





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20150503