押しかけ探偵事務員の受難
15
別れも告げずに行方を眩ませた事務員のことを、茂木はどう思っているだろうか。
が新幹線の中で考えたことはそれだった。
親戚や、友人は。
念の為に米花町から遠い空港を選ぶとのことで、は隣をFBIの応援に守られながら列車に揺られている。
窓の外には冷たいトンネルの壁があり、ガラスは鏡のように反射して乗客を映す。
映るの表情は浮かないようで、どこか安堵が混じっていた。
これまで過ごした人生がすべて失われ、拠り所となるのは自分の記憶だけだ。いずれ何もかもが偽りのものになり、の精神はがたがたになってしまうのかもしれないけれど、それでも、一時だけでも危険から逃れられて嬉しかった。ゲンキンだと自嘲してしまう。
「あの、すみません。私、ちょっとお手洗いに……」
通路側に座る女性に断って席を立つ。廊下を進み、車両を越えてトイレに向かった。一車両しか離れていないからか、護衛はついて来なかった。注意深くの背後に気を配っている。
すすいだ口を拭く。ハンカチが少し湿り、タオル生地にしなければよかったな、とは思った。
新しい生活を始めたら、この布はやめよう。
トイレの鍵を開けた。一歩踏み出そうとしてから、シャツをズボンに入れるのを忘れていたので動きを止める。
視線を下にやった瞬間、スライドドアが横に引かれた。見知らぬ黒い革靴が視界に滑り込んで来て、ちょっと待ってください、と控えめに言う前に、喉が凍った。
嘆息する。ああ、トイレなんか行くんじゃなかった。
黒くて細い筒がの腹に押し付けられる。
「あ」
助けを求めるより、小さな破裂音が早かった。
目を覚ます。
は知らない天井を見ていた。
一拍置いて、いや、と思い直す。随分前のことに思えて、記憶が曖昧になっただけだ。
旅館の天井だった。一度、デザートが一品追加されるクーポンに釣られた茂木がリザーブした部屋だ。
何が起こったのかわからない。とても現実味のある夢を見ていたのだろうか。これは蝶が見た夢か?
の目覚めに気がついた蘭が心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 顔色がまだ悪いみたい……」
曖昧に相槌を打つ。撃たれたはずの腹はちっとも痛くなかった。そっと撫でても血は出ない。二回程撃たれたはずだが。
夢にしては冷たい感覚が鮮明に残っている。
「おなか、痛いんですか?」
「……痛く、ない。大丈夫……」
本当に、痛くはないのだ。
どうしても甘い飲み物が欲しくなり、蘭の制止をやんわり振り切って部屋の外へ出た。
ユの字に近い廊下は接点の部分が少しせり出し、数台の自動販売機が並ぶ空間を生んでいる。は自然とそこを避け、黄色いテープを見ないようにして歩いた。野次馬と、通り過ぎる人に混じって、別の場所にある自販機を目指す。
(ブドウ味にしようかな)
辿り着いてジュースを選んでいるうちに気が紛れてきた。そういえば、さっきの――と言っていいのか――新幹線の中では碌に飲み物も飲まなかった。だから余計に喉が渇いているのかもしれない。
小銭を入れてボタンを押す。大きな音を立てて落ちたジュースの缶は少しだけへこんでいて、なんだか損した気持ちになった。
その場で缶を開ける。きつい炭酸が喉にしみた。
この行き止まりに入って来た女性がいた。は機械の前から退き、邪魔にならないよう隅に寄る。ゴミ箱の傍から離れないのは、飲み干すつもりでいるからだ。
何の気なしに女性の顔を見て、ぴんときた。どこかで会ったような気がしていたのだ。
親切心などでは決してない。同情、が近かったのかもしれない。
浮き沈みの激しいの心が、ちょっとした運転ミスを犯した。
「あの、……逃げきれないと思いますよ。自首したほうが、いいんじゃないですか」
いつかの老舗旅館で起こった殺人事件。その犯人の女性だった。
動機はよく憶えていないが、大雑把に言うと男女関係のもつれではなかっただろうか。
彼女はぶるぶると身を震わせ、怒りと恐怖の混じった眼光でをその場に縫い止めた。
「何言ってるの、言いがかりつけないでよ!」
真実を突かれ、すっかり気が動転していた。誰かを刺した細い手が、の肩を強く押す。
明るい紫色のジュースがこぼれ、浴衣に染み、床に落ちて水たまりをつくった。
バランスを崩したは体勢を立て直し踏みとどまろうとする。しかしたたらを踏んだ時、片方のかかとがその水たまりで大きく滑った。
「あ」
支えを求めて手を伸ばすより、後頭部に衝撃が加わる方が早かった。誰かの悲鳴が遠くなる。
目を覚ます。
は天井を見ていた。旅館の天井だった。デザートが一品追加されるクーポンに釣られた茂木がリザーブした部屋のものだった。
後頭部はまったく痛くない。腹にも痛みはない。血も出ていない。耳の奥に甲高い悲鳴が少し残っているが、気のせいで処理できる範囲だ。
嫌な予感がしていた。夢というにはリアルすぎるし、記憶もあいまいだし、それに。
心配そうに顔を覗き込んでくる蘭に訊ねる。
「……喉渇かない?」
「えっ? あ、……少し……渇いた、かもしれません」
「そうだよね。私、飲み物買ってくる」
「ええっ? ダメですよ、さんは倒れたばっかりなんですよ! 私が行きますから、何が飲みたいか言ってください」
「や、私が行くよ。ありがとう、蘭ちゃん」
不安を隠せない蘭から強制的に「ミ、ミルクティー……」というリクエストを引き出し、は部屋を出た。
ユの字に近い廊下は接点の部分が少しせり出している。接点の奥には、数台の自動販売機が並ぶ空間があった。温泉上がりの宿泊客が美味しい飲み物を楽しむはずの場所は、今、血みどろだ。はしっかりそこを確認してから角を曲がった。
(憂鬱になって来た……)
胃が重い。
ロビーに近い自動販売機でブドウ味のジュースとミルクティーを買ったところで、ちらりと後ろを振り返る。どこか沈痛な面持ちでやってきた女性の顔をは知っていた。忘れられるはずがない。
何事もなく彼女の横を通り過ぎる。
ミルクティーを蘭に届ける前に、は状況を整理したくて外へ出た。
夜の空気は冷たく、米花とは違うにおいがする。曇っていた空も晴れ、月が顔を見せていた。
はふ。ため息を一つ落とす。嫌な予感は強まりつつあった。
あ、こんな時間にお客さんか。車のライトが近づいてきたので、は場所を移動する。ヒュゥ、と風を切る音がした。
「あ」
誰が言ったか、短い悲鳴が旅館の夜にひっかき傷をつけた。上から落ちてきた植木鉢にひとたまりもなく、の視界は暗くなる。
目を覚ました。は畳に寝転がり、天井を見ていた。後頭部も頭頂部も腹もどこも痛くない。今度は悲鳴も耳に残っていなかった。
ゆっくり起き上がる身体を蘭が気遣いながら支えた。
そのまま立ち上がったは、蘭を置いてふらふらとスリッパを履いた。
ユの字の廊下を真っ青な顔で通り過ぎ、小五郎たちが取っている部屋を訪ねる。扉はすぐに開けられた。
顔を出したのはコナンだったが、は挨拶もそこそこにスリッパを脱ぎ捨て部屋に上がり込むと、礼儀も忘れて敷かれた座布団の横に蹲った。
罰が当たったのかもしれない。そう思った。
ひとりだけ逃げようとしたのは許されないことだったのだ。もっとしっかり、生きろと何かが言うのだ。彼女に言うのだ。
たとえばそれは、さだめという何か。
「ど、どうしたお嬢ちゃん。具合が悪ィなら寝てな。邪魔になるだけだぜ」
「茂木さぁん……」
額を畳に押しつけるに覇気はまったくない。萎れた植物のようだった。
「無限ループってこわくないですか……」
「……そりゃ……、怖えな……?」
茂木は戸惑いながら珍しいことに、が望んでいるであろう答えを出してやった。
はしばらく黙ったまま、畳と濃厚に抱き合っていた。
「私……生きます……精一杯……」
八割がた、泣きながら。
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20150309