12


ちゃあん。スイーツバイキング行かない?」
「スイーツバイキング?」
質問に質問で応えるのはよくないが、語尾は勝手に通常の話し口調から外れた音を立てた。
「そ」
深く大きく首を縦に振った人物は店長だ。私がバイトするカフェを個人で経営する店長は様々なところにコネを持つ。時にはその謎のコネクションのおかげで色々な職場に派遣され(……メイド喫茶とか……)、私は精神を犠牲に特別手当を受け取る。
扇のように紙の端をずらして文字を見せつけてきた店長は、こちらの無作法には構わず「貰ったんよ」と言った。
「こないだダチからね。やけど別にこっちは行かんし。ということで敵情視察任せた」
手に押しつけられ、うっかり受け取ってしまった。

会場は有名ホテルの1階にあるレストランである。パーテーションを大幅に開放して最大収容人数を増やすことで数週間にわたって催される夢の食べ放題に備えたそうだが、チケット制かつ予約制のためそこまでの空間が必要だとは思えない。
チケットは3枚ある。私を含めてあとふたり誘えるから、と知り合いの顔を思い浮かべてまずレオに電話をかける。最近は秘密組織の人たちに食事を奢ってもらうことが多くて体重が増加気味だと言っていたが、追い打ちをかけよう。レオは一も二もなく誘いに乗ってくれた。
次の番号をタップする。
「もしもし、です。チェインさん、明後日って空いてますか?」
「ごめん、空いてない」
「急ですみません……」
残念だが他を当たろう。
レオの知り合いでもある私の知り合い。
選択肢はギュウギュウに少ない。
ザップさんは、大変な食べっぷりを見せつけてくれそうで怖いからナシだ。食べ放題だから問題はなくても怖い。
ツェッドを誘ってみよう。
メールを送って返信を待つ間、ペラペラなチケットをうちわ代わりにパタパタと動かす。そよ風は髪も揺らさない。
今のところは空いていますが僕でいいんですか、と確認された。もちろんだ。そのまま空き続けますようにと平和を祈った。
ホテルで待ち合わせると決め、チケットは当日まで私が預かることにする。
事前調査でこのイベントのレポブログを読んだりしたが軒並み高評価だったし、質のいいスイーツを食べまくれるのはちょっと嬉しい。お腹をすかせて挑むために、今日と明日は食事を控えめにするとしよう。

小さなイチゴショートケーキ、チーズタルト、ブルーベリーのムースケーキ、プリンアラモードに生のフルーツ。チョコレートファウンテンだってある。
異界の甘いものも人界の甘いものも関係なくただ種類別見栄え優先で並ぶスイーツを食べ逃せるわけもなく、まず圧倒され「すごい!」と「すげえ!」と「うわ……!」を唱和した私たち3人は、席に案内され、紅茶に限って飲み放題オーダー制のドリンクメニューを渡されて目を回し、混乱したせいで「とりあえずアッサム」とかいうポンコツな通ぶった口調で注文をしておとなしくカップに口をつけた。心の準備が必要だったのだ。とりあえずってなんだろう。自分でも謎だ。
温かくておいしい紅茶で渇きを潤す。
行きましょうか、と火ぶたを切って落としたのはツェッドだった。
同時に腰を上げ、遠慮がちな盛り方でプレートにケーキをのせる。当たり前だけどお残しは禁止だから、警戒もしていた。もし口に合わなかったらどうしよう、という不安だ。
「お、おいしい……!」
杞憂だった。
ふわふわのシフォンケーキ。どっしりしたパウンドケーキ。アイスクリームを添えたアップルパイ。このアイスクリームは自分で好きなだけすくって好きなだけ食べられるシステムだが、よくカラオケ店などにあるチープでお手軽なそれとはまったく違う濃厚さだ。バニラの香りはもちろん、他の味、果物フレーバーの場合にはその果物のホンモノが練りこまれていたりする。
冷たくされたクッキーに混じるチョコチップの歯触り。箸休めならぬスイーツ休めの生ハムメロンがまたおいしい。
「凄いっすね、ここ」
「本当にいただいてしまって良かったんですか?悪い気がします」
「もらいものだから」
「『敵情視察』とはまた物騒ですよね。あのお店、スイーツたくさんやってましたっけ?これから展開するんですか?」
「さあ……。でもチェックシート渡されたから、なんかはあるんだと思う」
こっそり取り出してレオとツェッドに見せる。小さな手帳ほどの大きさの紙には、5段階評価の項目がびっしり書かれていていっそ恐怖すら感じる。ふたりの意見も聞きつつ、新しい紅茶がやってくるまでに記入した。レオは原稿を書くためか、いつでもペンを持っている。
ペンを返してアイスティーを飲む。スイーツバイキングの熱気を落ち着けるすっきりした味である。上から順に飲んでみようということで、現在ダージリンから始まってアッサムを抜き、上から4番目のディンブラの番だ。産地や味についてはツェッドがよく知っていた。
ところで、と首を廻らす。
スイーツバイキングをひらく傍らで、このホテルは通常通りのカフェラウンジを営業してもいる。私たちの周りもホテルの格と雰囲気にあわせてキャピキャピした騒がしさとは無縁だが、あちらのラウンジはさらに大人しく、人影も少ない。テーブルとテーブルの間隔は広くてゆとりがたっぷりだ。
私たちの席はそこに比較的、近かった。
「落ち着いてるね」
「『贅沢する旅行』で利用したいホテルトップテンに入るだけありますよね」
声を潜めたレオがぽそぽそと囁く。
ツェッドも顔を近づけた。
「宿泊客以外も使えるんですか?」
「や、あそこはダメだと思います。も一個あるんですけど、そっちが一般向けだったような」
「へえー。特別枠なんだ」
「だから人が少ないのかもしれませんね」
私たちは揃ってそちらへ視線を向けた。
ゆったりした椅子に腰掛ける人たちは片手で数えられる数組だけだ。
その中でも、眺めバツグンな窓際にケーキが運ばれる。カップルなのか、女性のほうが小ぶりなそれに喜んで、対面する男性に笑顔を向けた。
スーツを着こなし、仕事を小指で片付けてしまえたりするんだろーなと思わせるスーパーやり手な雰囲気を背中から漂わせる男性も何か言ったようだった。女性がころころと笑い声を立てて見える。
違和感だか既視感だか、おかしな感じをおぼえ、あれ、と言いかけて遮られた。
「……さん、ケーキ取りに行きません?」
「……あ、うん。行こ行こ」
「レオくん?」
「ツェッドさんも行きましょ!ね!腹へりましたよね!」
「僕たちはかなり食べているほうだと思いますが……」
「僕はへりました!」
「はあ、そうですか」
カモン!と煽ったレオについて行く。私はお腹はいっぱいになりかけだ。流し込めそうなアイスクリームとゼリーを選んだ。
レオはすごく時間をかけて、なるべくたくさんのケーキをお皿に取った。横で見て、よく食べるなあとツェッドと一緒に感心する。この食べっぷりは気持ちいい。やっぱりレオを誘って正解だった。
ただ、なんか顔が青い。
「どうしたの?」
「何がですか?」
席に戻ったレオは知らん顔でケーキにフォークを刺した。そして皿にがちりとぶつけて手を止めた。
一瞬だけこわばった表情。
それが何に対するものなのか、顔の向く先、カフェラウンジを見る。
心臓がどきりと不吉に脈打った。
窓際のテーブルだ。窓際のテーブルである。眺めがいい。どこを選ぶかといえばそこを選ぶだろうしそこがいいと言うだろう。ホテルの庭園がのぞめるのだから、せっかくだし綺麗なものを見ながら休憩したい。私もだ。花には詳しくないけど、きっとお姫さまが自分の部屋から見下ろして毎朝にこにこできるような、トコトン計算され尽くしたくせにどこまでも自然な感じがする美しさがあるのだろう。
そう、あの男の物腰のように。
女性はこっちの空間でケーキバイキングがひらかれていることに気づき、話題にでも出したのではなかろうか。指さした先を、男性は振り向いて見る。そしてお互いにお互いを見つける。
実に単純。
そしてお互いにたいそう不運。
レオとツェッドが同時に声を上げた。
さん、アイスクリーム溶けますよ」
さん、そろそろ紅茶を頼みませんか」
めちゃくちゃ気をつかわれた。年下に。ツェッドはちょっとわからないけど、レオは小さいし、確実に年下だと思うので迷いなくショックを受けた。スティーブンがホテルのカフェで女性とお茶をしていることについてよりもこちらのほうが大きい。
それにしても、まさか出くわすとは。デキる男に視線が吸い寄せられた。
帰りが遅くなるとの連絡はなかったから、ここに宿泊しているのは女性のほうだろう。これから連絡がくる可能性については目を瞑る。ありそうだなとちらりと掠めたし、一度思うとそれが正しい気がしてくるけど。下手なひらめきは頭から離れない。
あちらは何事もなかったかのように(……何事もなかったんだけど!)会場を見渡し、何かを言いながら女性のほうへ顔を戻した。
こちらも紅茶の品書きに隠れてため息をつく。
「じゃあ次、アールグレイね」
目配せひとつでウエイトレスが注文をとってくれる。この手際の良さは参考にしたい。
レオのお皿からあふれんばかりのケーキの山は私がスティーブンに気づかないよう一生懸命時間稼ぎをした結果生まれたもののようで、申し訳なかったのでいくつか私も消化を手伝うことにした。プリンタルトとスコーン、カンノーリというものを引き受ける。どれも満腹を忘れるおいしさだ。紅茶の香り高さも定期的に味覚をリセットさせる。スイーツループの地獄にハマった。体重計にはしばらく乗らない。
「冷静、ですね」
「何が?」
「スティーブンさんが女性とふたりきりで親密にお茶を楽しんでいても」
レオの言い方こそ人から冷静さを奪う的確すぎる残酷なものではないだろうか。
「冷静かな?」
「けろっとしてます」
「レオくんのほうが慌てふためいていましたよね」
「そりゃあ、だって、慌てますよ!あんな現場、本人に見せられるわけないじゃないですか」
「どんな現場?」
「えっ」
まるで、『単に友人の恋人が見知らぬ女性とお茶をしていた』だけではない何かを目撃したみたいだ。
レオは注目を浴びて居心地が悪そうだった。
「……女の人がケーキを食べて……」
「うん」
「……クリームが……」
「はい」
「……やめます」
「気になるところで切らないでよ!」
「でもペーパーなんで!ペーパーなんで!!」
「なにが!?」
なぜかレオが血を吐きそうで怖い。大丈夫だろうか。私のせいかな。
まさか目撃するとは思わなくても、そういうお付き合いがあったり、そうでなくても仲の良い人があちらこちらにいるとはわかっている。厚いか薄いかはともかく人脈は広い、と思う。
これはその内のひとつだ。
たとえこれからあのふたりが一旦別れたあと夜に合流してオシャレなご飯を食べた勢いで明かりを消さないか消すかは知らない夜に突入したとしても。
私は全然。
全然。
全然。
(……すごいフクザツ……!!)
まったくオトナになれていない。
これは悔しすぎる。
目の前で恋人(……と言わせて!)が知らない女と親密に談笑して一緒にお茶をしているだけで軽くモヤモヤするのに、相手が遠目から見てもおしとやかで明るくて笑顔の綺麗な美女で、もしかしたら今晩、と想像すると、絡みまくった毛糸のような精神が感情の遠心分離機にかけられてグッタリしてしまう。
しかし、1周回って無になる、と言うのだったか。私は平然とケーキを食べられた。
「女の人とお茶するのは悪いことじゃないよ」
「そーですけど……」
いったい何を見たのか、レオはスティーブンの背中にじとりとした視線を送った。
「スターフェイズさんもさらっとしていましたから、その……僕には機微がわかりませんが、やましいところはないのではないでしょうか」
「そうですよ。スティーブンさんの一番は……」
私たちは声を重ねた。
「仕事じゃない?」
「仕事では?」
「仕事でした。すいません」

制限時間の限界までホテルに居座り、帰るころにはもうお水の一滴も入らない!というくらいスイーツを食べまくった私たちだが、なぜか帰り道に手が伸び、小さなカップヌードルを買ってお湯をいれてもらい、近くの公園のベンチで3分待ってからすすり始めた。満腹中枢が狂ったのだろう。
ほぐし待ちのカップヌードルの蓋をプラスチックフォークと指で押さえながら公園を目指す人など私たち以外には居らず、かなり目立ったが構わない。ジャンクな味がほしい。
レオが注意を払っていた『彼ら』は、私たちよりも先にスペースを出た。ふと見るといなくて驚いた。当たり前なのだが、無いものや他人として扱われると心がしぼむ。代わりにお腹を膨らませたのでいいけれど。
「うまいっすね」
「あったまるし」
「なぜか落ち着きます」
ヘルサレムズ・ロットは午後を過ぎ、夜に差しかかる。
電話はこない。メールもこない。
自分の中の物わかりの悪い部分がやきもきする。ここで私から電話をかけたらあの男はどうするだろう。
困るか、それとも『面倒だな』と感じるか。賭けてもいいが後者だ。そして『面倒だな』と感じられた瞬間にさまざまな積み重ねが瓦解しそうである。カップヌードルがちょっと塩辛くなった。
「なにが一番おいしかった?私はミルフィーユなんだけど」
「僕はパイです。ミートパイもあったじゃないですか。人気ですぐなくなっちゃったやつ。あれがおいしかったんでアップルパイとレモンパイにも手を出したら大正解でした」
「ツェッドは?」
「マカロン、ですかね。とにかく種類が多くて圧倒されましたし、食べてみてもおいしくて……、さんも召し上がりました?」
「うん、食べた。ピスタチオのがおいしくて!食べなかったけどオレンジのも好き。個別で買うと高いんだよねー。それが残念」
「割引きの詰め合わせでもかなりの値段がしますから、手を出しづらいですよね。自宅でムシャムシャできるレベルじゃない」
「そんなことしてみたい!マカロンの贅沢食べ!」
色とりどりのマカロンが箱の中に整然と並ぶさまを見たりしたら、きっと新品のクレヨンを前にした子供の気分になるに違いない。リッチだ。生活費を他人に任せっぱなしで自分のためだけにバイトをし小金を稼ぐ私にとって(……スティーブンさんすみません)、マカロンは高級で雲の上のスペシャルスイーツなのである。だって基本が個別売りでセットになってもまず3個から、って、私にとっては敷居が高いにも程がある。そんなもの、女子力の頂上決戦のような女子会にも持って行かない。
「やっぱ5個詰めとかですか?」
「レオ、『贅沢』なんだからもっといけるって!7個詰めは?」
「5個も7個もそう変わらないのでは。10個はどうですか?」
「ツェッドさん、それ、自分ひとりでムシャムシャできます?精神状態として追い詰められません?『俺は何を前にしてるんだ……』みたいな気持ちになりますよ絶対」
「言われてみれば……。10個あってもどうしようもないですしね。結局配る方向に気持ちが向いてしまうかも」
「私たちに10個は多いかあ」
言いながら、マカロンはみんなで食べてきゃあきゃあ言うからこそおいしい食べものなのではないかという気がしてきた。自分へのご褒美タイムもリラックスできそうだが、3個以上あると誰かと分け合いたくなる。
「結局僕らは小市民ってことですかね」
「10個買えませんしね」
「いくらだっけ?」
ツェッドが単価を言うと、レオが素早く計算して値段を教えてくれた。うむ、高級だ。
カップヌードルのスープを舐める。当たり前だが、ぬるくなっても変わらずしょっぱい。お湯で割ったら飲みやすくなりそうだ。

連絡はないままで、私はレオと別れ、ツェッドと並んで歩いていた。秘密組織のある方向と私の帰り道が一部一致したらしい。そういう怖い情報を流さないでもらいたかった。
ツェッドは車道側を歩いた。
「スターフェイズさんには何と?」
「ホテルでのアレ?」
「はい」
真面目に見つめられて、笑って答える。
「私じゃなくてツェッドが言ったほうが効きそうじゃない?」
「は、……たとえば……どんなことでしょうか」
「『誰よあの女!』とか。あ、ツェッドなら『誰ですかあの女性は』になる?」
ツェッドは俯いた。私と目を合わせているので、もともと少し顔を伏せがちではあったのだが、別のニュアンスだ。
「僕には難易度が高いです。僕は……恋人が別の人物と親しげにしている現場を見た経験がありませんから、さんのお気持ちを想像するしかなく、察せていないことのほうが多いでしょうし」
「そんな真面目じゃなくていいよ!冗談だよ!」
笑い飛ばしてもらえなかった。急いで撤回して事無きを得る。
立ち止まり、交差点で手を振りあい、また今度、の続きに彼はこう言った。
さんは強い」
首をかしげる評価だった。そうかなあ。
自分的には頭がユルいだけだと思うのだが、他の人から見るとそうではないのか。
こういうときにどんな反応をすれば『弱い』ことになるのかもわからないので、『強い』というのがどういう意味なのか測りかねるが、きっと取り乱したりレオとツェッドに愚痴を言ったり勢いよく立ち上がってスティーブンの背中にフォークを突き立てたりしなかったのがよかったのだろう。あと、泣いたりとか。
とても気をつかわせてしまったから、ふたりにはお礼のメールを送るとして。
自室でぼーっとする。日記帳にテキトーな記録をつけて、1行だけのそれに目を落とす。
なーんか、書く気にならない。
別にいい。
フクザツな気持ちにはなったが、仕事は仕事だし、私が口を出せる範囲ではない。朝ご飯の卵を目玉焼きにするかスクランブルエッグにするか意見を言うのとは違うのだ。面白くなく感じるときはあるが(……今日のように)、納得はしている。仕事が一番、何かが二番。私はどのへんか知らないけど卵よりは上。なぜ確信できるかというと、余裕がありそうなときに私が『たまごやき』と言うとスティーブンが直々にリクエストに応えてくれるからである。いつの間にかすごいうまく巻けるようになっていて慄いた。なんなんだあの男は。
今日は帰ってこなさそうだな、と頬杖をついてスマホの暗い画面を指でいじる。ボタンを押していないので、何も起こらないはずだった。
しかし突然、自分の手指の影が映っていた黒塗りの画面がパッと光った。
焦って手を離したが、指が跳ねた拍子に受話ボタンを押した。回線が通じてしまう。
様子を見るうちに、おそらく何度か向こうから呼びかけられていたのだろう。
そろりと電話を耳に当て、「もしもし」と出ると、苦笑まじりに「」と名前を呼ばれた。
「は、はい。です」
「スティーブンだ。声が聞こえないから、何かあったのかと思ったよ。今、大丈夫かい?」
「大丈夫」
状況だけなら。
ボールペンの先を日記帳の隅に押し当て、インクの染みをつける。
私の心模様はこのたっぷりした黒インクに似ていたが、いつまでもこんな面白くない考えに耽るのは不健康だ。己の信条を思い出せ。考えないだとか顧みないだとか、そんなところだったはずだ。どうせ帰ってこないのだろうから、今度この出来事を盾に取ってひたすらとにかくめっちゃくちゃすっごい接待を要求しよう。そうしよう。
「連絡が遅れてすまなかった。これから帰るよ」
「いいよ、そんなの。仕事頑張っ、……あれ?」
聞き間違いかと問い返す。
「帰るの?」
「帰るよ」
「どこに?」
「家に」
「え、なんで?」
「仕事を切り上げたから、だけど、何かあるかい?」
「あ、切り上げられる仕事だったんだ」
スティーブンがちょっと黙った。
私は自分の口が滑ったと気づいた。
「なんでもない。さっきまでそれ考えてたから、口が」
「いや、僕こそ。刺さったよ」
「え!?ごめんなさい!」
、君の台詞じゃない」
たとえそうだとしても刺してしまったことに変わりはないのだから、それについて謝罪するのはおかしくない。……たぶん。
翻訳が効いていても文法が混乱していそうな説明に、電話のあちら側のスティーブンはすごい発言をぶちかました。
「君は悪い男にひっかかりそうだ」
「超ひどい台詞じゃない?」
すべての感想がそれ?そしてあなたが言う?殊勝な心が消えた。
かちりとボールペンの芯をしまう。
「『悪い男』はこういうとき、ひっかかってるエモノをどうやって宥めるの?」
「息急き切って飛び込んで、泣きそうな顔で『ごめん』と言うんだ。それから相手を抱きしめて、『本当は君だけを愛してる』だとか、そういう告白をするんじゃないかな」
「へー……、べたな感じ」
「『お約束』はいつもどこかでは好まれるんだよ」
「守ってきた貫禄があるね、その『お約束』」
「今日の君はザクザクくるなあ」
「ごめんなさい」
どうにも少し当てつけたくなってしまっている。見てしまった衝撃は余程だったのか。
頭の中で子供っぽいジェンガが揺れる。
これはもしかしてスティーブンに『帰らなければよかった』と思わせてしまうだろうか。
不意に過ぎった考えに口を閉ざす。
それは困る。
前にも真剣に悩んだが、ここはスティーブンの家であり、スティーブンはここに帰る。ここはスティーブンにとってアンソクの地であらねばならないのだ。安らげる空間として機能するのが自宅。自宅はそのためにある。スティーブンにとってここは心底から落ち着く場所だっただろう。私という異物があって嫌だったときもあるだろうけれど、今は多少なりとも、その、リラックスしているというか、しているように見えるというか。
そこを、面倒ごとが待つ場所にしてはならない。
無駄にボールペンの頭を2回かちかちとノックしてしまった。調子に乗ってスティーブンの優しさに甘えている場合ではない。子供な部分と決別しなければ。まだフクザツだが、彼に非はないのだし。ここまで考えて混乱した。非はない、か?非とはいったい?視点によって評価は変わる。少なくとも、私にとっては彼に非はない。なぜか余計にフクザツさがこみ上げる。
「……?」
「は、はい。すいません。なに?」
「急に黙ったから」
「それね、えーと、ケーキおいしかったなーって思い出してた」
苦しいけど自然だ。
「何が一番うまかった?」
「ミルフィーユ」
「へえ」
「紅茶もおいしかった。スティーブンは?紅茶だった?」
スティーブンがちょっと黙った。
私は自分が再び棘を飛ばしてしまったと気づいた。これは事故だ。初めのも事故だったけど。
「紅茶だったよ」
「私たち、あっ、レオとツェッドね。私たち、メニューの上から順に飲んで最後に気に入ったのをもう一回飲む方式にしたんだけど、その間にツェッドが紅茶にまつわる話をしてくれてすごく勉強になったんだ」
「ツェッドは色々な話を知っているから楽しかっただろ」
「うん」
短く肯定する。スティーブンにまたも気まずい思いをさせてしまったかと思うともう迂闊には喋れない。あちらも、主導権を私に預けたままにするつもりのようで口を開かない。
すると沈黙が多くなる。
なんとかしぼりだした。
「今どこ?」
「すごいタイミングだ。あのホテルの近くだよ」
「ほんとにすごいタイミングだね」
良いのか悪いのか。唸り出しそうな流砂にまたもや巻き込まれかける。
スティーブンだってこんな状態の私と顔を合わせて癇癪を起こされたくないだろう。私だってムッとしていたくない。機嫌が悪いことは認める。だからどうにかしてそれをなおしたい。
「……あっ!!」
「どうした?」
弾かれたように声を上げてしまい、自分でもその大きさにびっくりする。スティーブンはもっとびっくりしたのではないだろうか。
姿勢を正す。
言うべきかやめるべきか。
言いたかったから言うことにした。
「マカロンを買ってきてください」
「マカロン?」
「はい」
「良いけど、なんだい急に。……ああ、食べたからか。気に入った?」
「気に入りました」
「わかった。味は?」
「なんでもいい。スティーブンが選んで。私が好きそうなやつ」
向こうはさらに困惑したはずだ。唐突なワガママ、そして無茶振りである。スティーブンでなければもう一、二度は質問があったと思う。たとえば数はいくつかだとか、今日食べるのか明日食べるのかだとか、そういった。
だがそこは彼。プロたるゆえんか(……プロなのかは知らないが、プロだろう)、気まぐれで高飛車な要求にも構わずさらりと了承してみせた。
「それで」
一旦電話を切られる前に、急いで言葉を繋ぐ。
この素晴らしいお宅の居心地のよさを邪魔しないように頑張りたいし、私だって彼にちゃんとおかえりなさいを言いたい。嫌な同居人でいたくない。私は楽しくて面白くて笑っていられるのが好きなのだ。悩みの渦に呑み込まれるなんてゴメンである。ニコッと笑ってニコッとされたい!
手のひらがじっとりして、緊張で耳が熱くなった。
「一緒に食べて!ケーキじゃないけど、私とも!そしたらもう嫌なこと言いません!ごめんなさい!」
「僕、君に嫌なことを言われてたか?」
「え!あんなに失礼な態度だったのに!?」
「逆にどれが?」
「えええ?」
私の知るコミュニティでは人間関係が崩壊してもおかしくなかったと今ならわかるのだが。聞き流してくれたスティーブンは本当に優しい。なぜ気を悪くしないのか激しく知りたい。オトナだからか。
オトナは「じゃあ」と言った。
「いくつか買って帰るから、一緒に食べよう。……食べてくれるかい?」
「はい!」
「速いな」
我慢を知らない女ですみません。

スティーブンはマカロンを6個買ってきた。今晩はふたつずつ。残りのひとつは明日の朝に食べようと言い交わす。
濃い緑色、薄い水色、ビビッドイエローに真っ白など、箱を開けると色が雪崩を起こす。甘い絵の具で丁寧に彩色されたマカロンは、手のひらサイズでまるくて可愛くて、まさに、食べてしまうのがもったいなかった。
紅茶を淹れて差し出す。
スーツを脱いで簡単な服装に着替えたスティーブンも箱の中を覗いた。
「こっちから、フランボワーズ、ピスタチオ、スッとするカスタードクリーム、レモンクリーム、バニラ、オレンジ」
「スッとするカスタードクリームってなに?」
「面白そうだから買ってみた。あげるよ」
「一番いらない……」
「スッとするカスタードクリームが泣くぞ」
「しょっぱいカスタードクリームになるね」
私はピスタチオとバニラとオレンジをもらい、スティーブンがフランボワーズとカスタードクリームとレモンクリームを取った。
バニラに関しては争いが起こり、それぞれ右手を握りしめた。
「じゃんけんで決めよう」
ここに来てから外国にもじゃんけんがあると知って驚愕した記憶が懐かしい。そのときはヘルサレムズ・ロットルールとかいう超ローカルな規則にやられて壊滅的な敗北を喫した。
スティーブンのじゃんけんもヘルサレムズ・ロットルールに則っているやつかなと頭を切り替えたが、普通にグーとチョキとパーを組み合わせる一般的なやり方だった。
そして勝った。
「うそー!」
信じられない。自分の手のひらをまじまじと見つめる。この手が勝利とバニラマカロンをつかんだ。スティーブンに勝った。
「わざと?」
「本当に負けた」
「えー!何かでスティーブンに勝ったの初めてじゃない!?」
「そう思ってるのは君だけだよ、
なにを言うやら。私は何においてもこのイケメンに負けっぱなしだ。花をもたせてくれた可能性を無視するととても嬉しい。
喜びに紛れさせて、さっきからちらちらと呼ばれる名前攻撃をやり過ごす。電話のときはとてもモヤモヤしていて気にしていなかったけど、今は意識すると照れる。これが策謀のひとつだとしたら、この男、恐ろしくてしばらく遠巻きに見るしかない。
手に入れたバニラ味からいただく。
歯を立ててさくりと噛み、喉が痛くなるほどの強烈な甘さと脳天まで達する深い匂いにうっとりする。数時間前までスイーツが荒れ狂うお上品な海をざばざばと泳いでいたとは信じられない貪欲さだ。
「んんー、おいしい!幸せ!」
誰彼構わず握手を求めたくなるおいしさ、と言えば、この衝動を抱いた経験のある人には完璧に伝わるだろう。
「スティーブンのは?スッとする?」
「うん。嫌じゃなければかじるかい」
「ふあ!そんな、そんなすごっ、そ、そん、え!?」
うろたえる。彼は私のカップを指差した。
「飲む」
「え、うん」
飲む。
色のあるマグカップは、以前も今も私のものだ。
「で、こっちを見て口を開ける」
鬼のような指令である。
私は理解した。
「トキメキのどさくさに全部食べさせる気でしょ」
「うん」
合わなかったのなら言えばいいのに。
そう思いながら指示どおり、口を開けてエサを待つ。すぐに丁寧に食べさせていただけた。カスタードクリームのハンパない清涼感とスマートさのせいで、これは夢の『あーん』なのでは、と覚るのには時間が必要だった。気づくと照れる。
口の中の不可解な味では抑えきれない羞恥が押し寄せる。平然と受けてしまったがこれはとんでもない価値だ。空気ごと変に嚥下してしまって、喉がゴクリと鳴った。
赤くなってそっぽを向くしかできない。所詮私はこの程度だ。座っているのに足が震えそうである。
「……ば、バニラいる?」
「ひと口良いかい?」
「も、もちろんです。どうぞ」
スティーブンはこちらの手からバニラを受け取り、かじり、『うわバニラうまい』と言いたげに手元と私を二度見した。カスタードクリームへの反応とは雲泥の差だ。
「食べていいよ?」
「大丈夫。ありがとう」
こちらから『あーん』する勇気はなかった。いつかこのカッコよくて優しくてテクニカルでどうしようもなく大好きな色男の口にハート型のマカロンを丸ごと1個押し込むだけの力を手に入れたいものである。
ひと息に噛んだバニラ味のマカロンは、初めに食べたときより断然胸をぎゅんとさせ、脳をとろかした。
誤魔化すようにオレンジ色を摘み、つやつやの表面に恍惚とする。このゾウケイビが心を惹きつけるのだ。
「可愛いから食べるのもったいないーって気がしちゃう」
「綺麗な形だよな」
「うん。眺めてて楽しいよね」
「そんな君に」
スティーブンは箱の入っていた紙袋から小さな包みを取り出した。そのまま手渡され、マカロンを置いて受け取る。手の中でがさりと紙がこすれた。
許可を得て開けると。
小さなマカロンの飾りがついたストラップが顔を出した。
「えー!可愛い!買ってくれたの?」
「買ったと言うほどでもないけどね」
「そうなの?でも嬉しいなー。上手だね、スティーブン。もっと好きになっちゃうよ」
そりゃあ、誰だってイチコロなわけだ。イチコロなのかは知らないけど、私はイチコロだ。仕組みを知ってもイチコロだ。ひとりでへらへらしてしまう。表情が締まらない。私がこんな顔をすることだって予想済みで買ったのだろう。すべてが彼の計画どおりに進んだに違いない。さらりとした態度がまたにくい。
「何につけよっかな。ストラップだし、スマホかな」
お気に入りのカバンにぶら下げるのもよさそうだ。
スティーブンは表情を落ち着いたものに戻し、じっとこちらを見つめた。
「ありがとう」
「え?」
首をかしげる。何についての感謝かが読み取れない。お礼を言うのは私のほうだ。ワガママに付き合ってマカロンを買ってくれて、一緒に食べてくれて、ストラップまでプレゼントしてくれて、わかりきったことで機嫌を悪くして失礼な態度を取った私を持ち上げて楽しませてくれている。
「私がお礼を言うんだよ」
「そうかな」
「うん。ありがとう、スティーブン」
それからフッと、なんとなく言いたくなった。真正面から見つめ返す。私は自分でも驚くくらいシンプルで、笑顔はまったく制御不能だ。
「私、本当にあなたが好きだよ」
たぶん、合コンでよく使う最大限に繕った可愛さはすっぽ抜けた笑顔だった。私の培った技術はどこへ飛んで消えたのだろう。明後日の方向?それがどこかわからないから迎えにも行けない。
彼は目をそらさなかったし、微笑んだし、イケメンだったし、放つ色気で人を殺した。
「僕も、本当に君が好きだよ」
信じてもらえなくても、と言われる。思わず慌てて「いえいえ」と怪しいセールスのような否定を差し挟んだ。
信じている。信じさせられてきている、というのが正しいか。
卵よりは上だと確信できたり、私のために(……だよね?)たまご焼きの練習をしたり、寝室にお邪魔させていただけたり、ワガママを聞いてもらえたり、想い出を大切にしてもらえたり。毎日連絡をくれるのもそうだ。
スティーブンは私のことを忘れない。
そんな積み重ねが私の過剰な自意識に現実味を帯びさせた。
「スティーブン、そこは『アイシテル』って言わないと!」
ということで、こういう調子こいたアホな返しをかませるわけだ。言ってから後悔するところまでがひとつの流れである。
スティーブンは笑った。
「愛してるよ」
「きゃー!やった!ありがとう!」
「そこは信じてないだろ?」
頼めば言ってくれるから、というこれは前に指摘された悪癖だ。頼まなくても言ってくれるときもあるけど、そういうときの私は大抵、パーペキ男の色気にあたりまくって脳がフワフワお花畑なのでカウントできていない。もったいない限りだ。
オレンジのマカロンをかじって、たくさんの至福にもだえる。『お約束』でも気持ちがいい。
「機嫌なおった」
「そうか」
「うん」
スティーブンは遠くを見るように目を細めた。だというのに、視線は結ばれたままだ。私だけを見ていた。
「すまないけど、僕は少し嬉しかったよ」
脈絡なくこう言われてぽかんとする。
「なにが?」
「うん」
「いや、『うん』じゃなくて」
理由は白状しなかった。お願いだからこちらのレベルに合わせて会話してほしい。私は高性能で知能的な賢い人ではないのである。


何が嬉しかったのだろうかと寝ながら考えてみたものの、良さげな回答は浮かばなかった。
マカロンを一緒に食べたこと、ではなさそうだ。
現場を見られてハッピーだったとも思いづらいし(……精神が鋼にも程がある)、今日のうちに私とスティーブンの間で交わされたやりとりの中に彼を喜ばせる点がどこにあったのか、気になりすぎて問い詰めたい。彼の琴線は不可思議だ。私は彼に八つ当たりするにとどまらず、あんな素晴らしく忙しいパーフェクトに魅力満載な男をパシッてマカロンまで買わせたのだが(……我ながらおそろしい)、それの何が良かったのだろう。本当にわからない。『簡単に丸め込めたから』とかそういう裏側があったら脛を蹴っても合法だと思うので遠慮なく蹴らせていただきたいが、予感だけど、違う気がする。
ごろんと寝返りを打った。
自分のベッドからスティーブンへメールを送って説明を求める。すぐに返信がきて、受信マークがつく。
(……『秘密』かあ)
そう言われると攻め込めなくなる。ヒミツとはまた言葉選びがあざとくて勝ち目が見当たらないし、スティーブンの秘密事なんて永遠に暴けなさそうだ。しかも基本的にヤバい香りがしなくもないから、推理力や行動力があったって突っ込みたさは空気が抜けた風船のようになっただろう。
今度は反対向きに寝返りを打って、私は追及を諦めた。
もう二度とこんな状況には陥らず、私だってそのうち『ふーん、へー、そっかー』でカンタンに流せるようになれると思うので(……思いたい!)、スティーブンに迷惑をかけることもなくなるだろう(……なくしたい!!)。
彼がささやかに嬉しがるわけはわからなかったけど、まあいいかと目を閉じた。




0612