押しかけ探偵事務員の受難
23
あまりにもが落ち込んだ様子なので、さすがの茂木探偵も落ち着かない手つきでまだ喫える煙草を灰皿に押しつける。こんな秘書を見るのは初めてではないが、自分で淹れた紅茶が冷めきるまで一人掛けのソファにうずもれるのはなかなか珍しい。
茂木はどうしたのかと訊ねるタイミングを完全に逸し、数十分そのまま――茂木だけが――気まずい沈黙にぎくしゃくしている。
(どうして俺がこいつに遠慮しなきゃあならねえんだか)
ここは茂木の城なのに。
悶々とコーヒーカップを傾けたところで、ようやくが紅茶に口をつけた。ひと口すすってソーサーに戻す。あ、おいしい、と呟いたのが聞こえ、そりゃあそうだろうよと部屋の奥まったスペースを見る。こちらから見えないようにつくられたそこは簡易のキッチンのようなもので、棚には専用の紅茶の缶がある。普段節制を心がけるも、初給料が入って気持ちに余裕ができたのか、少し値の張る有名な銘柄を購入したのだ。茂木も淹れてもらったことがある。香りが良く、渋みはほぼまったくない。すっかり冷えてしまったのはマイナス点だが、あの味なら多少は気分も盛り上がるだろうよと横目で見やった。
は茂木の視線に気づき、反射的に引きつった笑いを返す。人付き合いを円滑にするためには笑顔が重要だ。学生時代、バイト時代に身に染みて感じたそれを実行するようになって随分経つ。根が正直な彼女は、単純な笑顔も失敗することが多かったが。
「休憩時間なんだから外に出て風にでも当たって来いよ、嬢ちゃん」
「は……」
呟いたきり俯いてしまう。
茂木は額を手で打った。
原因として一番に思いつくのは、ツインタワービルでの大騒ぎだ。探偵として様々な修羅場を潜り抜けた経験のある茂木は、ああいったイレギュラーにも対応する精神力があるが、ついこの間まで平穏に暮らしていたにはショックが大きかったのだろう。生きるか死ぬか、かろうじて通れた場所を炎をかいくぐるように走り抜けたのだ。実際のところ、茂木もかなり肝を冷やした。『』というお荷物がいたからこそ、冷静になれた部分もあった。人は自分よりも弱いものを見ると、仮初でも強くなれるものだ。
あの火災の恐怖を引きずっているのなら。
「夢にでも見るか?」
は顔を上げた。茂木が言いたいことを、目を見て理解する。
ゆっくり首を振った。
「そういうわけじゃないんです。ただ、……逃げちゃいけないなって思って」
「逃げる?」
「茂木さんがいたから、私、生き延びられたと思うんです。自分ひとりだったらきっとあのまま……」
の身体がぶるりと震える。
「あんな状況でひとりになって、避難するのって怖いじゃないですか。挑戦する勇気がなくて、まごついている間に死んでたんじゃないかって」
「……あー……」
あまりにも真剣な顔で言うの気迫に、茂木は気のきいた反応を忘れた。
「それで、『真剣に生きること』から逃げたら、きっと後悔して、それで……」
彼女はそれ以上何も言わず、俯いてしまう。
それで、という言葉のあとにはこう続く。
(またやり直さなくちゃいけなくなってた)
恐ろしい。それは恐ろしい。
うう、とうめく。
真剣に生き延びようとしなくてはいけない。
は他の誰もがそうであるように、生を諦めてはいけない。
後悔するように生きてはいけない。
ついたため息ごと重苦しさを捨てる。
「がんばります」
「……おう、まあ、あんたがいいならいいんだが」
「はい」
リップクリームを塗るのを忘れた唇が、迷いながら言葉を紡ぐ。
「私、……後悔するような生き方をしたら、悪いことが起こると思ってるんです。でも、どうしても動けない時がある。あの火事の時みたいに。だから茂木さんがいてくださって、本当によかった」
の理屈はよくわからなかったが、茂木はすんなり彼女のお礼を受け入れた。貰えるものは貰っておく。要らないものなら捨てる。
の「ありがとう」は今のところ、捨てる必要のないものだ。
素直に受け取らない探偵は鼻を鳴らした。
「依頼人の前でうじうじされちゃあ商売あがったりだからな。早いとこシャキッとしろよ」
「はい」
それで、会話は終わりを迎えた。
冷めた紅茶を飲み干したを見て、ぽつりと思う。
(ま、悪い心がけじゃあねえな)
後悔しないように生きる。
一瞬一瞬を大切にする。
物事から逃げない。
簡単なようで難しいが、確固たる決意を固めた秘書のことを、茂木は密かに評価した。
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20150503