押しかけ探偵事務員の受難


22


 死ぬ。
 は心底から世を儚んだ。

「茂木さん……」

 呟いて、手を伸ばした。
 指先は質の良いスーツの裾を掴み、阿鼻叫喚の周囲を見まわし、手近な灰皿で煙草をつぶした茂木の注意を引く。
 茂木はこの現状にもどかしさと苛立ちを感じたようで、くそ、と短く呟いた。
 誰だって困惑するだろう。こんな、ちょっとしたオープニングパーティーで爆弾騒ぎが起これば。
 どこからかとどろいた轟音と揺れ、停電をもたらした爆発物に狂乱した人々は一斉にエレベーターへなだれ込む。一気に混雑し、押し合いへし合いとなったホールの前で、従業員が必死に誘導を行っていた。
 が頼れるのは、目の前の探偵だけだった。
 探偵は憐れっぽいの姿を目にし、小さく舌打ちする。の表情は真っ青で、今にも倒れてしまいそうだった。その表情が、たった今思い出された『天国へのカウントダウン』を数えたがゆえのものだとは、当然わからない。
 ただ、目の前で震える臆病で情けなくて頼りにならない秘書を守ってやらなければという男の本能に突き動かされた。
 茂木はを引き寄せ、しっかと肩を抱いてやった。

「落ち着け、嬢ちゃん。エレベーターはまだ生きてる。このまま行きゃあ、二基目に乗って外へ出られる」

 はそんな茂木の言葉に涙をにじませる。
 二基目があるか、もうの記憶はあやふやだ。
 一つ目のエレベーターに乗り込んだ人々を見送り、は悪い予感に震えていた。少年探偵団の子供たちが見える。彼らが乗るエレベーターは止められたはずだ。どういう理由かは忘れてしまったが、子供たちのうち、何人かが降りなくてはならなかったはずだ。
 残されたたちは明らかに、どう考えても、少年探偵団の彼らとエレベーターを同じくしなくてはならなかった。
 の絶望たるや、筆舌に尽くしがたい。
 は気が小さい。そして、子供たちを放っておけるほど、無情ではなかった。

(だめなんです、茂木さん)

 ビープ音と共に子連れの女性を拒んだエレベーターから、は一歩踏み出した。
 震える声を押し隠し、出ようとした子供たちを押しとどめる。
 は臆病だし、きっと普通に恐ろしかった。こんなところでひとりぼっちにされては困る。そうは思ったものの、他の誰も外に出ようとしないうえ、子供たちが率先して人助けをしようというのだから、彼らと面識のある大人として動かないわけにはいかなかった。
 きっと、がこの場にいる誰とも知り合いではなかったのなら、こんなことはしなかっただろう。きっとそうだ、とは思った。
 勇者と言われても、百の感謝を並べられても、きっと自分の命を優先した。――はずである。
 だがは、エレベーターを降りた。

「どうぞ、乗ってください。私は次のエレベーターで降ります」

 こう言えたの背を押したのは何だっただろうか。集団心理か、自己犠牲の尊さか。
 ふやふやと泣く赤ん坊を抱えた女性は、に深々と頭を下げてエレベーターに乗り込んだ。ビープ音は立たず、はひとり、エレベーターを見送る。きっと次のエレベーターも満員だ。そしてその次を待つうちに、この階にも煙がやってくるに違いない。
 怖くて泣きそうだ。
 しかし、言ってしまったものは仕方がない。子供たちが「の姉ちゃんを放っておけない」と駆け出そうとしたが、それを言葉で必死に止め、は深く息を吸い込んだ。薄暗い匂いが鼻腔を満たす。

「行ってください」

 大人のうち、顔も知らぬ誰かが『閉じる』ボタンを押した。ドアが閉じるはずだった。

「仕方ねえな、あんたは」

 一人の男がエレベーターの人混みをかき分け、の隣にやって来た。
 は目を丸くして立ちすくむ。男は手振りで乗客を促し、従った誰かによってエレベーターの扉が閉ざされる。点滅するランプが箱の降下を示していて、それを見送る余裕もなく、は自分でも信じられないくらいの大声をあげた。

「茂木さん!」

 茂木はが握りしめすぎてしわになったスーツの裾をひるがえし、内ポケットから煙草を取り出した。

「そのうち火に困らなくなんだろうな?」

 火をつけず、煙草だけ咥えて茂木はにやりと笑った。
 は何も言えない。自分がしたことが間違ったとは思わないが、まさか茂木が一緒に降りるなんて考えもしなかった。
 ただ、僅かばかりでもかかわりのある子供たちを地上に下ろすため、見栄を張っただけだったのに。きっとただ、良い格好をしたかっただけだったのに。
 巻き込んでしまった。
 自分の勝手な想いに。
 の胸に後悔が滲む。

「すみません、私が……」
「どうせ誰かが降りたんだ」
「でも……」
「見直したぜ、嬢ちゃん」

 称賛されても、上手く笑えなかった。はそんな高尚な気持ちから命を賭したのではない。

「ちがうんです」

 どこか蒸す空気の中、黙っていられなくて感情を吐露した。
 茂木が片眉を上げ、ジッポから煙草に火をうつした気配だけを感じる。

「ちがうんです。私、そんな、えらくなんてないんです。ただ、嫌だっただけなんです。子供が、小学生が、……小学生なんですよ。小学生が誰かの為に死ぬかもしれないところに放り出されるのが嫌で」
「だが誰もができる行動じゃあねえ。ガキだと解ってても動けねえヤツだっている。そんな中、あんたは名乗り出たんだろう」
「私は……」

 知っていただけだ。彼らが降りようとすることを。
 うまくいくとも知っていた。彼らを助けにコナンがやってくる。車か何かに乗り込んで、爆風にあおられ、隣の、どこか大きなプールに着水して助かると知っていた。
 それでも『万が一』を考えてしまった時点で、の行動は決まっていた。
 えらくなんかない。
 はもう一度呟いた。茂木のジャケットの裾を、知らずのうちに掴んでいた。茂木はそれに気づいたが、何も言わず、エレベーターの隣の壁に背をもたせ掛け、煙草の煙を吸い込んだ。

「次も満杯だろうな」
「も、茂木さん」
「階段で降りた方が早えか」

 首をめぐらせた茂木の服を引いて止める。そんな危険なことはさせられない。どうがんばったって、下の階は火の海だ。エレベーターが止まらないのが奇跡的なくらいなのだから。
 次も満員なら、その次を待てばいい。
 はそう思ったが、茂木の意見とは合わなかった。待っているだけなら動いた方がまし、と茂木は考え、煙草を一本吸い終わる前にフィルターを噛みつぶし、意外にも丁寧に携帯灰皿に捨てたあと、絨毯を踏んでを引きずっていく。

「雛鳥じゃねえんだ、あんたも自分の足で歩きな」
「だって、危ないですよ、茂木さん」
「どこに居たってあぶねえだろうよ、こんな状況じゃあ」
「で、でも」

 とはいえ、にもわかっていた。映画だったか何かではコナンたちが無事の脱出を達していたけれど、ビル自体は無事ではなかった。上階がほぼ全焼したのではというくらいぼろぼろになっていた気がする。作品特有の表現の誇張はあるだろうけれど、そんなところにいても仕方がないというのは茂木に賛成だ。
 しかし、は「でも」と言い続けた。何に対して否定をしているのか、もはや彼女にもわからない。動くのが怖い。
 そう。は怖かった。
 の恐怖を見抜いたように、茂木はまた彼女の肩を抱いた。黙らせるように、しっかり力を込める。このダメダメな秘書を見捨ててなどいられないし、もちろん、ここでスモークにするわけにもいかなかった。
 は諦めたのか、しばらく黙って茂木について歩いた。

「死にたくないです」

 ぽつりと呟いた彼女に、茂木は腕の力で応えてやった。

「俺もだぜ、お嬢ちゃん」

 分厚い扉で隔離され、火にも煙にもまかれていなかった非常用の通路を使った彼らは地上に降りた後、すぐに救急隊に診察を受ける。安堵から気が遠くなったを今度こそ全身で支えた茂木は、すっかり灰になってしまった煙草を吹き捨て、靴底で踏みつぶしたあと、やれやれと首を振る。
 水浸しになったコナンたちと顔を合わせ、の安否を聞かれた茂木はこう答えた。

「自分から降りておいてこれじゃあな。ひとりじゃあ丸焼きだっただろうよ」

 病院で目を覚ましたは自分の弱弱しい声と仕草を思い出し、ベッドの上で頭を抱えた。
 幸運だったのは、退院後の初出勤でも茂木が何も言わなかったことだ。おそるおそる敷居をまたいだを迎えたのは皮肉の膜に包まれた心配の言葉であり、決してを揶揄するようなものではなかった。

「あの、ありがとうございました」

 の礼に、茂木は目を細めて言った。

「死に損ねたな」
(この人はまた、そういうことを)

 一気に冷めた表情を浮かべたに、苦笑する。
 煤けたスーツをクリーニングに出した茂木は、もうツインタワービルのことなど話題にも出さず、窓の外に向かってフゥと煙を吐き出した。





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20150503