押しかけ探偵事務員の受難


01


 あいつを殺したい。ごつごつしたガラス製の重い灰皿で殴りつけるか、電気コードで首を絞めるか、相手の髪をひっつかんで思いきり頭を壁に叩きつけるか。手段を選んではいられない。今すぐここにトラックが突っ込んで、私と、あと関係のない人は奇跡的に助かり、あいつだけが不幸に見舞われれば。
 心底から願っていた。雷鳴がとどろくたび今すぐあいつが避雷針にならないかなと祈りを捧げたり、笑顔で別れた後にいっぺん転べと胸の中で呪ったり、実に地道で不健康な怨みをつのらせ続けて一年が経つ。
 
 けれど、本当に殺すなんて。
 
 そんなバカなことをするだろうか。あいつのせいで人生が狂うのはまっぴらだし、思うことと実行することは別だ。どんなに憎くても心の中で舌を出しても想像上の鈍器で後頭部を殴打しまくっても、実際に凶器を握りしめるわけじゃない。背後を狙うわけじゃない。

 指を突きつけられながら、は目を見開くことしかできなかった。
 を追いつめた探偵は続ける。
 
「犯行に及ぶ動機は明白です。彼女はこの仕事に就いてからほぼ毎日! 樋口賢治から不当な扱いを受けていた! これは秋竹瑤子さんからの証言が取れています。そうですね、目暮警部」
「あ、あぁ、確かに毛利君の言う通り、彼女は樋口賢治に理不尽に文句をぶつけられたり、給与についてもいくつか揉め事があったと聞いているが……。しかし些か早計じゃないかね?」


 凄惨な殺人事件が発覚したのは、季節の変わり目を告げる風が強く吹いた朝のことだった。
 肌寒く感じる強風をやり過ごし、は勤め先の扉を開けた。裏口から入ると、屋内独特の空気がを迎える。
 週休二日。土日を挟んだの出勤は規則よりもずっと早い時間だったが、憂鬱なため息は隠せなかった。空調がついていたのである。派遣のアルバイトが店長よりも遅くに敷居をまたぐと、店を切り盛りする彼は決まってに嫌味をぶつけた。もっとも、早くにタイムカードを切っていたとしても、何かにつけてちくちくと攻撃されるのだが。

「おはようございます」

 が勤めるこの店は、東都環状線の空宿駅から徒歩五分の好立地に構えられたカフェである。米花駅のアパートに住むからすると、たった二駅と5分で辿り着ける勤務先はそれだけで魅力的だった。
 派遣会社から紹介され、は一も二もなくこの案件に飛びついた。家から近いことも、女子受けの良いカフェに勤務できることも、素敵な条件に思えたからだ。給与は空宿一帯のコンビニと同レベルと言えるし、平均的だろう。ならばコンビニで働くよりもお洒落なカフェを選びたい。頑張り次第では正社員への登用もあるという。就職活動からあぶれ肩身の狭さを感じていたは、努力しよう、と決意を固めた。一年と三か月前のことである。
 カフェ・ヒグチは樋口賢治が流行に乗って立ち上げた、軽食メインの喫茶店だった。は慣れない接客業に苦労しつつも、三か月ほどでカンを掴み、仕事にも慣れ、従業員との親交も深めていった。秋竹瑤子という新人も入り、全員で教育に当たる中、多少はそれに貢献できたつもりでもいる。
 そんな頃、の環境は一変した。樋口賢治の対応が目に見えて粗雑になったのだ。
 何をしても文句がつくし、忠告というには辛辣過ぎるひと言が付け加えられる。仲間内で和気あいあいと経営されていたカフェ・ヒグチでは派遣アルバイトの立場は弱く、いつの間にかは孤立していた。常にの味方で居ようとした秋竹瑤子だけがの勇気を奮い立たせていた。
 それから一年が経ち、は心の中にストレスを溜めこみながらも根気強く働き続けた。ここでバイトを辞めてしまっては、という想いもあった。
 
 ため息を呑み込み、ロッカーを開ける。店長は今日の最終準備でもしているのだろうと考え、は着替えてキッチンに顔を出す。フロアの掃除をする前にきちんと挨拶をしなくては。
 キッチンには誰も居なかった。火にかけられたスープだけがぐつぐつと沸き、つい先ほどまでここで営業準備が進められていたことをに伝えた。
 しかし、の目はスープよりも床に向けられ、動かない。動けなかった。
 なぜなら磨かれた冷たい床には、二度とに挨拶を返さない男の死体があったのだから。

「てん、ちょう」

 しばらく呆然としたは、スープが吹きこぼれる音で我に返る。思わず火を止めたのは、スープの質を落とすと店に不利益が出るからだ。だんだんと愛着の薄れて行った職場だが、一年と三か月勤めたプライドはあった。ほとんど反射的な行動だった。
 どうしよう、とは少し落ち着いた頭で考える。物言わぬ男は頭から血を流していた。傍に落ちているめん棒は凶器だろうか。包丁がたくさんあるのにあえてめん棒を選んだのは、店長が手作りのスイーツを調理している途中だったからかな。指紋とか、ついてるのかな。
 
 犯人はだれ?
 
 はよろりと後ずさる。ふらついた身体を支えようと、手がキッチンシンクに触れ、重ねられていた皿がかちゃりと鳴った。
 
「き、……きゃあああああッ!!」

 その音がきっかけだったように、の背後からつんざくような悲鳴が上がった。咄嗟に振り返ると、そこには秋竹瑤子の姿がある。顔を蒼白にして、床の死体とを交互に忙しなく見ていた。
 
 
 狂乱する瑤子を宥め、警察に通報したのはだった。自身混乱して何が何やらわからなかったが、年上としてしっかりしなければと突き動かされる。
 第一発見者かつ通報者であるは何度も事情を聴取され、瑤子と共に問われるまま答え続けた。ところどころ、ちょっと待って瑤子ちゃん、そこは黙っておいてほしかったな、と焦る場面もあったが。主に、店長からボロクソに評価されていたところとか。

「彼女の行動はこうです。いつもより早く出勤するも、被害者は既に準備に取り掛かっていた。彼にとっては『遅刻』と呼んでも差支えのないことだったのでしょう。彼はを責め立て、日頃から不満を積み重ねていたは手近にあった凶器を握りしめ、発作的に被害者を殴りつけた。自分の凶行に呆然としているところを、後から出勤して来た秋竹瑤子さんに見つかり、咄嗟に第一発見者を装った……と」
「だ、だが毛利君。だとすると指紋はどうなるんだね? 凶器に彼女の指紋はなかった。カフェ・ヒグチの制服に手袋はないし、発作的な犯行の直後を秋竹さんが目撃したのなら指紋を拭きとる時間はなかったはずだろう」
「そんなものは我々が来る前にいくらでも工作できますよ、警部殿」
「ウーム……。いささか無茶な気もするが……」

 男は続けた。
 彼は有名な名探偵、毛利小五郎だ。もテレビや新聞で顔を見かけたことがあり、現場に途中乱入された時は驚いたものだ。近くを通りかかった際、パトカーとキープアウトのテープを見てたまらず飛び込んだらしい。高校生くらいの女の子と小学生くらいの男の子を連れて血みどろの現場に入り込むのはいかがなものかと思ったが、警察が許容しているのだから、悪いことではないのだろう。それにしても情操教育に悪そうだ。はジッと自分を見つめる男の子と目が合い、ぼんやり思った。

「スープの火を止めた行動は彼女の心理を表しているのでしょうな。彼女は仕事にプライドを持っていた。どんなふうに罵倒されたのかはわかりませんが、彼女のプライドを傷つける言葉だったに違いない。だからこそ彼女は気が動転していたにも関わらず、スープの火を止めた……」
「あの、私、本当にやってないんです」

 プライド云々の点は認めよう。はたどたどしく主張した。殺意を抱いたこともある。認めよう。けれど実際に殺しを演じるものがどこにいる。少なくともここにはいない。は自分の将来が大切だったし、かろうじて理性的に行動できていた。
 だが、何やらこの男の言う『』は信憑性があった。ぽい。実にそれっぽい。ありそうで困る。傍から見ると絶対にこう思われるだろう。
 事情を知らず出勤してきた従業員たちの視線も胡乱だ。
 孤立無援の状態で、はうろうろと視線を彷徨わせた。

「ねえおじさん、それってちょっと違うんじゃない?」
「えっ」

 を救ったのは、この子供の一声だった。
 
 
****
 
 頭痛が治まらない。まさか、としか言えない。疑いが晴れたのは良いけれど、無二の後輩を失うことになるとは想像もしていなかった。彼女が犯人だったなんて、には信じられなかった。
 ふにゃりと身体を弛緩させ、ロッカールームの椅子に勢いよく腰掛けた毛利探偵は、今度こそ犯人の自供を引き出した。
 秋竹瑤子はと同じように、樋口賢治から不当な扱いを受けていた。ひと通り男のひどい人間性を暴いたうえで、随分と様子の変わった毛利小五郎は秋竹瑤子を犯人と呼び直す。秋竹瑤子こそが発作的に樋口賢治を殴り殺したと言うのだ。
 崩れ落ちた秋竹瑤子は涙をこぼした。
 
先輩がひどいことを言われているのは知っていたし、わたしも同情していました。……だけど……」
 
 が出勤した音を聞き、物陰に隠れて様子を見ていた秋竹瑤子はふと考えてしまった。このままに疑いを向けられないだろうか、と。
 同じように虐げられており、瑤子と違って不遇が周知されていたなら。瑤子から矛先を逸らすくらいは役立ってくれるはずだ。
 あたかも今来たばかりのように悲鳴を上げ、さり気なくの状況を警察に伝える。秋竹瑤子の狙いは当たった。イレギュラーの探偵によってちょっぴり当たりすぎてしまったものの。
 
「犯人に仕立てるつもりなんてなかったんです。本当に……」

 泣きながらにこう言って、秋竹瑤子は連行された。
 
 残されたは唖然とするしかない。後輩の告白は非常に衝撃的で、なぜか慰めてくれる女子高生カッコカリの優しさに浸る余裕もなかった。

「いや、……いやいやいや……」
 
 確かに私はやってなかったけど、と呟く。やってなかったけど、なにこの展開。
 職場と後輩を一気に失ったは、東都環状線にたっぷり一周ぶん揺られてようやく帰路についた。 
 
 
 一年三か月の勤務歴はとんでもない結末で締めくくられた。
 日差しは暖かく、のつむじをじりじり焼いている。心はまったく暖まらないので、は自動販売機でホットの紅茶を買った。
 がこん、と落ちた缶を拾う。小学生のグループとすれ違い、何の気なしに目をやって見送った。あれくらいの年齢に戻れたらなあ……。は切実にやり直しを願った。この人生はとってもつらい。誰だって同じと言われれば、そうかもしれないけど、事件と聴取と無職の三重苦に見舞われたの心は休息を求めていた。新しいバイトを探す気力もない。
 とは反対の方向に進んでいく小学生たちの中から、あれ、と声が上がる。

さん? さんだよね?」

 振り返ったは眼鏡の少年に見上げられ、ひくりと自分の顔が引きつるのを感じた。
 
 
 


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20141210