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ビニールプールで遊びたいと思い立ったのはつい一時間前の話。
確か可愛い柄のやつを衝動買いしてどうしようもなくてどこかにしまっておいたはずだからと倉庫代わりの部屋をひっくり返して未開封の段箱から通販サイトのラベルの貼られたものを探し出すことおよそ三十分。
自転車用の空気入れじゃあ膨らましきれねえなと半分諦めたところでやって来たプロシュートに"煙で膨らまして貰うことって可能?"と訊いて無情な罵倒をいただいた私は仕方がないのでホルマジオに電動空気入れを買って来てくれるように電話で頼み、その間にプールの中で楽しむためのおやつを用意する。果物を切ったりおせんべいを出したりジュースのボトルを氷水に突っ込んだりね。
「そのままの格好で入んのか?」
「ん?」
「水着かなんかを用意してるんじゃあねえのかってことだ」
「水着は洗うのがめんどくさいからこれでいい」
「ポルポ、タオルは何枚用意する?」
「おっきいの三枚と普通の五枚くらいかな?リゾっちゃんも入るよね?」
「いや、入らないが……」
えっなんで入らないの?プールだよ?大きなお庭のある一軒家に夏の陽射しがさんさんと照り付けているんだよ?
愕然とする私の背後ではパシられたホルマジオがせっせとプールを設営してくれていた。ごめんねホルマジオ、あとでするめあげるね。飲んでみたいって言ってた日本のノンアルビールを取り寄せて冷やしておいたから全部好きにしてね。
まっしろふあふあなタオルを籠に積んで持ってきたリゾットは、"この蝉は生きているのか死んでいるのかわかりづらいが近くを通らなければ蝉の生死は俺に関係ないだろう"とでも言いたげな顔でスッと視線をそらした。全身で"入りません"っつってるぞこいつ。夏に目の前でビニールプールが作られてホースからは透きとおった水がなみなみと注がれ水面がきらきら光り輝いてるっていうのにこの男は一切心惹かれないのか。メンタルが鋼すぎるも良い所でしょ。
うろたえるなポルポ。ビークールビークール。
「プロシュートは入るよね」
「入らねえよ」
「ホルマジオは!?」
「濡れんのがなァ……」
「猫かよ!!いやネコじゃあないのはわかってるけど!本命は夜のズンドコベロンチョだから昼間濡れるのはご法度なのはわかってるけど!!」
「オメーは夏になると頭が沸騰するよなア」
「ふええ……」
頭がフットーしちゃうよお……。いや、スラング扱いされそうな言い回しをしないでいただきたい。仮に沸騰したとしてもビニールプールがびっくり水になるから大丈夫だし、洋服とか貸すし、ていうかみんなこの家に勝手に着替え置いてってるし。
「接待だと思ってここはひと夏の思い出づくりに挑戦しよっ、……びゃっ!!」
背中から、水に、突っ込んだ。

何が起きたかまったくわからないまま、気づいたらリゾットに救出されてげほげほウェッげほげほと咳き込みまくっている私。水中から水のヴェール越しに見た一瞬の青空は美しかったなあ。そらきれい。
べったりと顔にくっつく髪の毛はさながらしぼんだ綿あめのよう。憎しみを込めて男どもを睨み上げる眼差しはまな板の上のタコのよう。
「足でも滑らせたか?」
「あんたがスタンドで押したんでしょうが!一歩間違えれば死んでるぞ!次会うときはヘブンズドアーだ!!」
「しかしびっくりしたならびっくり水ってヤツは成功だろ」
転ばせたときの私の顔がよっぽど面白かったようで、男二人は無邪気に笑い声を立てた。
リゾットは私の頭にタオルをかぶせて甲斐甲斐しく拭いてくれた。頬を伝い落ちたのはプールの水だと思いたい。泣いてはいない。泣いてはいないぞ。

結局誰も一緒に入ろうとしてくれなかったため、私は三人の成人男性に囲んで見守られながら一人でのびのびとプールを楽しむしかない。時どきホースから直接顔に水をぶっかけて遊ばれた。水槽で飼われる魚ってこんな気分なのかな。
「……夏って感じがする」
ビニールと素肌がこすれ、ぎゅむ、と変な音がした。
今日は南イタリアも湿気をふくんだ風を吹かせて、青空の向こうにちぎったような雲を並べる。
びしょ濡れにされた髪の毛はいつの間にか乾き、なけなしのキューティクルがお亡くなりになったせいできしきしした。
おせんべいをかじって、噛んで、お茶と一緒に飲み込む。
リゾットがゆっくりと首を傾げた。
「そうか?」
「私的にはね。ビニールプール、花火、読書感想文、狐の嫁入り、怖い話、フルーツポンチ」
「読書感想文?」
「夏休みの宿題といえば、さんすうドリル、かんじドリル、自由研究、読書感想文。トラウマになるのが読書感想文」
強制された感想文は悲劇しか生まないものだ。
ちなみに私は昔も今も変わらず、序盤一週間で半分、終盤三日でもう半分を片付けるタイプだった。序盤に軽く触っておくっていうのが夏休み本番に繰り出す際の解放感に繋がるのである。ストレスを与えるほどおいしくなる野菜みたいにね。
「わくわくしてきた。せっかくだから全制覇目指そうかな」
決して仕事が嫌になったわけではない。
にやりと笑ったのはプロシュートだ。
「お?二十六歳のポルポちゃんは算数からやり直しか?」
「二十八歳のプロシュートくんが漢字を頑張るなら私も算数を頑張るわ」
「テメーは知らねえかもしれねーが、漢字が使えなくてもイタリアじゃあ問題なく暮らせる。算数とは別でな」
だから私も算数を頑張らないって言ってるんだ、わかってるのにからかってこないでくれ。私はイケメンに強く出られないんだ。折り畳み椅子に深く腰掛けて大きく足を組むサングラス姿の美丈夫は顔面のみならぬ全身偏差値が天井知らずで何につけても嫌味を感じさせずさっぱりしたもので、視線を合わせるだけで反撃する気力がごっそり削られて亜空間に持って行かれる。
ぱしゃんとつま先で水を蹴ってみた。飛沫が綺麗だった。
「いい夏にしないとねえ」
「そうだな」
「そりゃあ同感だぜ」
「雨なんかは、こっちじゃあどうにもできねェがなア。そーいうスタンドもあるんだろうが」
「あるねえ」
「知り合いか?」
「や、知らんわよ」
「ったく……オメーはいつもテキトーだな」
ホルマジオ先輩は苦笑して、私の口にするめを放り込んだ。リゾットにも袋を差し出していた。食べるのかなと思って凝視したらタオルを渡された。違うんだけどありがとね。
やがて、ふと、顔を上げる。
「雨の匂いがする」
「動物かよ」
しかし早速、目標のひとつをクリアできそうだ。