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スキキライウイルスのあと



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「結論から言うとな、ザップ」
「あ、はい……」
「ものすごく嫌われてるんだよ」
「っすよねー……」
「薬が効くまであと3日ある」
「ええ……」
他のメンバーはことごとく目をそらした。僕も視線を空へ流す。知らずとはいえ地雷を踏んでしまったザップさんが悪い。

記憶に新しい事件だ。『好き』と『きらい』が反転してしまうウイルス。それも、反転する感情は恋愛の情だけで他にはなんの影響もない。
ものすごーく嫌われているということはつまり、ものすごーく好かれているということである。
僕は一度だけ『嫌われた側』の逃げ場になってあげたことがあり、ウイルスと解毒剤と効能についてはよく知るつもりだ。
スティーブンさんは『嫌う』側の当事者だったため、彼もよくわかっているはずである。
いま彼を嫌って嫌って嫌って嫌って嫌って嫌って嫌って嫌って嫌って嫌って嫌って「とんでもなくキライ!」と言い放った彼の恋人、異世界人の彼女の心情と、それは不可抗力が働いてどうしようもなく正反対に引き付けられているのだということは。
だがまあ、その、人間の心はうまく整理をつけられるときとつけられないときがあり、どんなときであっても冷静に計算して自分を殺せる某番頭さんであってもそれはそうらしく。
そうとも知らず軽く1杯ひっかけて出てきたザップさんは、事務室でぷいとむくれる知った顔を見て目をまるくした。
「あれ、お前ナニしてんだ?スターフェイズさんにくっついて逆同伴出勤か?」
彼女はザップさんの言葉に肩を怒らせた。
「やめてください」
「ンだよマジになっちまって。こいつなんでここに居るんすか?」
「その説明は僕がするよ。あー、うん、君は、いいよ、聞きたくないなら」
後ろの言葉は彼女に向けられたものだ。スティーブンさんはザップさんを人差し指で招き、ソファから離れて窓際に立った。
ザップさんは怪訝そうに、部屋にいる彼女と僕とツェッドさんとスティーブンさんをぐるりと見回した。
異様な空気だ。部外者(……まあ)がいること以外はただの平和な平日の11時なのだが、どこかピリピリとピリ辛い。胃が痛い。
ザップさんが、ぶすっとした表情に焦点を合わせた。
「へー。いつもみてーに犬みたくくっついてんのかと思ったらおとなしいじゃねえか。倦怠期か?」
「倦怠期じゃない」
ぴしゃり。声がかぶった。女性のものと男性のもの。ソファと窓際から低音が混じり合ってぶつかる。まったく意味は違うのに同じ言葉だからいやはや不思議だ。
異常さにぎくりとしたザップさんが1歩退いた。
彼女は追いかけるように、仔犬のように鋭く噛みつく。
「倦怠期じゃなくて嫌いなの」
「はあ?おいレオ、こいつ頭でもトんだか?あんなに好き好きーってうるさかったヤツが1日でコロッと意見変えてんぞ。昨日まで首ったけだったろ。好きなんじゃねえのかよ。一貫させろよ」
「顔は好み。それはね!声もいいと思う。それもね!体型も素晴らしい。こっちも!でも、何もかもが気に食わなくてイヤ」
「は、あああ?はあ?意味わかんねーよ。英語で喋れよ。何語使ってんだ?異世界語か?」
「日本語使ってる」
「そーいう翻訳のハナシぁ置いとけ!だってよ、おい、なんなんすか?こいつがスターフェイズさんを嫌いって、レオ、今日は槍でも降るのかよ?」
あのザップさんがここまで焦るのだから、この事態がいかにおかしいかは容易に察せられるというものだ。笑ってしまうくらい慌てている。スティーブンさんに呼ばれたのに、彼女のほうに身を乗り出した。
「どこが気に食わねえんだ?女喰いまくってそうなところか?浮気でもされたのかよ。超絶嫌いか?」
「チョーゼツ嫌い。レオは、スティーブンと同じでウイルスのせいだからって言うけど違うと思う。スティーブンはウイルスのせいだったかもしれないけど、私は絶対違う」

と、いうことで冒頭に戻る。
「結論から言うとな、ザップ」
「あ、はい……」
「ものすごく嫌われてるんだよ」
「っすよねー……」
「薬が効くまであと3日ある」
「ええ……」
他のメンバーはことごとく目をそらした。僕も視線を空へ流す。知らずとはいえ地雷を踏んでしまったザップさんが悪い。
助け舟を出すように、ツェッドさんが口を開いた。
「ですが、どうして突然嫌いになったのかはわからないんですよね」
「わかんない。でもそういうものなんじゃないの。昨日までは恋してたかもしんないけど、朝起きたら冷めてることなんてよくあるでしょ」
「あったんですか?」
「うん、あったよ」
「あっちゃったんですか……」
過去の恋愛歴は知らないけれど、無駄に経験に即してしまっていてとても気まずい。
スティーブンさんは彼女にバイトを休ませしばらく手の届く範囲に置いて様子を見ることにしたようで、僕が出勤したときにはすでに彼女はここにいた。ウイルスの経過を診るためだろう。思い切りのいいこの女性をひとりにしておいて、またどこか、ホテル住まいか何かを選ばれ逃走されたら困ると思った部分もあるのかもしれない。いろいろと前科のある人だから。
ザップさんは僕の淹れた紅茶をふうふうと吹き冷ます人にそろーっと近づいてしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。不思議がるその目には嫌悪も何もなく、普通のままだ。
「じゃあお前さ、スターフェイズさんと別れんの?」
「わ」
「『わ』?」
「わかれる?」
まったく予想外の言葉をかけられたかのように、紅茶の人は固まった。
うろうろと視線がさまよう。
追い打ちがかけられる。
「嫌いなら別れんだろ」
「……たし、かに」
そんな選択肢はこれっぽっちも頭にありませんでしたと言わんばかりだ。
「確かに、そうだ!嫌いならフツー別れますよね!っていうか、なんで思いつかなかったんだろ。ザップさんってすごいですね」
「急に笑顔輝いたなーお前」
なにがしらから1本取れたと思ったのか、笑った彼の白い服に冷ややかな声が突き刺さる。僕は視線を向けてすぐそらした。なぜなら。
「ザップ、暇ならおつかいにでも出かけるかい?バーリン博士のところとか」
「うえっ、……や、ちょっとカンベンしてください」
「じゃあわかるよな」
「はい」
ものっすげえ機嫌が悪いのである。ザップさんが引くほどに。いや、スティーブンさん関連ではザップさんはかなりの頻度で勢いを引いてるけども。
「嫌いなんだよな」
「嫌い」
「すっごく?」
「……すっごく嫌い。昨日までとは気持ちが全然ちがう……」
自分でも不可解すぎる心理状況と現実の狭間に揺れる。彼女が放り込まれた混乱の渦はどれほどのものだろうか。
スティーブンさんはスティーブンさんで、明確に『嫌い』と断言されることで逆説的に好意を確認しているのだが、なにぶん毎回ハッキリと否定されるので(……実際は肯定なのだが)消化不良を起こしているらしい。はあ、とため息をついた。
それでも仕事はばっちりこなす。
機密に触れてはいけないので、罹患者は僕とツェッドさんと一緒に水槽の前に集まってババ抜きだ。
「これむしろ『好き』って言ってみたらどうなるんですかね」
「レオくん、それはあまりにも酷なのでは」
「や、ただの興味ですって!でもかなりのダメージになりそうですよね」
「ダメージかあ……。ダメージ与えたら別れてくれるかな」
「あー、えーと、言ったの僕ですけど、3日。3日待ちましょう」
ヤバいことになりそうだ。スペードのエースが僕を責め立てる。

引くカードを選びつつくだらない話をしていると、向かいにいる人とツェッドさんの顔が動き、靴音に振り返ろうとした僕に「僕は右だと思うなあ」と声がかかった。ちょうど華奢な手から1枚引こうとしたところだったので停止する。
おそらくジョーカーを持つ人は、真正面からスティーブンさんを睨みつけた。
「すぐそうやって意地悪する!」
「でも右だろ?」
「はい!右でした!混ぜるから待って!」
「次も右だ」
「じゃあ左!左にしたから」
「とか言って右なんだよなあ」
「やーめーてー!レオ!レオが引くの!あなたじゃなくて!レオ、早く引いて!」
「レオくん、右だそうです」
「じゃあ右で……」
「あ、ほらな。右で合ってる」
「スティーブンきらい!」
平和な『きらい』発言はいっそギャグチックで、ホントにこの人はスティーブンさんが嫌いなのかな、と思うくらいイキイキしたやり取りが繰り広げられる。
最後のジョーカーが墓地に叩きつけられた。
それにしても、よくわかってるなあ。
ツェッドさんが代弁した。
「どうして右だとわかるんですか?」
彼女もからくりが知りたかったのか、じっと唇を引き結んで余計なことを言わないように気をつけながらスティーブンさんを見上げた。
長身が背を屈め、僕の肩に肘をついた。重いし筋に刺さって痛い。
「よく見てれば簡単だよ」
あ、なんだただのノロケかあ。
僕たち青年組二人の空気はしらけたが、病人はその限りではないようで、頑固に眉根を寄せた。
椅子を引っ張ってちょっとだけ距離を詰め、首を傾げたっぽい(……なにせ僕からは見えない)スティーブンさんに、カーディガンのポケットから取り出したものを突きつける。飴玉だ。
手のひらにのせてよくよく見せてから無言で後ろ手に回してごそごそと持ち替え、今度は両手を拳の形にして差し出すようにする。
どちらにあるか当てろと言うのだ。
挑戦的で勝気そうな瞳がスティーブンさんにだけ向けられる。
彼は僕から離れて彼女に近寄り、手元を見てからじーっと目を合わせた。
ただ見つめていたいだけじゃね?と思うくらいたっぷり30秒はかけてから、「こっち」とじきじきに左手を開かせる。
お見事!そこには黄色い包装紙の飴玉があった。
スティーブンさんが小さく肩をすくめる。
「これ、食べていいかい?」
「……いいけど……。……はい」
「ありがとう」
ニコッとした。手を握られたままの人が険しい顔をしたから確かだ。造形はタイプなのに無性に嫌いだ、みたいな表情だった。
ニコニコされるのが悔しかったのか僕らの醸す生ぬるい空気に耐えかねたのか、彼女はそっと手を振りほどき、席を立って部屋を出て行った。行き先はわかっているので追いかけない。
スティーブンさんは彼女が座っていた椅子に腰を下ろした。黄色い包装紙の両耳を指でいじり、ねじられたそれを開いて飴玉を取り出す。そんでフツーに口に含んだ。この人、飴とか食うんだな、と僕は思った。
さっきまでの、つまり、11時にザップさんがやってくるまでの、そして僕たちがこの部屋にきて、僕が30分前にトイレに行き、つい今しがたこの空間に入るまでのスティーブンさんの機嫌の悪さは鳴りを潜めていた。それどころか穏やかですらある。
いったい何があったのだろう。
「あの、随分……、余裕ですね」
この人がウイルスにかかったときに彼女がどれだけ動揺したかを知る僕からすれば、スティーブンさんのメンタルは強いってレベルを圧倒している。だって、多少は困惑しても今はこんなにぴんぴんしているのだから。
スティーブンさんが自分の左手を広げて見せた。何もない。
「彼女、指輪つけっぱなしなんだよ」
「へ」
「指輪、……ああ!スターフェイズさんが贈ったという……」
「うん。気づいてないはずがないのにそのままにしてるみたいだから、まあ、3日くらいだし、いいかと思って。大人げないしな」
「ははあ」
ババ抜きのとき、彼女がカードの束を持っていたのは左手だった。
この部屋に入った彼は、わずかに持ち上げられたそのきらめきに気づいたのだろう。朝からここまでずっとばたばたして、落ち着いた顔の裏で焦ってしまって見えなかったもの。
薬指に嵌められた繊細な輪っかに。
好きか嫌いかで言えば、指輪すら『きらい』に分類されるのかもしれない。でも、あの人はそれを外さない。
左手に飴玉を握りこんだのは偶然か?
ツェッドさんと意味深に視線を交わし合う。
触れてほしかったのではないかと考えるくらいなら、プライバシーの侵害には当たらないだろう。

完全に彼女が元気になったのはそれから3日後、事務所でギルベルトさんの淹れた紅茶と焼き菓子をいただいていたときだった。
弾かれたように立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回し、スティーブンさんの姿を見つけて真っ青になる。僕が名前を呼んで気を引こうとしても、地震でも起きてるんじゃないかってくらい手が揺れていてそれどころではなさそうだった。
スティーブンさんはお昼休憩の前に1本電話をかけているところで、恐怖のやり場のない彼女はすとんとまたソファにお尻を落とした。
「レオ」
「あ、はい。あの、お疲れさまでした。具合とか」
「私……やっちゃっ、……あんな……、ねえもうダメかな……」
「え!?いや、あの、大丈夫っすよ!」
「き、きらわ、嫌われてしまう」
「ちょっとちょっと」
「あ、涙出てきそう、レオ、ハグして、お願い、レオ……、私もうダメ……」
「落ち着いてくださいって!あっ!スティーブンさん!スティーブンさん!!」
凝り固まった身体をのばしている上司を大声で呼びつけるという不遜な行為を働いたが許されたい。
スティーブンさんはすぐにやってきて、泣きそうな顔を隠して「ごめんなさいごめんなさい」を繰り返す物体Xを見てすべてを理解した。
「泣くと腫れるよ」
「うう、別れたくない……心底別れたくない……ホントに、ホントは大好きなの、あ、これは逆じゃなくて……」
「ははは。わかってるよ」
「ほ、ほんと?」
「うん。君が思ってる以上にわかってる」
「謎の自信」
僕はコーヒーを噴いた。

スティーブンさんは彼女に立つように促して、不安げに向かい合った彼女の腕が届くように少し背を曲げた。よくは呑み込めないものの、首に抱きつけという意味なのは僕にもわかる。
彼は細身の身体を支えて抱き上げ、その場でくるくるっと身を翻した。
浮いたパンプスが影をつくり、その持ち主が短く悲鳴をあげる。
おとぎ話のハッピーエンド。
それにしては色気がないっていうか、声がビビってたっていうか、残念な部分は数え切れない。
スティーブンさんはすとんと彼女を床に下ろした。
「はい、仲直り」
「はい?」
「おかえり」
「え?う、あ、はい?……ただいま……?」
おめでとうございます。
心の中で呟いて、こぼしたコーヒーを拭く。
もうこのウイルス、根絶されてくれたよな。
二度あることは三度ある。
そんなことわざは星の彼方へ飛ばしてやって、今は祝杯におかわりのコーヒーを挙げようか。



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