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ベイクドライスケーキに続く



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自分から甘ったるい香りがすると気がついたのは、セキュリティを抜けたあとだった。
自宅は目前。もはや消臭も上書きもできそうになく、整った眉がしかめられる。
やられたというべきか、やってしまったというべきか。すり寄るように抱きつかれ、腕を絡ませられたせいだ。
いや、他人に責任をなすりつけるのはよくない。これはスティーブンのミスである。
有名なブランドの香水だ。知る者が嗅げば、女物以外の何物でもないとすぐにわかる。
彼女はこれを知っているだろうか。
思い直す。
詳しいか詳しくないかは問題ではない。つまりスティーブンが気にかけているのは、自宅で自分の帰宅を待つ恋人が、彼のまとう香りの性差に気づくだろうかということだ。
気づかないはずがない。
いかに鈍くたってそばに近づけばわかる。移香は甘く、スティーブンがつけるものでは決してない。
彼女はスティーブンが扉を開けると必ず玄関までやってきて、待ち遠しかったと言うようにニコリとする。そのときに気づかれるに違いなかった。
普段ならば微笑ましく、ふっと穏やかに息をつける瞬間なのだが。
スティーブンはドアノブに手をかけたまま、行動にわずかな迷いを見せた。
忌々しいバニラの香りを漂わせて帰宅した恋人を、彼女はどう思うだろう。
彼にこういった付き合いがあると納得した上であっても、いい気分がするわけがない。
表情豊かなあの顔が。
一心にスティーブンだけを信頼するあの瞳が。
どんなふうに歪むのか。
むしろその場面を想像するスティーブンのほうこそ、誰よりも苦くジャケットを睨んでいる。嫌な一仕事を終えて気を抜きすぎた。おかげで、もっと抵抗のある事態に立ち向かわなければならない。
ぐっと手に力を込め、スティーブンは扉を開けた。
「ただいま」
何事もないそぶりで声をかけると、いつもどおり変わらない日常を体現するかのように、家の奥から女がひょいと現れた。
「おかえりなさい。早かったね」
「直帰できたんだ」
「じゃあゆっくり休めるね」
なぜかスティーブンよりも嬉しそうに言う。暗に『構え』と要求されているのかと思った時期もあったが、どうやら心底からスティーブンの健康を思いやっているらしいとわかって微妙に言葉にしづらい気持ちがする。スティーブンの健康はイコールで彼女の健康だった。好意を抜きにすると、その意識がまだどこかに残っているのかもしれない。
もっとも、これは深読みのしすぎだった。彼女はただ会話の流れとして何も考えずに言っているだけである。もちろん本心ではあるけれど、悲愴な理由などどこにもない。
彼女はスティーブンを先に歩かせるつもりで立ち止まっていて、スティーブンは注意深くその横をすり抜けた。
体温で溶けたバニラが、ふわりと空気に混じる。
彼女はそれを追いかけた。
「スティーブン、なんかいい匂いする。香水?スティーブンっぽくないね。……バニラ?」
「……まあ」
「あ。もしかして……、そういうこと?」
「……まあね」
反応を見逃すまいとしたスティーブンは、予想外のものを見る。
「へー」
香りの出処と理由を知ってもけろりとした態度だ。「私もこれ好きかも」と相手の趣味に共感すらした。それから、スティーブンに近づいて顔を寄せ、さらに濃密な残り香を吸い込んだ。
「どこの香水?」
「……あとで教えるよ」
「あ、そうだ。早くゆっくりしたいよね」
そう言って離れていった姿を視線で追った。
かなり、イメージと違うリアクションだった。もっとショックを受けるか、むっとされるかと思っていたのに。
「……なにも言わないのか?」
感想は香水の良し悪しについてだけである。
納得ずくだからか?
それにしても冷静だ。あんなに感情豊かな彼女の胸の内になんの波も立たないなんてありえないと思っていたのに。
(……そのほうが)
都合がいい、と考えるべきだ。実際に、騒がれないのは静かでいい。彼女がそういうタイプではないと知っているけれど、ギャンギャンと非難がましく責め立てられるよりはずっと楽ではないか。恋人が他の女の香りをまとって帰宅しても、受け流せるような人のほうが。
楽なはずなのに。
スティーブンはそのすべての思考を取り払って、最後に残ったひとつの感情を拾い上げた。
言葉はなくてもいい。
むっと見上げられるだけでもいい。
口に出して、「気にくわない」と言われてもよかった。そのほうがずっとよかった。そうしないだろうかと期待していた。
こんなふうに、あまりにも物分かりがよすぎると、なんだか。
(……俺だけが執着しているような……)
そんな気が、してくるのだった。



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