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本編後。付き合っている。
*
『好き』と『きらい』が反転するウイルス。
異界においても『過去の遺物』と呼ばれる古典的なそのアンプルは、各国からオカルトアイテムを蒐集する変態の宝箱から発掘された。
任務に赴いたのはスティーブンさんとツェッドさんの2人。アンプルを見つけたツェッドさんがスティーブンさんにガラスを渡そうとして、手が滑ったそうだ。
どちらも反応するには一歩遅く、ぱりん、と割れて中身が飛び散る。
膝をついて辺りを物色していたスティーブンさんに飛沫が散り、見事に彼は感染した。
もっとも、この時点ではその液体がなんの効果を持っていたかは誰も知らず、わずかに残った分と『罹患したスティーブンさん』を本部に持ち帰って、ようやく判明したのだけれど。
スキャンした過去の書類データをタブレット端末に表示させ、ギルベルトさんが説明した。
「好意を反転させるウイルスだそうです」
「幸い、治療薬は開発されている。効くのには少々時間がかかるが、……スティーブンは症状も軽いようだし」
「何も感じないよ。いつも通りだ。ザップに愛を囁きたくもならないしね」
「うえ……」
「と、それなら問題ないだろう」
全員がほうっと息を吐く。嫌われるのは心にくる。この場合は好かれるのも、か。
彼はどうとも感じていなさそうで、「本当に罹ってるのか?」と自分で自分を疑った。僕も同感だ。薬が腐ってたのかと首を傾げるほど健康に見える。
不安げなものから一転、クラウスさんの執務室はいつもの賑わいを取り戻した。僕が買ってきたカップケーキをギルベルトさんのコーヒー(……一部は紅茶)で楽しむ、ちょっとしたおやつタイムに突入する。スティーブンさんも朗らかに笑って、僕の向かいのソファに腰を下ろした。
僕は、紙箱のロゴを指差した。
「これ、オススメしてもらったやつなんですよ」
異世界から来てえんやこらとものすごい過程を経たあの人は、今日も元気にカフェでバイト中である。
スティーブンさんはマグカップに口をつけ、飲まずに離した。
「……ああ、そう」
相槌にはあまりやる気が感じられなかった。
箱を一瞥して、今度こそコーヒーを飲んでいる。
あれ、と僕たちは思った。
食べないのか。
ツェッドさんがさりげなく箱をあちらに寄せても手をつけようとしない。
ここにいない人たちのぶんも含め、数個のカップケーキが所在なく残る。ギルベルトさんが冷蔵庫に入れてくれたが、スティーブンさんは結局ひとつも食べなかった。
僕とチェインさんとツェッドさんは順繰りに視線をやり合って、ありもしないテレパス能力に嫌な予感をのせた。ザップさんははぶだ。
(まさか)
(『好意』って)
(……そっちか……!!)
理解した僕は危うく飲み物を噴き出すところだった。堪えたせいで喉からグッと変な音が出る。
「大丈夫かい?」
「だ、大丈夫……です。あのー……」
大丈夫じゃないのはスティーブンさんのほうだ。
どんなふうに嫌いになったのか、知りたい。知らないとどうにもできない。
愛だの恋だのが冷ややかにさめた程度のものなのか。
嫌悪感を抱くほどか。
たとえば、顔も見たくないだとか。
考えてみると、その人にオススメされただけで買ってきたのは僕なのに食べもしないって、かなりじゃないか?
試しにあの人の名前を出すと、スティーブンさんはふらりと席を立った。
僕たちは顔を見合わせた。今度はザップさんも一緒だった。
もしかして、ものっすごい嫌いか?
その日の晩はあの人と僕で夕食を食べる予定になっていた。予約して入る隠れ家的な店だ。
まずは軽くつまんでお腹をあたためる。
今日はこんなことがあって、と話し上手に日常を説明する彼女は楽しそうで、僕は口を開きづらかった。
教えない選択肢はない。
実はこの日、急遽チェインさんを誘ったのだが、うまいと評判の店にも関わらず躊躇なく迷いなく容赦なくバッサリと断られてしまっていて、まさかチェインさんが断った理由はこれだったりしないよな、とわずかに他人を疑った僕を誰が責められるだろうか。それほどに気まずい話だ。
あなたの恋人はあなたへの好意が反転してしまって、いま現在ものすっごくあなたを疎んでいます。
いや。
いやいやいや。
無理だ。言いたくなさすぎる。
しかし僕は言った。
言われた人は、プチトマトを喉に詰まらせた。
「うわ!大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫。大丈夫……。え、ねえ、何それ?私は今、スティーブンに嫌われてるってこと?喜べばいいの?」
「喜ぶべきか、悲しむべきか……」
微妙な問題だ。
数日すれば元通りとはいえ、現在進行形で嫌われているのは事実。
僕に言えることと彼女にできることは、できるだけあの人と接触しないよう心がける、とこの一点に尽きる。
彼女は店の時計を睨んで悩み始めた。
「22時を過ぎるようなら連絡をするように、って言われてるんだけど、したほうがいいのかな……しないほうがいいのかな……」
「……う、うーん……」
僕も腕を組んで唸ってしまう。どちらにしても嫌がられそうな気がする。連絡をすれば邪魔をされたように感じるかもしれないし、しなければあちらのスケジュールの組み立てに影響するかもしれない。
「とりあえずメールだけ入れておこうかな。短文だったら読むのも簡単だよね?」
「そうですね」
メールは1分もしないうちに送信された。慣れているなと思った。何度も繰り返した行為なのだろう。そしてそのたびに返事がきて、時には迎えがあったりもした。僕といる日に車が横付けされて、僕まで家に送ってもらってしまった恐ろしい日もある。
返信はすぐだった。彼女のスマホがブルッと震え、少し湧いた覗き込みたい気持ちを抑えてカルパッチョを取る。
スマホで二度やりとりをしてから、彼女は眉根を寄せた。どうしたんですかと訊ねる。画面のメール履歴を見せられた。
帰りが遅くなります、に対しては『何時頃?』
わからない、に対しては『誰といる?』
そして僕の名前を出すと、少し間を置いてから、『わかった。次からはもう連絡して来なくていいよ』ときた。
彼女はスマホを僕に預けたまま、シマウマフグのマフマフも食べずに言った。
「態度悪くない?」
「ウイルスがですね」
「わかってる。キライってことは、ちょっとはスキってことなんだよね。ありがたい。すっごく。……でも態度悪いよね!?」
ああこの人ってちょっと短気だったっけな、と思った。
「だってこの決まりを言い出したのはスティーブンだよ!?なに、『次からはもう連絡して来なくていいよ』って!?許可してくださってありがとうございますって言えばいいの?なに勝手にイラついてんのかわかんない!」
この言葉で気がついた。
確かに。
言われて改めて読み返すと、最後のメールには感情の波立ちがある。淡々とした短い文章だけど、何かがあってこう書かれたし、何かがあって、小さな空白のあとに送信された。
それはなんだろう。
ウイルスに対する抗体と治療が進んでいる証拠か。
スティーブンさんは何にイラついたんだろう。
「なんでだと思います?」
「しらない。仕事を邪魔されたからじゃない?」
「そう、ですかねー」
なんとなく、これ、僕の名前のせいな気がしなくも、なくも、ない。
スキとキライの間でモヤモヤしているのに、その対象は知らない(……知ってるけど)オトコと22時を過ぎるまで2人きりで食事をするわけだ。
八つ当たりしたくはならないはずだと断言するのは、罹患していない僕たちの贅沢だろう。
スティーブンさんにだってそんなときがある。恐ろしいウイルスだ。
こっちはこっちでちょっぴり苛立ったスマホの持ち主が、僕から機器を受け取って素早く指を動かした。
「なんて打ったんですか?」
「『邪魔してごめんね』って」
あれっ?
マフマフを食べ、からい!と今度は平穏に眉根を寄せた人を横目にオレンジジュースを飲む。
意外と物分かりがいい文章だぞ。
まあ、当たり前のように嵐の前のなんとやらだった。
なぜかまたメールがあったのだ。
それでこの人がぷつんときた。
「……泣いていいよね?」
「……いいと思いますよ」
「……なんで私はここまで言われなきゃいけないの?」
「ウイルスがですね」
「わかってる」
呆然とした表情は、徐々に怒りに燃えていった。
弾かれたように猛然たる勢いで画面に感情任せの返信を打ち込みまくった女性にちょっと引いていると、彼女はぴたりと動きを止めてすべてを破棄した。
代わりにスマホを耳に当てる。
電話をかけていた。
この、スティーブンさんに対しては遠慮がちで様子を窺うようにおそるおそる恋をする人にここまでさせるメールの内容というのがまた、その、なんていうか。
「あなた今メールに何書いた!?『どうせだから書いておくけど今度この関係についても話し合おうか』って読めたけど!?」
僕は頬杖をついた。
(あー……)
わかりますよ。嫌いな人と恋愛的に付き合ってるのって苦痛ですしあり得ないことですよね。別れたいっすよね。普通はね。なんかこういう関係、初っ端のこの人たちに近そうだなあ。最初の最初はとんでもない事情によって好感度なんて地の底でしょ?僕は知りませんけど。
つらつらと考える横で、『激しく嫌われる』人は『激しく嫌う』人と舌戦をやり合っているようだった。一方的に僕の隣の人がヒートアップして、「ねえスティーブンあなたうんざりしてるでしょ!?」と絡んでいた。怒り心頭か。わからなくもない。
そしてあちらから、最後の駄目押しが繰り出された。
苛ついたスティーブンさんによる、マフマフよりもピリ辛で挑発的で、自分に恋をする異世界人の心に刺さる言葉。
なにせ人の電話なもんで、僕はそれが何かわからなかったが、稚拙な憤怒が一瞬、死んだことだけは感じ取った。
表情が凍りついたのだ。
僕はこのまま電話が終わって、この人が泣くのだと思った。
そのときどんな言葉をかければいいのか、ひどく焦って手のひらにいやな汗をかく。
たぶんスティーブンさんも、どこかで焦ったはずだ。心にもない発言をして、ウイルスに侵されきらない部分でとても後悔し、自分すらも傷ついたかもしれない。
けれど、彼女は。
「……もういい」
聞く人が不安になるほど、低くて冷たい声を出した。
戸惑ったのは僕も、電話の向こうのスティーブンさんも同じだった。
あちらが何かを言う前に、彼女は声を張った。
「ウイルスのせい?わかってる!わかってるけど許せない!精神的に未熟ですから!」
可哀想なテーブルが殴られた。
「完治して『僕の可愛い恋人さんごめんなさい愛してるから許してください』って言うまでぜっ、たい、に!近寄って……あげない!近寄ってあげないし口もきかないし連絡もとらないしもう知らない!スティーブンのバカ!!」
返答も待たずに切った。
(え、ええええー……!?)
唖然として言葉が出ない。
スマートフォンはすぐに着信を報せたが、彼女はわざわざ、手で通信を切断した。自然に切れるのを待たずに、だ。僕にやり方を聞いて、着信拒否まで設定した。
僕は教えながら、このあとに待つ波乱の予感に打ち震えていたのだった……。
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『好き』と『きらい』が反転するウイルス。
異界においても『過去の遺物』と呼ばれる古典的なそのアンプルは、各国からオカルトアイテムを蒐集する変態の宝箱から発掘された。
任務に赴いたのはスティーブンさんとツェッドさんの2人。アンプルを見つけたツェッドさんがスティーブンさんにガラスを渡そうとして、手が滑ったそうだ。
どちらも反応するには一歩遅く、ぱりん、と割れて中身が飛び散る。
膝をついて辺りを物色していたスティーブンさんに飛沫が散り、見事に彼は感染した。
もっとも、この時点ではその液体がなんの効果を持っていたかは誰も知らず、わずかに残った分と『罹患したスティーブンさん』を本部に持ち帰って、ようやく判明したのだけれど。
スキャンした過去の書類データをタブレット端末に表示させ、ギルベルトさんが説明した。
「好意を反転させるウイルスだそうです」
「幸い、治療薬は開発されている。効くのには少々時間がかかるが、……スティーブンは症状も軽いようだし」
「何も感じないよ。いつも通りだ。ザップに愛を囁きたくもならないしね」
「うえ……」
「と、それなら問題ないだろう」
全員がほうっと息を吐く。嫌われるのは心にくる。この場合は好かれるのも、か。
彼はどうとも感じていなさそうで、「本当に罹ってるのか?」と自分で自分を疑った。僕も同感だ。薬が腐ってたのかと首を傾げるほど健康に見える。
不安げなものから一転、クラウスさんの執務室はいつもの賑わいを取り戻した。僕が買ってきたカップケーキをギルベルトさんのコーヒー(……一部は紅茶)で楽しむ、ちょっとしたおやつタイムに突入する。スティーブンさんも朗らかに笑って、僕の向かいのソファに腰を下ろした。
僕は、紙箱のロゴを指差した。
「これ、オススメしてもらったやつなんですよ」
異世界から来てえんやこらとものすごい過程を経たあの人は、今日も元気にカフェでバイト中である。
スティーブンさんはマグカップに口をつけ、飲まずに離した。
「……ああ、そう」
相槌にはあまりやる気が感じられなかった。
箱を一瞥して、今度こそコーヒーを飲んでいる。
あれ、と僕たちは思った。
食べないのか。
ツェッドさんがさりげなく箱をあちらに寄せても手をつけようとしない。
ここにいない人たちのぶんも含め、数個のカップケーキが所在なく残る。ギルベルトさんが冷蔵庫に入れてくれたが、スティーブンさんは結局ひとつも食べなかった。
僕とチェインさんとツェッドさんは順繰りに視線をやり合って、ありもしないテレパス能力に嫌な予感をのせた。ザップさんははぶだ。
(まさか)
(『好意』って)
(……そっちか……!!)
理解した僕は危うく飲み物を噴き出すところだった。堪えたせいで喉からグッと変な音が出る。
「大丈夫かい?」
「だ、大丈夫……です。あのー……」
大丈夫じゃないのはスティーブンさんのほうだ。
どんなふうに嫌いになったのか、知りたい。知らないとどうにもできない。
愛だの恋だのが冷ややかにさめた程度のものなのか。
嫌悪感を抱くほどか。
たとえば、顔も見たくないだとか。
考えてみると、その人にオススメされただけで買ってきたのは僕なのに食べもしないって、かなりじゃないか?
試しにあの人の名前を出すと、スティーブンさんはふらりと席を立った。
僕たちは顔を見合わせた。今度はザップさんも一緒だった。
もしかして、ものっすごい嫌いか?
その日の晩はあの人と僕で夕食を食べる予定になっていた。予約して入る隠れ家的な店だ。
まずは軽くつまんでお腹をあたためる。
今日はこんなことがあって、と話し上手に日常を説明する彼女は楽しそうで、僕は口を開きづらかった。
教えない選択肢はない。
実はこの日、急遽チェインさんを誘ったのだが、うまいと評判の店にも関わらず躊躇なく迷いなく容赦なくバッサリと断られてしまっていて、まさかチェインさんが断った理由はこれだったりしないよな、とわずかに他人を疑った僕を誰が責められるだろうか。それほどに気まずい話だ。
あなたの恋人はあなたへの好意が反転してしまって、いま現在ものすっごくあなたを疎んでいます。
いや。
いやいやいや。
無理だ。言いたくなさすぎる。
しかし僕は言った。
言われた人は、プチトマトを喉に詰まらせた。
「うわ!大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫。大丈夫……。え、ねえ、何それ?私は今、スティーブンに嫌われてるってこと?喜べばいいの?」
「喜ぶべきか、悲しむべきか……」
微妙な問題だ。
数日すれば元通りとはいえ、現在進行形で嫌われているのは事実。
僕に言えることと彼女にできることは、できるだけあの人と接触しないよう心がける、とこの一点に尽きる。
彼女は店の時計を睨んで悩み始めた。
「22時を過ぎるようなら連絡をするように、って言われてるんだけど、したほうがいいのかな……しないほうがいいのかな……」
「……う、うーん……」
僕も腕を組んで唸ってしまう。どちらにしても嫌がられそうな気がする。連絡をすれば邪魔をされたように感じるかもしれないし、しなければあちらのスケジュールの組み立てに影響するかもしれない。
「とりあえずメールだけ入れておこうかな。短文だったら読むのも簡単だよね?」
「そうですね」
メールは1分もしないうちに送信された。慣れているなと思った。何度も繰り返した行為なのだろう。そしてそのたびに返事がきて、時には迎えがあったりもした。僕といる日に車が横付けされて、僕まで家に送ってもらってしまった恐ろしい日もある。
返信はすぐだった。彼女のスマホがブルッと震え、少し湧いた覗き込みたい気持ちを抑えてカルパッチョを取る。
スマホで二度やりとりをしてから、彼女は眉根を寄せた。どうしたんですかと訊ねる。画面のメール履歴を見せられた。
帰りが遅くなります、に対しては『何時頃?』
わからない、に対しては『誰といる?』
そして僕の名前を出すと、少し間を置いてから、『わかった。次からはもう連絡して来なくていいよ』ときた。
彼女はスマホを僕に預けたまま、シマウマフグのマフマフも食べずに言った。
「態度悪くない?」
「ウイルスがですね」
「わかってる。キライってことは、ちょっとはスキってことなんだよね。ありがたい。すっごく。……でも態度悪いよね!?」
ああこの人ってちょっと短気だったっけな、と思った。
「だってこの決まりを言い出したのはスティーブンだよ!?なに、『次からはもう連絡して来なくていいよ』って!?許可してくださってありがとうございますって言えばいいの?なに勝手にイラついてんのかわかんない!」
この言葉で気がついた。
確かに。
言われて改めて読み返すと、最後のメールには感情の波立ちがある。淡々とした短い文章だけど、何かがあってこう書かれたし、何かがあって、小さな空白のあとに送信された。
それはなんだろう。
ウイルスに対する抗体と治療が進んでいる証拠か。
スティーブンさんは何にイラついたんだろう。
「なんでだと思います?」
「しらない。仕事を邪魔されたからじゃない?」
「そう、ですかねー」
なんとなく、これ、僕の名前のせいな気がしなくも、なくも、ない。
スキとキライの間でモヤモヤしているのに、その対象は知らない(……知ってるけど)オトコと22時を過ぎるまで2人きりで食事をするわけだ。
八つ当たりしたくはならないはずだと断言するのは、罹患していない僕たちの贅沢だろう。
スティーブンさんにだってそんなときがある。恐ろしいウイルスだ。
こっちはこっちでちょっぴり苛立ったスマホの持ち主が、僕から機器を受け取って素早く指を動かした。
「なんて打ったんですか?」
「『邪魔してごめんね』って」
あれっ?
マフマフを食べ、からい!と今度は平穏に眉根を寄せた人を横目にオレンジジュースを飲む。
意外と物分かりがいい文章だぞ。
まあ、当たり前のように嵐の前のなんとやらだった。
なぜかまたメールがあったのだ。
それでこの人がぷつんときた。
「……泣いていいよね?」
「……いいと思いますよ」
「……なんで私はここまで言われなきゃいけないの?」
「ウイルスがですね」
「わかってる」
呆然とした表情は、徐々に怒りに燃えていった。
弾かれたように猛然たる勢いで画面に感情任せの返信を打ち込みまくった女性にちょっと引いていると、彼女はぴたりと動きを止めてすべてを破棄した。
代わりにスマホを耳に当てる。
電話をかけていた。
この、スティーブンさんに対しては遠慮がちで様子を窺うようにおそるおそる恋をする人にここまでさせるメールの内容というのがまた、その、なんていうか。
「あなた今メールに何書いた!?『どうせだから書いておくけど今度この関係についても話し合おうか』って読めたけど!?」
僕は頬杖をついた。
(あー……)
わかりますよ。嫌いな人と恋愛的に付き合ってるのって苦痛ですしあり得ないことですよね。別れたいっすよね。普通はね。なんかこういう関係、初っ端のこの人たちに近そうだなあ。最初の最初はとんでもない事情によって好感度なんて地の底でしょ?僕は知りませんけど。
つらつらと考える横で、『激しく嫌われる』人は『激しく嫌う』人と舌戦をやり合っているようだった。一方的に僕の隣の人がヒートアップして、「ねえスティーブンあなたうんざりしてるでしょ!?」と絡んでいた。怒り心頭か。わからなくもない。
そしてあちらから、最後の駄目押しが繰り出された。
苛ついたスティーブンさんによる、マフマフよりもピリ辛で挑発的で、自分に恋をする異世界人の心に刺さる言葉。
なにせ人の電話なもんで、僕はそれが何かわからなかったが、稚拙な憤怒が一瞬、死んだことだけは感じ取った。
表情が凍りついたのだ。
僕はこのまま電話が終わって、この人が泣くのだと思った。
そのときどんな言葉をかければいいのか、ひどく焦って手のひらにいやな汗をかく。
たぶんスティーブンさんも、どこかで焦ったはずだ。心にもない発言をして、ウイルスに侵されきらない部分でとても後悔し、自分すらも傷ついたかもしれない。
けれど、彼女は。
「……もういい」
聞く人が不安になるほど、低くて冷たい声を出した。
戸惑ったのは僕も、電話の向こうのスティーブンさんも同じだった。
あちらが何かを言う前に、彼女は声を張った。
「ウイルスのせい?わかってる!わかってるけど許せない!精神的に未熟ですから!」
可哀想なテーブルが殴られた。
「完治して『僕の可愛い恋人さんごめんなさい愛してるから許してください』って言うまでぜっ、たい、に!近寄って……あげない!近寄ってあげないし口もきかないし連絡もとらないしもう知らない!スティーブンのバカ!!」
返答も待たずに切った。
(え、ええええー……!?)
唖然として言葉が出ない。
スマートフォンはすぐに着信を報せたが、彼女はわざわざ、手で通信を切断した。自然に切れるのを待たずに、だ。僕にやり方を聞いて、着信拒否まで設定した。
僕は教えながら、このあとに待つ波乱の予感に打ち震えていたのだった……。
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