押しかけ探偵事務員の受難


16


 「僕に任せて」と言ったコナンと、電話から戻った蘭と園子に別れを告げてから、は空を見上げてみた。
 真っ青で、透き通った色だ。雲は空の青を櫛で削ったように細く尾を引いているし、西から吹く風も心地よい。悪くない天気だった。
 の心情とは、少し違うけれど。
 ようやくこの時まで戻ってきた、とは思った。
 一度だけ、以前に経験して、本来ならばもう二度と過ごさなかった時間だ。
 ここはにとっての『過去』で、そして、すぐに『あの時』と合流する流れだった。
 あの時。裏の道に入り込まなければ。
 はすでに攻略法を知っている。川品駅にキッドが予告状を出したその日、たぶん今から一か月以内。米花町の、ラーメン街の裏に入らなければいい。近道をしようとしなければいいのだ。そうすればは生き延びる。
 生き延びて、また。
 そう、また茂木の事務所で働けるのだ。
 当然のようで、得難い日常だった。
 ねえ、コナン君。そう呼び止めてしまったを誰が責められようか。
 もちろん、誰も責めなかった。
 振り返ったコナンは、の笑顔がどこか大人びていることに気づき、首を傾げる。こんなにしっかりした人だっただろうか、と失礼なことを思い、自分の考えに苦笑した。はコナンより、『工藤新一』よりも年上の女性だ。きっとコナンが気づかなかっただけで、前からこうだったのだ。

「ねえコナン君。変なことを訊くけど」
「うん」
「もし自分が明日死ぬってわかってたら、お仕事に行くのをやめたり、学校に行くのをやめたりする?」
「……」

 コナンは少し考えてみた。もし自分の死が見えていて、例えばその原因が自分にはどうしようもないものだとも理解できているとしたら、どうするだろうか。学校に行くのをやめるか? 仕事をサボるか? 目の前にある事件を解決せず、遊びほうけるだろうか?
 どれも、否定する。

「やめないよ。だってそれは僕に与えられた、唯一の平和な日常だと思うから」
「……そうだよね」

 この答えでが満足したのかどうか、コナンには判別がつかなかった。なぜならは柔らかく笑って、彼女なりの答えは言わず、手を振って去って行ってしまったからだ。
 正答を与えられなかったコナンは首を傾げる。どんな意図があっての質問かと想像をめぐらせてみたが、彼女の事情など想像もつかず、問い掛けの理由はわからないままだった。

 立ち去ったはコンビニに入り、今までは見るだけしかしていなかった週刊の漫画誌を手に取った。ぱらぱらと読み、気分が乗ったのでレジに持っていく。
 ついでに肉まんを買い、ビニールに入れてぶらぶらと歩いた。
 午後半休をもらってはいたが、足は自然と、茂木探偵事務所に向いた。
 『以前』にこの日を超えてから、自分の人生に課された嫌な現実を知るまで――もっとも、あれが一度きりの偶然だった可能性もあるのだけれど、確かめる勇気はない――そう大した日数は経っていない。確か、多くて二週間ほどだろう。リピートしてしまったので日数計算がごちゃごちゃだが、なんとなくそのような気がする。は携帯電話のカレンダー機能には頼らず、感覚だけで推理した。
 茂木探偵事務所には、週に四回は確実に出勤している。きちんと契約を結んだわけではないので勘定はざるだが、茂木はきちんと週三回勤務の計算で給料を出してくれている。思えば思うほど、律義で親切な男である。はドアの前でこっそり茂木を賛美した。ありがとう、茂木さん。あなたのおかげで私の生活は成り立っています。
 チャイムを押すと、インターホンから入れ、と声がする。合鍵はあるが不在ならば帰ろうと思っていたので、どこか拍子抜けした。なんだ、いるのか。は気の抜けた顔でドアを開けた。

「なんだ仔猫ちゃん。おかしな顔をしてるぜ」
「はあ、すみません。居ないかと思っていたので」
「ここは俺の事務所だぜ? 不在なら『Don't disturb』の札を掛けておくさ」

 不在なのに『起こさないでください』とはどういうことなのだか。また、いつもの『茂木節』だ。
 ですよねえ、と言いながらはソファに腰を下ろした。お茶を淹れる気にならなかったので、コンビニで買ってきたペットボトルを開ける。ぷしゅぅ、と音がした。

「何を買ってきたんだ? 小鳥のおやつには大きいようだが」
「肉まんです」

 小鳥のおやつとはいったい?
 大きな口で肉まんを食べるのは少し恥ずかしかったので、顔を逸らしつつかじる。まだあたたかく、湯気が立つ。は胃袋を中心に、身体が癒されていくのを感じた。疲れてはいないのだけれど、ふぅ、と息をついてしまう。
 茂木はしばらくを見ていたが、彼女がどうとも反応しないので、興味を失くして煙草に火をつけた。香り高い煙を窓の外に向けて吐く。品の良い窓枠は煙の匂いをすっと避けて清涼な風をふき込ませた。
 半分くらいまで食べ、思い出したようには立ち上がった。

「すみません! 茂木さんのぶんを買うのを忘れてました!」
「だろうな」
「すみません、本当に……。肉まんを食べている茂木さんのイメージがまったくなかったもので、考えもしなくて」
「言うねえ、嬢ちゃん」

 やはりこの事務員は高級旅館で畳に突っ伏し座布団を抱きしめ茂木の膝に縋りついて泣いた時から、何か吹っ切れたような気がする。茂木のこの感想はあながち間違いではない。
 吹っ切れたはソファに身体を深く沈め、肉まんを持った手を膝にのせた。
 天気のいい日だ。とてもいいことだ。

「茂木さん、私、しっかり生きますね」
「んん? 前にも似たようなことを言ってなかったか?」
「改めまして宣言です。真剣に生きます。どんな荒波にも負けません。……たぶん」
「最後のひと言をつけなきゃあ崇高な標語になりそうなもんだが」
「はあ……、すみません……」
「元気が出たかと思やあ、こうだ。自信があるんだかないんだか微妙なテンションじゃあ俺の秘書は務まらねえぜ」
「え」

 は弾かれたように顔を上げた。肉まんが揺れる。
 具がカーペットに落ちやしないだろうなと注視した茂木は反応が遅れた。

「秘書、なんですか?」
「……は?」

 『前回』は、とは思う。
 『前回』はこんなことは言われなかった。いや、言われる前にが死んだ。
 二度目の旅館から今日まで、こまめに茂木と連絡を取り、目立った仕事はないものの、事務所でちまちまとマスコットキャラクターを演じていたのがよかったのか。それとも茂木がずっと感じていたことを、今こうして言葉にしただけか。
 は立ち上がりかけた。

「私、茂木さんの秘書なんですか?」
「……あー……」

 茂木はがりがりと頭を掻く。ついうっかり言葉の綾として使ってしまった表現だったが、の反応は目覚ましい。
 否定するのもおかしいので、この男にしては珍しく、曖昧に頷いた。

「んん、まあ、な。俺とあんたしか居ねえなら、まあ、ほら、見た目は秘書って感じだろう」
「茂木さん……!」

 テキトーに言ったことが想像以上にの感動を買っていた。
 引くに引けない茂木は、苦し紛れに喫い途中の煙草を灰皿に押し付ける。この灰皿も茂木の趣味の窺える重厚で洒落の利いたものだったが、今の茂木には少々デザインがうるさく思えた。言葉も物も、何もかもがもう少しシンプルであればいいのに。そうすれば誤解も起こらないし、の、やけに期待と喜色にまみれた視線を受けなくてもよかっただろう。

(クソ……)

 本当にわずかな可能性を追究するなら、茂木は深層ではのことを事務員以上の存在――秘書――と認めていたのかもしれないが、もしそうだとしても正直にそれを告げるには茂木遥史という男は器用過ぎた。自分の心をハードボイルドに染めすぎていて、真っ直ぐに物を言いづらいのだ。

「まあ、いいじゃねえか。その辺りは追々ってことで。……ところでここに来たってこたぁ、あんたは午後休を返上して働きたいんだろうな? それを食い終わったら今日はあっちの整理を頼むぜ」
「お、追々って。茂木さん。大事なところなんですけど」
「俺たちの関係に名前をつけるってーのは俺の一服よりも重要か?」
「う」

 大事だと言いたい気持ちはあるが、に茂木の喫煙時間を価値に変換して計る権利はない。
 茂木は押し黙った彼女を見て安堵した。危ないところだった。
 だが。
 ――と、もう一本に火をつけて、くしけずったような雲を見上げる。
 事務員と呼ぶよりも『秘書』と呼んでやったほうが良いかもしれない。
 どうせここは茂木の事務所で、はたった一人の従業員だ。――押しかけだが。
 茂木に役職のこだわりはないし、給料に色が発生するわけでもない。――なにせ押しかけだ。
 がそう呼ばれて喜ぶのなら、ちょっとしたボーナス代わりにくれてやろうではないか。
 一本分の灰を生む間にそう考えた茂木は、肉まんを食べ終わり、ペットボトルのジュースを飲むに人差し指を向け、くい、とその指を曲げた。彼女の視線を絡め取り、自分に向ける。それを放るように、手入れを待つ事件ファイルを指した。

「あっちを頼むぜ、秘書さん」

 真っ直ぐ見つめられ、はぐっと手を握りしめた。
 返事をして、立ち上がる。
 もう死ねないな、と、彼女は当たり前のことを想った。





main
Index

20150314