ドリーム小説
生体情報モニタの電子音は止まらない。心臓の鼓動と同じリズムで、静かな個室に響く。
「お見舞いに、何を持って来たらいいかわからなかったんだ」
思い浮かぶ少女の顔はいつも笑顔で、静かに横たわる寝顔なんて見たことがなかった。
花京院は、人の病室を訪ねたことがない。
彼女が何を好きなのか、改めて考えると思い浮かばない。とてもあけすけな女の子だったけれど、知らないことが多いのだと気づいて愕然とする。
花京院は、の苗字すらきいたことがなかった。
消えきらなかった傷跡は引きつれることもない。制服の上から撫ぜると、失いつつある意識の中で、暖かい存在を感じた時のことが思い出される。
「承太郎は、のところへ行かないのか?」
花京院の知る限り、承太郎がお見舞いの品を見繕うことはなかった。代わりに、授業を抜け出してふらりと病院に足を向ける時には、必ずホリィが手作りした日持ちするお菓子を持っていた。ベッドの傍にある小さなテーブルには、1つ1つラッピングの違うファンシーな贈り物が増えていく。
ポルナレフはフランスへ帰ることを選んだ。怪我の治療をし、SPW財団から損失した爪先の代わりを与えられると、早々に飛行機のチケットを取ってしまった。
「ったく、心配かけやがってよォ……。スタンドもねーってのに、……生きててよかったよ」
帰国の直前、包帯の巻かれた少女の腕に目をやって、ポルナレフは苦笑した。ふにふにと頬を指で突いて、ポケットからコインを取り出す。そのコインは、ポルナレフが初めての前でチャリオッツをふるった時、炎と共に剣で突き刺したものだった。スタンドの見えない彼女は、空中に一列でびしりと並んだコインに感心していた。旅の途中、穴の開いたそれを使うわけにもいかず、かといって捨てることもなく、ポルナレフはそれを持ったままだった。餞別をじゃらりと机に置いて、振り返らないで出ていった。
SPW財団の傘下にある大病院で万全の治療を施されたジョセフは、完全に蘇った身体でよく少女のもとを訪れた。老いた自分よりもずっとずっと若く、孫のように可愛がっていた少女がこうして昏々と眠り続けているのを見つめるのはつらいものがある。
「わしはいつでも、君の味方じゃよ」
違う世界から突然現れた少女。まだ、ジョセフの人生の4分の1しか生きていない、異質な能力の持ち主。彼女の寄る辺となったのは、一度も会ったことのなかった老人だ。少女の眠れない夜も、半身に等しい異形と向かい合う時の表情も、ジョセフは知っていた。
かさぶたのできた柔らかな手を握って、目覚めを祈った。

見舞いの客が訪れた時、アヴドゥルは席を外すことにしていた。
異国の訪問者が珍しいとはいえ、受付の看護師に顔を覚えられるほど病室を訪ねている彼は、仲間たちが現れる時分に、だいたい椅子に座って本を読んでいた。窓から射し込む光が中天から西へ傾くまでページを繰ると、眠るの額と髪をそっとなぜてからホテルへ帰る。
「国には戻らないのか?」
ポルナレフにそう、聞かれた時、アヴドゥルは苦く笑った。
アヴドゥルが日本に滞在し続けられているのは、SPW財団とジョセフの助力があるからだ。ホテルもSPW財団の組合の一部で、気の済むまで滞在するようにと言われている。甘えてばかりいるのは心苦しかったが、離れたくないという強い思いがあった。
読み終えた本は両手を超えるだろう。
新しく持ち込んだ本にしおりを挟んで、アヴドゥルは椅子から立ち上がった。
部屋に戻る。
アヴドゥルはベッドのかたわらに椅子を引きずると、の顔が見えるように腰を下ろした。
ページに油分をすいとられ、わずかにかさついた指先で頬に触れる。血の気はよく、今にも目を開きそうなのに、そのまつ毛は震えもしない。
ローブの袖がシーツにこすれる。枕のそばに手をついて、アヴドゥルは腰を浮かせた。
真正面から寝顔を眺める。少しやせて浮き出た鎖骨が、入院着のたもとから覗いていた。
「()」
一度もそうしたことはなかったが、今はそれが自然な行動に思えた。
そっと顔を近づけ、唇で額に触れた。
「まったく、あまり私を待たせないでくれ」
アヴドゥルの息が、言葉と一緒にの前髪を揺らした。
「……う」
「!」
声がきこえた。はっと、アヴドゥルが顔を離すと、のまつ毛がかすかに震え、瞼の下で目が動く。
呼吸もできずにアヴドゥルがを見つめていると、やがて薄茶色の瞳がぼんやりとアヴドゥルをとらえた。
「……ゆ、夢か……。アヴドゥルさんが……今までにない至近距離にいる……」
水分不足で乾いているだろうに、小さい声でそんなことをが呟いたものだから、アヴドゥルはつい笑ってしまった。愛しさと安堵が入り混じって、どんな表情を浮かべても不釣り合いな気がした。
「夢だと思うか?」
こつり、と額を合わせて囁いたアヴドゥルに、はゆるゆると焦点をあわせ、それから目を見開いた。まつ毛が触れ合ってしまいそうな距離に驚き、何か言おうとして、声が出なくて慌ててそっぽを向いて咳き込んだ。
「水を飲めるか?」
何事もなかったかのように上体を起こすと、アヴドゥルはいつでも新鮮な水がつがれている水差しを差し出した。
は起き上がろうとして、身体が包帯やギプスだらけなことに気づくと、複雑そうな顔で水差しを口に含んだ。
「ゆっくり飲め」
「うい」
喉を潤すと、は改めてアヴドゥルを見た。
「えっと……おはようございます……」
「……あぁ、おはよう。かなりの寝坊だ」
は徐々に、DIOに放り投げられたことを思い出した。それが呼び水となってみるみる記憶が呼び起こされる。
「か、花京院は!?お腹に穴が……!」
「落ち着け、。花京院は無事だ。みんな、無事に生きている。大丈夫じゃないのは君のほうだ」
「よ……よかった!ホリィさんも!?」
「あぁ。DIOを倒してすぐ、暴走していたスタンドは沈静したよ。消えたのかは判らないが、彼女にはその自覚がないし、ジョースターさんもこのままで大丈夫だろうと言っていた」
は大きく息をついた。問題はすべて解決されたのだ。
「私は……これ、足とか……骨折……」
「しているな。かなりの重傷だった」
「……あ、私はどれくらい寝てたんでしょうか?やけにすっきりしてるんですけど……」
アヴドゥルは何も見ずにさらりと答えた。予想もしていなかった日数に、はおうむ返しに聞き返す。頷きが返ってきて、ひええと悲鳴を上げた。
「すみません、ご迷惑おかけしました……。入院費とかどうなるんでしょうね……?」
「君は気にしなくていいことだ」
まだまだ、空白を埋めるように話を続けたかった。だがアヴドゥルはぐっとこらえると、に眠るよう促した。声が震えないように気をつけながら。
一度目覚めたからと言って、もう一度目覚めるかはわからない。記憶も、言葉遣いも、視線もはっきりしているにひどく安心したのは確かだが、アヴドゥルの心にはわずかに懸念があった。
「……」
口を閉じて、アヴドゥルをひたと見つめたは、そんなアヴドゥルの気持ちを察したようにへらりと笑った。
「それじゃあ、おやすみなさい。次は目覚めのキスでもお願いします」
アヴドゥルの反応を見ないまま、は目を閉じる。

がようやく松葉づえなしに動けるようになったのは、目覚めてから半月ほど経った頃だった。複雑に砕けていた骨も、傷は残るものの完治する。というのも、誰もいない病室で早朝に目を覚ました半月前のが、召喚器もなしにペルソナ――アスクレピオスを召喚できると気づいたためである。体力の限界が来るまで回復術を自分にかけ続けた結果、ボロボロだった身体は1週間で完治した。
看護師はすっかり呆れていたが、SPW財団の不可思議と接している病院だけあって、スタッフは異様な力に寛容だった。早く治ってよかったですね、とまで言われ、は照れたように笑った。
が全快したことを知っているのは、担当の医師と看護師、そしてアヴドゥルである。それだけだった。
は意外と根に持つタイプである。
カルカッタから紅海の小島まで、アヴドゥルの生を秘密にされた恨みがあった。恨みというほど根強い感情ではなかったが、眠ろうと目を閉じた瞬間思いついてしまったのだ。はぱちりと勢いよく目を開けて、自分の寝顔を見つめていたアヴドゥルを驚かせた。そのまま、その日はアヴドゥルのほかに誰も見舞いに来ないことを面会終了時間まで待って確かめると、ナースコールで回復を知った看護師たちを湧き立たせ、駆けこんできた医師をあきれさせた。あまりにあんまりな提案だったからだ。
美青年や美老年のお見舞いを楽しみにしていた看護師や、悪戯心のある医師が計画に乗っかったことを見て、多少は罪悪感が残っていたアヴドゥルも首を縦に振った。都合のいいことに、と同じく事実を知らされていなかったポルナレフはすでにフランスに帰っている。
仲良くなった看護師がの頼みに負けて、サイズの合う洋服を病室に届けると、計画は大詰めに入った。
「いやあ、病院食でちょっと痩せたから、ウエストが緩くて嬉しいや」
ムダ毛の処理は前日のシャワー室で完遂済みである。
ショートパンツのボタンを閉めて、衝立の裏から躍り出ると、は鏡の代わりにアヴドゥルに服装を見せた。
「ヘンですかね?」
「いや、似合っている」
やったー、と、笑いながら自由になった手足を奔放に動かしてアヴドゥルに抱き着くそぶりを見せたは、受け入れたアヴドゥルと軽くハグを交わすと、洋服の入っていた紙袋を畳んで机に置き、病室を後にした。手に持ったミニトートバッグの中には、食べきれなかったホリィのお菓子と、数枚のコインが入っている。花京院の持ってきた花は病院の備品の花瓶に生けてあったので、枯れた花を中庭に埋めて、花瓶を洗って置いてきた。
「うーん、シャバの空気はおいしい」
「中庭には出ていただろう?」
「開放感が違うんですよねー。いやあ、ペルソナ様様だ!」
ご機嫌な様子でスキップをするに、アヴドゥルは自然と口角が上がった。色の明るいタイツを履いた姿は初めて見るが、ズボンで隠しきれない傷を見せないためだと知っているので違和感は抱かなかった。
「男の勲章ってやつですね」
君は男じゃあないだろう、とは言わなかった。けろりとして、は傷跡を気にしている様子がなかったので、それはそれでいいかと思った。陽の下でまぶしく輝いていた脚を見られないのは少し残念だが、とそこまで考えてアヴドゥルは考えを振り払った。雑念雑念。
アヴドゥルは1人で空条邸の門をくぐることになっている。呼び鈴を鳴らすとホリィが笑顔で現れ、「あらアヴドゥルさん、いらっしゃい!」と彼を中へいざなった。誰も見ていないことを確認して、アヴドゥルはその耳元に計画の一端を囁いた。ホリィは泣きそうなほど顔を輝かせてからアヴドゥルに簡素な祝辞を述べた。それから、の悪戯の原因となった出来事をかいつまんで説明されると、彼女は意外なほどしっかりとした顔で頷いた。演技は苦手だろうと予想していたアヴドゥルは、ホリィの印象を改める。
「パパにはそういうところがあるの。いいわ、私、何にも知らないふりをするわね」
ウィンクしたホリィの背中は細かったが、良い年の重ね方をした人物特有のたくましさがあった。
縁側を通り、茶の間のふすまを開ける。畳の部屋のなかには見慣れた顔が揃っている。アヴドゥルが、たまには集まって休みを取ろうと提案したのだ。
日常を学業に勤しむ花京院はそうですねと微笑み、進路を決めつつある承太郎は何も言わず自宅を解放した。ジョセフも仕事に一息入れると、妻の外出に合わせて昼過ぎにふらりと現れた。イギーはホリィの手作りのジャーキーが気に入ったのか、座布団の上でガジガジと噛んでいる。
差し出された座布団に座り、アヴドゥルは紅海近くの小島で証明された演技力を発揮し、心底何事もなさそうに装った。実際に、空条邸の前で別れてからのの行動はアヴドゥルには伝えられていない。これから何が起こるか未知のまま、湯のみに口をつけた。
「アメリカへ行くということは、ジョースターさんと一緒に暮らすのか?」
「いや、部屋を借りるつもりだ。ジジイの介護は俺の仕事じゃあねーぜ」
「わしはまだまだボケとらんぞ」
茶会は和やかな空気の内に進んだ。花京院に、蒐集した古書のことを訊ねられ、魅力と解釈を熱く語っているうちに、アヴドゥルは一瞬から意識が逸れた。
その時である。
脚の上に顔を乗せていたイギーが、ピクリと耳を動かした。目ざとく気づいた承太郎が口を開く前に、縁側に影がひらめいた。
「ふはははあー!承太郎のエロ本、討ち取ったりー!!」
楽しそうな笑い声だった。花京院がハッと顔を上げ、ジョセフが腰を浮かせた。承太郎は何か言おうとして、やめた。
「残念ながら貼りついて取れないページはなかったが、お前の趣味はすべてまるっときらっとお見通しだ!外国の清楚そうな、口数が少なく微笑みが花のように柔らかな年上の美女!男は皆いつまで経ってもマザコンというけど、言われてみればホリィさんに似てなくも」
!?」
逆光になっていたのは、背後からホリィが大きな懐中電灯をあてていたからだった。花京院が名前を叫ぶと、影は掲げていた雑誌を下ろしてホリィにお礼を言った。
「ありがとうございます!一回、承太郎の部屋に入ってみたかったんですよ」
「ウフフ、いいのよ!今、お茶持ってくるわね」
「いえいえお構いなく!あ、お手伝いしましょうか!」
「あらあら、気を遣わなくていいのよ!夕食まで食べていってくれるでしょう?」
「えぇー!?そんなお世話になっちゃっていいんですか?ホリィさんのごはんおいしいから嬉しいです!」
ひらひらと手を振って台所へ向かったホリィを見送って、は開きっぱなしのふすまに手をかけた。遠慮はない。頭を抱えていたアヴドゥルとちゃぶ台の間に滑り込むと、すとんとあぐらの上に座り込む。
「あ、承太郎これどう?あげるよ」
「どこで買ってきたんだ?俺の部屋から取って来たような芝居しやがって」
「こういうの好きかと思ったんだけどな……じゃあ花京院にあげよう」
「うっ……ぼ、僕はいいよ。……じゃなくて!、ど、どうしてここにいるんだ!?」
雑誌を押し付けられた花京院は顔を赤くした。
まったく事情が分からない。花京院とジョセフは、確かについ昨日、の寝顔を見たのだ。看護師もいつも通りの態度だったし、呼び出した医師も沈痛な面持ちだった。
「き、昨日まで包帯まみれじゃったぞ!?」
「看護師さんがノリノリでやってくれたんで、そのままにしときました」
「もう大丈夫なのか!?あ、あんな変な登場の仕方、……っていうかいつから!?」
「全然大丈夫。えっと、半月前……かな?」
半月前。
花京院は言葉を失ってしまった。承太郎に視線を向けると、彼は平然と「呼吸が違ったから、起きてるのは知ってたが」とのたまった。はへらへら笑ったまま「黙っててくれてありがとー」なんて言っている。
ホリィからお茶を受け取る。があまりにもとんでもないことをやってのけたので、花京院は、彼女にずっと言おうと思っていた言葉をすっかり呑み込んでしまっていた。
「アヴドゥルさんも驚いていませんよね。……どうしてこんなびっくりさせるようなことを?」
「仕返し」
「……は?」
できるだけ少女に触れないよう、両手を膝に置いて椅子に徹していたアヴドゥルに、花京院が水を向ける。アヴドゥルが答える前に、はアヴドゥルの胸にぐーっともたれかかって短く呟いた。
「えーっと、あれは何日前だっけ?憶えてないけど、アヴドゥルさんのこと内緒にしてた仕返し!」
「は……ははは、手厳しいのォ……。しかし実際にやられてみると、……かなりクるものがあるな……」
「ただびっくりさせたかったっていうのもあるんですけどー……」
今度はぐーっと長座体前屈のように、斜め隣に座るジョセフのほうへ両手を伸ばす。の腕の付け根をつかんだジョセフは、まだまだ頑健な腕の力でを抱き寄せた。四つん這いのようになったは、「うひゃひゃひゃ」と笑いながらジョセフの腹に頬を擦り付けている。脇の下にあるジョセフの手がくすぐったいようだった。
いつも通りのように見えて、どこかよどんだ凝りを抱えていたそれぞれは、以前と全く変わらないの姿に、心のどこかが暖かくほどけていくのを感じていた。大人になりゆく少女の高い笑い声があると、これほどまでに違うのか。
他の誰でもない、だからこそこうなのだととても自然に納得する。
花京院がほっと息をついたのを見て、アヴドゥルも微かに笑う。もはや、彼女のいない自分たちなど想像できそうになかった。