ドリーム小説 ローブを脱いで、ばさりと椅子にかける。もはや目を惹くこともないいつもと同じ夜の景色は、窓ガラスを鏡のように反射させている。自分の背後、ドアのほうでちょこちょこと靴を履きかえるが見たくて、少し場所を移動した。
よい行いではないと判ってはいた。にもかかわらずアヴドゥルがのお願いに応えてしまったのは、彼女が承太郎に水を向けたからだ。冗談だとは思ったが、気づけば名前を呼んでいた。顔だけこちらに振り返ったの表情はきょとんとしたものだったが、了承を伝えると、嘘みたいに明るく輝いた。
夜道を並んで歩く時、アヴドゥルはようやく自分が星を眺める余裕ができたことに気がついた。が全身に痛ましく包帯を巻いていた時も、軋む身体でリハビリに勤しんでいた時も、アヴドゥルは彼女が心配でならなかった。それが、こうして隣り合って歩いていると、とても心が休まる。今日一日で入院中の空白を埋めるように多く口を動かしていたからか、はぽつりぽつりとしか口を開かなかった。その沈黙は苦ではなかった。
「いつも私は窓際のベッドを使っているんだが……」
アヴドゥルが振り返ると、は「ひえっ!」と身をすくませた。何かに気を取られていたのか、繕うように笑ってなんでもないと手を振る。
「それなら、ドア側のベッドをお借りします!」
「あぁ……だが――」
こういうことは嫌ではないのだろうか。アヴドゥルは言いよどむ。男同士や女同士の友人ならば問題はないのだろう。だがアヴドゥルとは男女である。ホテル側がきちんと洗濯をしてリネン類を取り換えているからと言って、つい今朝まで男の寝ていたベッドを使うことに抵抗がないかと懸念した。は拍子抜けしたように、「変なこと気にするなあ」といいたげな顔をした。
ぽつりと聞こえた「ごちそうさまというか」という言葉は意識しないようにした。の言葉を深読みすると、耐えづらくなる。何にって、色々なことにだ。例えばそれは少女の腕を取って抱きしめたくなる衝動だったり、窓ガラスに頭をぶつけて煩悩を振り払いたくなる激情だったりする。
はベッドの上でうつぶせになり、枕に顔をうずめて小さく歌をうたっている。
アヴドゥルは、2つのベッドの間にある時計に目をやった。もう、夜の10時をまわっている。
「先にシャワーを浴びるか?」
いつまでもの鼻歌をきいていたい気持ちもあったが、眠るのが遅くなってもいけないだろう。は明日、買い物に行くのだと言っていた。寝不足のまま街に出るのは心配だった。旅の途中、いつもそうしていたようにに先を譲ると、身を起こしたは短く感嘆の声をあげ、アヴドゥルを見た。
「おぉ!今のセリフいいですね!これからヤることヤるみたいで!」
「ッ……!」
この少女にはこういうところがあるのだった。
わざと気にしないようにしていた部分を無邪気に突っつかれ、アヴドゥルはうろたえた。咄嗟に態度をごまかすと、は素直に謝ってバスルームへ向かった。
「(……まったく)」
呆れてしまう。誰にかというと、自分自身に、である。大人として余裕を持って接しようとしていたのに、少女はいともたやすくアヴドゥルのラインを踏み越えてくる。下世話な知識は大人と同じくらい持ち合わせているのに、自分に当てはめられないのか、はどうにも自覚のない言動を取る。
ドア側のベッドに腰を下ろす。深く息を吐くことで気持ちを抑えると、アヴドゥルは本を開いた。活字に集中して雑念を振り払うに限る。そう思って灯りを増やす。後ろから聞こえるシャワーの水音は無視する。旅にの間にももっと際どいことはあったのだ。その時のうまく平静を装った自分を思い出せ。
に返事をしてすぐ、湯気が部屋に逃げてくるのを感じた。わずかに湿気が増す。
「お先いただきましたー。ここ、ボディーソープいいにおいですね」
「かなり質のいいもの、……を」
湯上りのふやふやした声でが感想を言うので、アヴドゥルは本から顔を上げて会話を続けようとして、言葉を失った。停止した思考から言葉をひねり出して言いつくろうと、ぐう、と呻って目を閉じる。濡れた髪を耳にかけ、首筋をあらわにしていたの姿が瞼の裏に浮かんで額を抱えた。バスローブは大きすぎるのか、肩も袖もぶかぶかで、胸元は一応きっちりと合されているようだったが、腰ひもの上でだぶついた布の奥が見えそうで見えなかった。
「あー、これ、サイズがなくてですね。そうだ、ちょっと袖をまくってもらえませんか?」
正面に立ったが両手を伸ばす。余った肩からして身体に合っていないので、数回折ってやってようやく手が自由に使えるようになった。他愛のないことを話しながも、ぽかぽかと血行が良くなり、吸いつくような肌触りになったの手が気になって仕方がない。アヴドゥルは手に特別思い入れがあるわけではなかったが、いつまでも握っていられたら幸せだろうと思った。
「冷めないうちに、アヴドゥルさんもシャワーを浴びた方がいいんじゃないですか?」
「そうだな。私もさっぱりするか……」
の笑顔に同意してバスルームへ向かう。扉を開けると、湯気と一緒に石鹸のにおいがふわりと漂った。アヴドゥルがいつも使っている備え付けのシャンプーやボディーソープと同じもののはずなのに、なぜか少し違うように感じる。アヴドゥルはあえて別のことを考えながらバスルームに上がろうとして、失敗した。
「アヴドゥルさんはノーパンで寝るタイプですか!」
そういうわけではなかったが、確かにバスローブの下には何も着けないで過ごしていた。そういえばそれはまずいなと思い直す。

アヴドゥルがバスルームから出ると、は視線をアヴドゥルに向けて、笑おうとして失敗したような顔をした。間接照明だけで照らされている薄暗い室内でも、アヴドゥルにはの頬が赤くなったのが見えた。
「(そういえば、あまりこういう姿は見せていなかったか)」
アヴドゥルとが同室になることは少なかった。は個室か、年齢の近い花京院と承太郎の2人と同じ部屋を取っていたからだ。きっと、50日足らずの旅のうち、寝袋を除けば同じ空間で眠るのは片手で数えられるほどしかなかった。
赤くなった頬を隠すように窓の外へ目をやったは、ガラスを通り抜けて、街にちらばる灯りを見ている。だから反射した自分の姿をアヴドゥルが見ていることには気づかなかった。
ベッドに置いておいた本を手に取り、栞の挟まったページに視線を落とす。向こうのベッドでは、が柔軟体操を始めている。たまに漏れ聞こえる鼻にかかった声は聞こえないふりをした。しかし、身体を伸ばして気持ちよさそうなの声に、なかなかページは進まなかった。
時計の針が夜の11時を回るころ、やけに静かになった室内に、アヴドゥルは顔を上げた。
はベッドの上からじーっとドアの方を見つめている。
「そんなにドアを睨んで、どうした?」
からかうように訊ねると、は事情を説明した。自然と、アヴドゥルの眉間にうっすらしわがよる。彼女の言う通り、さすがにバスローブ姿で外に出るのはよろしくない。たとえ、バスローブ姿で廊下を歩くことが自然な文化の国にいたとしても、アヴドゥルは許可しなかっただろう。すらりとした少女の花開きつつある肢体を、その身体よりもずっと大きな布が隠しているさまは、とても危うい色香があった。
不機嫌そうな声にならないように気をつけて首肯すると、アヴドゥルは冷蔵庫を示した。言われた通りにしゃがんで飲み物を物色し出したは、ミネラルウォーターのボトルを選んだ。
「アヴドゥルさんもお水要りますか?」
「あぁ、悪いが貰えるか」
「はいー」
とくとくとくと音を立てて2つのグラスに水が満たされる。はボトルを棚に置いたまま、アヴドゥルに片方のグラスを渡した。
「ありがとう」
ページの最後の数行に目を通して切り上げようと、グラスを持ったまま視線を下に向ける。2人の距離が近くなったからだろうか、アヴドゥルはふと、自分の気が緩むのを感じた。もそれを察したのか、すすすとアヴドゥルの隣に座った。少し空いていた隙間を埋めるように、が腰を浮かせた。腕と腕がぴったりとくっつく。
「うわあ、英語。私、英語苦手なんですよねぇ。ハローかアイラブユーしか言えないって言っても過言じゃないですよ。よく皆、私の回答を見て笑ってました」
は笑ってそう言った。「皆」が誰のことかはわからなかったが、アヴドゥルは追及しなかった。穏やかに流れる空気に、声を出すのももったいない気がしたのだ。
「(私が教えても構わないのだが……)」
きっと、そういうことではないのだろう。アヴドゥルが申し出ればはまたあの笑顔をきらきらとさせて喜ぶだろうが、その表情は自分におあずけにする。自分の情報をあまり語らないが、ぽろっと気を抜いて思い出を喋ったことが嬉しかった。
本を閉じて、グラスに口をつける。冷えた水が喉を通る。飲み干してしまおうと喉をそらすと、死角からあらわれた指がアヴドゥルの喉仏に触れて、アヴドゥルはびくりと震えた。
「な、なんだ?」
人差し指と中指で喉の形をなぞられ、親指が首筋に触れる。ぞわぞわと背筋が騒めく。いやな感覚ではなかった。どちらかというと――。
「おお……」
が呟いた。の手つきは好奇心のままに動いているそれであり、指先には力がこもっていない。だから、2本の指で咽頭隆起――喉仏を確かめるようにくるりと撫でられた時、くすぐったくて喉の奥でくっと笑いが漏れた。動いた隆起に目を輝かせ、が反対側の手で自分の喉をさする。
「喉仏!!かっこいい!」
さっきまでの空気はどこへ行ったのか、は両手を高く上げると、座った状態からぱたんと身体を倒した。背中をふかふかのマットレスに預けて、うーんと身体を伸ばす。
アヴドゥルはの膝から空のグラスを抜き取ると、枕元のテーブルに置いた。
じんわりと開いた膝の間に、余ったバスローブの布がわずかにドレープをつくっている。アヴドゥルに近い方、の右足は、合わせていた布がみだれ、ベッドから垂れる華奢な足首やきれいなふくらはぎ、隠れた膝をすりぬけて、すべらかな太ももが見えている。惹きつけられるように触れようとして、はっと手を引っ込めた。触ったら後戻りができなくなる確信があった。
「今日は……」
ふやふやとした口調でが口を開いた。まつ毛は伏せられていて、まろみの残る頬にほんのわずか影を落としていた。
「きょうは、だいたいアヴドゥルさんと一緒にいられてとても楽しかったし幸せでした……」
本当に幸せそうな声でそう言われて、アヴドゥルはふっと微笑んだ。ベッドに手をつき体重を傾けると、スプリングがぎしりと軋む。少女は隣の男をすっかり信頼しきった顔で、うすく唇を開いて呼吸している。まだ湿っている前髪を梳くように撫で、額に手を寄せた。壊れ物を扱うような繊細な手つきで何度も額と前髪のさかいめに触れていると、は「はう……」と甘やかな声をこぼした。すう、と息が深くなったのを見て、アヴドゥルはが眠りに落ちたことを知る。
「まったく……困ったやつだな、君は」
数週間の空白を一瞬で埋められてしまった。それだけではない。
「少しは私に大人ぶらせてくれ」
自分の喉に触れて、つい先ほどの感覚を思い出す。の指がアヴドゥルの喉仏を撫でまわした時、奔ったのは隠しきれない情欲だった。宿ったそれを振り切りきれなくて、アヴドゥルはの首にそっと触れた。細い首を包むように触れ、なめらかな喉に親指を滑らせる。誰かに喉に触れられたことも、こうして誰かの喉に触れたこともなかった。
ひとしきりいじって満足すると、アヴドゥルはの背とシーツの間に腕を差し込んだ。膝の後ろにも腕を入れる。反動もつけないでを抱き上げると、窓側のベッドにそっと下ろした。肩まで掛け布団を引き上げて、枕元の明かりを絞る。
「おやすみ」
最後に一度頭を撫でて、アヴドゥルも眠ることにした。