押しかけ探偵事務員の受難


13


 東都環状線に揺られ、うっかり寝過ごしそうになってしまった。
 肩を揺すぶられて顔を上げたは、自分が隣に座る青年に凭れかかってしまっていたことに気づき慌てて背筋を伸ばした。

「す、すみません、私……」
「気にしないでください。疲れてるんですよ、きっと」

 最近何かと疲れていることにされがちだが、生活が波に乗り始めたとしては本当に疲れを感じてなどいなかったので、これには苦く笑って返すしかない。ごめんなさいをもう一度言い、相手の顔をしっかり見る。二人は同じタイミングで首を傾げた。

「どこかで会いました?」

 ちょうどが口にしたかった質問である。
 利発そうな高校生男子は降りる駅を目前にして、真剣に考え込んでいる。立つ彼を見上げているも必死に思い出そうとするが――この一か月ほどでとんでもない量の記憶をほじくり返している気がする――なかなか思い出せない。
 ぴょんと跳ねた黒髪と、可愛らしさすら感じる悪戯っぽい口元。うーん、どこかで。

「あ……、すみません、ここで」

 青年は電車の減速に合わせ、そっと離れていった。モヤモヤするものが残るのか何度かを振り返ったが、戻っては来ない。ひらりと手を振った動きが誰かを彷彿とさせて、も口の中で粘土を転がしている気分になった。

「あ、携帯の」

 スッと、本棚の隙間に薄い紙を差し込むときのように滑らかに、何の前触れもなく閃いた。いつだったか携帯電話を落としたを助けてくれた青年だった。
 声が聞こえたのか、同時に思い出したのか、青年も振り返って「あ」と口を大きく開く。電車が停まってしまったので会話はなかったが、二人ともがお互いを認識できたので、それはそれで良かったのだろう。気分がすっきりして眠気が遠ざかる。
 閉じた電車のドアの向こうから、駅に立つ青年がひらひらともう一度手を振った。も小さく振り返した。
 速度が上がっていく。景色が横に素早く流れ始めた。手持無沙汰になったは、米花駅までの時間を車内の小さな液晶画面で確かめ、携帯電話を開くことにした。
 メールも電話も入っていなかったので、手早くニュースサイトにアクセスし、トップ画面を眺めて過ごす。
 一つのニュースに目を奪われる。怪盗キッドが東都環状線川品駅のデパートで展示されている宝石を盗む予告状を出したそうだ。どうりでつい先ほど停車したばかりの駅のプラットフォームが混雑していたわけだ。あれはちょうど、件の川品駅だった。
 何やら頭の奥で点滅する『気づくべきこと』があるような気がするが、頑張っても正体を探り当てられなかったので、は無視することにした。



 川品駅を目指す人が多いのか、米花駅の周辺はいつもより歩きづらくなっていた。
 人の間をすり抜け器用に歩く。きりがないので、あまり人影のないほうを選んで進んだ。
 往々にして、こういう時が一番危ないのである。
 時計の針は夜の闇に半分ほど沈んでいる。月はまだ雲に隠れ、灯りも少ないので、道は薄暗かった。
 音楽を聴きながら歩いていたせいで注意力が散漫になり、大切なことを見落としたのかもしれない。
 路地の向こうで悲鳴が聞こえた気がした。
 はイヤホンを片耳だけ抜き、視線をめぐらせる。猫の鳴き声を聞き間違えたのだろうか。とても情けない声が薄暗闇を引き裂いたように聞こえた。
 好奇心が顔を出す。探偵のもとでいくつもの事件に関わり、おかしな記憶を取り戻し、平穏ではない日常に巻き込まれ続けた弊害か、普段のならば『関わるまい』と歩調を早めるはずの異常に首を突っ込みたくなったのだ。

「ゆ、許してくれ、これ以上は渡せないんだ。こっちにも生活ってものがある。来月も必ず払う、だ、だからその物騒なものを下ろしてくれえ!」

 ここは本当に米花町か? かつて『カフェ・ヒグチ』の裏側で行われていたようなことが、ここでも起きているのだろうか。
 の存在感はいつも希薄で、この時もとてもひっそり闇にまぎれていた。
 何かの取引で揉めていることは間違いない。はここで場を離れ、警察に通報するべきだった。実際に彼女はそうしようとした。自分の手には負えないし、飛び込んで行って不審者たちの諍いを収める自信もない。
 後ずさった靴のかかとが小石を踏み、音を立てなければ、はほんの少し警察で事情聴取を受けて家に戻り、あたたかい湯船に浸かって事態を邪推し、麦茶の肴にでもしてからゆっくりと眠りにつくはずだった。

「誰だ!?」

 低い声がを誰何した。足元から脳天まで、背筋を通る鉄棒が地面から生えてきたように、はその場から動けなくなった。隠れていた気配が一気に月明かりの下に引きずり出された。
 目が合った。切れた犯罪者の目だった。
 片方の、サングラスの男は体格が良く、飛びつかれ組み伏せられたら殴り殺されてしまいそうだった。
 もう一人の長身の男は長い髪を風に揺らす。人を殺しても何とも思わないような、何人も撃ち殺して来たような、そんな顔つきをしていた。
 二人は全身を黒でかためるという共通の特徴を持っていた。
 情けない男が這う這うの体で逃げ去る。は知らず、口走っていた。

「黒ずくめの……」

 江戸川コナンが探し求める男たち、そのひとだった。

「あッ、待ちやがれ!」

 気づくが早いか、は踵を返して駆け出していた。脚が震えなかったのは奇跡に等しい。は、は、と荒い呼吸で、慣れない路地を駆け抜けた。米花町で暮らして長いとはいえ、こんな道までは知らない。
 人通りの多いところまで逃げられればいいと必死に道を戻った。まさか街中で発砲したりはしないだろう。殺されるなんてはご免だったし、謎の薬で死ぬのも、子供に戻るのも嫌だった。

 走って、走って、自分にここまで体力があったとは信じられないほど曲がり角を曲がり、自宅にも戻れず手近なファミレスに逃げ込んだは、蒼白な顔で食欲もなくメニューを見つめていた。人を一人殺して来たような表情を、店員も不思議がっている。
 水を飲む気力も出なかった。
 それなりに混雑している店内で、突然に襲い掛かってくるとは思えない。誰かを巻き込む可能性もあったが、誰かを気遣う余裕も、もちろんない。
 震える指先で携帯電話を取り出した。警察に電話をかけなければと手は110番を打ち込んだが、もっと別の人に助けを求めるべきだと考える自分もいた。
 呼び出し音が長く思えた。

『もしもし、お姉さん? どうしたの?』

 子供の声にこれほど安堵したのは初めてだった。は泣きそうな声で彼の名前を呼んだ。半分泣いていた。

「コナ、コナンぎゅん……!!」
お姉さん? ……どうしたの!? 何かあったの!?』

 夕飯前の子供に半泣きで縋ったに、コナンは快く――と言うべきか――毛利探偵事務所を抜け出し、阿笠博士の家に行くという名目でファミレスまで駆けつけたのだった。





main
Index

20150309