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課題図書を定める人もいないことだ。好きな本を題材に書かせてもらおうじゃあないか。
読書感想文を書く際にどんな段階を踏んで挑むか、というのは人それぞれ個性が出る部分だろう。私の夏はこれと決めた本を読んで、自分でも支離滅裂だとわかっている文章を書き殴ってからもう一度読んで清書に入る流れを辿るのがテッパンだった。原稿用紙を文字で埋めときゃあ何とかなったってのもあるけど、まあ、叱られはしない出来になるのだ。勘で書いた文章が奇跡的にぴったりマス目に収まるとこれはもしや自分は天才かもしれんなって感動するよね。積極的に自己肯定していくスタイルで生きているよ。
書いたものは発表しなくちゃもったいない。赤ペンチェックを入れる手間をかけさせるのは申し訳ないから、ちょっと恥ずかしいけど夏の恥はかき捨てともいうし(言わないのは知ってる)目の前で音読させていただこう。
それではお聞きください。
「"もしも余命を知れたなら、私はこの本が己の命を三時間長く永らえさせたとわかっただろう"」
「……」
ネエロ先生の前で原稿用紙を読み上げる。
はきはきした発音になるよう心がけつつ進めていくのはせめてもの罪滅ぼしだ。リゾットをこんなくだらない遊びに付き合わせる私は、今まさに彼の余命を二、三十分ぶんどっているところなのだから。
題材とした本はリゾットの膝の上にあり、私が渾身の感想文を読み終わると、赤い瞳が私と本の間を一度だけ行き来した。長い指がぱらりとページをめくる。
横書き多めのカラーページが存在を主張し、挿し込まれる画像にはわかりやすい注釈がつけられている。
色文字や強調が巧みに活用された本をひとしきり眺めたあと、リゾットは無感動な評定を刻んだ。
「いいんじゃないか」
「やったー!夏休みの宿題おわり!聞いてくれてありがとうおかあさん、じゃあ太郎くんちに行ってくる!」
「俺はお前の母親ではないし、お前の友人にタロウはいたか?」
「いないけど、宿題が終わったら一目散に友だちの家に駆けて行ってピンポン連打でこんにちはー!って虫捕りに行くのが夏休みのイメージなのよ」
「偏りがあるように思えるが……お前の好きなジャッポーネではそういうものなのか?」
「うん、そういうもの」
平気な顔で嘘をつくのが大得意なポルポさんだからしれっと頷くよ。
リゾットは小さく首をかしげて前髪を揺らした。私が集音マイクと超高性能スピーカーを自由自在に操れるスタンド使いだったら揺れ動いた前髪の至近距離に機器を構えて紗のようなその音を録音していたはずだ。どんな風鈴よりも人の心を穏やかにさせる涼しい音だろうから。
「ところで、……ジャッポーネの学校から出される課題では、題材にゲームの攻略本を選択することは許可されているのか?」
「たとえばね、こういう理屈だと思うのよ。A君が"バナナはおやつに入りますか?"って質問して、"入らないよ"って言われたらバナナはおやつに含めちゃあいけなくなるの。でも質問しない間は"おやつに入る"か"入らない"かは明らかじゃあない……シュレディンガーのバナナなのよ。この状態でA君がバナナをおやつとして持参しても先生は叱れないでしょ?まさかバナナを持ってくるとは予想していなくても、"バナナはおやつではない"と条件化しなかったのは事実なんだから。読書感想文にも同じ理屈が適用できるわ。でしょ?だって"ゲームの攻略本を題材にしてはいけません"なんて誰も言わなかったもん。許可も不許可もされてない。推定無罪が確定よ」
「そうか」
「うん」
会話を長引かせるのに飽きられたのかな?反応があまりにも薄くて長台詞が上滑りした。
ずっと喋りどおしだと喉が渇く。まだ氷の浮くオレンジジュースをくぴくぴ飲んで癒しとした。
飲んでみて初めて自分が意外にも水分不足だったとわかることが多いが、喉が渇いたと感じるときにはすでに身体はからからだという話もあるし、夏の水分補給はこまめにするに限る。
最後のひと口まで飲み干して、湿った唇を舐めた。飲むのへたなのかな。ちょっと舌先が甘かった。
「リゾットは熱中症になったことある?」
「ああ」
「やっぱ気づかないうちに?」
「そうだな。幸い自宅にいたから軽いうちに休めて、ひどくはならなかった」
「そりゃ良かったわ。え、でもいつ?」
「いつ……、……確か本棚の棚板が割れた日だったか。いっそ新調するつもりで壊れたものを解体していたら、寒気と眩暈が起こった」
「……」
「良さそうなものが手持ちになかったから、お前にスポーツドリンクを分けてくれるよう頼んだ」
「……」
「それで、"好きに持って行って良い"と言われたから二本ほど貰って飲んで、しばらく部屋で横になって治した」
「……」
「貰った分は昨日買い足しておいたぞ」
「あれ熱中症だったの!!?」
確かに盛大な音を立てて棚板がバリバリバリッつって壊れた本棚を解体してた日があったね!!
ポカリもあげたわ。あげたっつっても勝手に冷蔵庫から取っていいよーって言っただけだけどあげたっちゃああげたわ。"部屋にいる"とだけ言われたから邪魔しないで欲しい作業でもあるのかなって思って声かけないようにしてたし、いやでも熱中症で寝込んでたんだったら様子を見る第三者がいないと危ないよね!!この家にはあなたと私で二人の住人がいるのにどうしてもう片方に頼らないの?熱中症は移らないぞ?風邪のときはそばにいて欲しがるくせに熱中症のときはオンリーロンリーグッドナイトなの?普通に"具合が悪い"って言ってくれるとありがたいぞ?
「ちょっとー。私が同じことしたらしこたま怒るのに自分はやっちゃうんですかー。リゾットおかーさーん?」
ジト目の視線を気まずそうなかんばせに固定すると、唇が小さく動いた。
「……すまない」
「これでリゾットが大変な状態になっちゃってたら、私がどんな気持ちになるとおもいますかー。リゾットおかーさーん?」
「そうだな……」
「逆に私が熱中症になってもリゾットちゃんになんにも言わないでこっそり耐えて治してたって知ったらリゾットちゃんどうするんですか」
リゾットはわずかに考え込むような仕草を見せた。たぶん想像したのだろう。
「……手元に置く、だろうな」
「君の手元どこだよ」
もう手元だろここは。同じ屋根の下でご飯食べてお風呂に入って同じベッドで眠ってるのにこれ以上の手元とかある?私の手元かつあんたの手元だよ。
とにかく、次からはちゃんと報告連絡相談を徹底してくださいね。君には労災隠し(物理)の前科もありますからね。
「そりゃあリゾットちゃんがベストと思ったやり方が一番効果的なのかもしれないよ。でも、心配くらいはさせてくれないかな」
「……ああ、そうだな、すまない。次からは気をつけよう」
「次はなくていいけどねえ」
思ったよりも身近な所で発生していた夏の危機一髪にため息が落ちる。怖いなあもう。目の届く場所ならまだしも、知らんうちに綱渡りをするのは勘弁して欲しい。
さっきから時どき頭をかすめる"私に面白がられると思ってあえて打ち明けなかった可能性"については無視を決め込んだ。