未来設定 奇跡の生還


最後に見えた景色は、どこまでも青い空だった。透き通るような色が目に焼き付き、そのまま瞼を閉じてしまったのをおぼろげに思い出す。
激しい眠気に抗い、いつか閉じた瞼をこじ開けると、そこにあるのは青い空などではなく見知らぬ天井だった。知らない天井ですね、と冷静な自分が囁き、そんな場合じゃあないとかぶりを振る。頭がふらついて、空腹も感じた。随分と長い間眠っていたようだった。
ここはどこだ。
ぴ、ぴ、と聴いたことのある機械の音がする。私は入院の経験があるし、病院にも何度か立ち入ったことがある。ドラマでも耳にするし、なんという名前なのかは知らなくても、私の生命が維持されていることを確認する機械の音は知っていた。静かな病室にはうるさいくらいだった。
病院独特のにおいが鼻をつんと突き刺す。身体がぎしぎしと痛む。
記憶を手繰り、股間には無いはずのブツがヒュンとした。自分の下品さに笑えないくらい恐ろしい体験だった。ああなるほど、私は事故に遭ったのだ。ボスがこんなものを日常的に体験し、死を繰り返しているのかと思うと同情すら湧く。
迫りくる車がとてもゆっくりに見えるのに、声も出ないうちに衝撃が訪れる。インパクトの瞬間はあやふやだが、怖いと思うよりも先に、明確な死の予感に襲われた覚えがある。
カレンダーなんてものはなく、今が昼時であることしかわからなかったので、とりあえずナースコールを押した。16連打は、していない。

あわただしく入室して来た看護士さんとお医者さんに、脈拍だったり、痛みの具合だったり、記憶の混濁だったり、身体が動くかどうかだったり、神経の異常がないかだったりと色々なことを訊ねられ、検査をされ、はいはいとすべてをこなしているうちに時間はあっという間に過ぎていった。昼時は終わり、静かになった病室では、さっきまでは気が付かなかった外の日常風景が微かに見て取れた。ベッドは窓際にはないけれど、音はわかる。子供が泣く声や、鳥が羽ばたきこずえがすれ合う音。ざわざわと葉を揺らす大木。雲は空に流れていた。それらを見ているうちに、考えていた多くのことを押しのけて、一つだけふと思う。
もしかして私、生きているんじゃない?
安堵の気持ちで全身がどっと疲労する。私は生きている。そうか、生きているのだ。死ななかった。また、死ななかった。
私のしぶとさは世界一だと言いたいね。生きている。そう、私は。
漠然としていた気持ちが固まって、涙があふれた。怖かったんだよ、私。こう見えても普通の女子だから。女子っつってもアラサーだけど、普通の女だから。こわかったんだよ。
泣きながら、彼らはどうしているのだろう、と先ほどまで考えていた疑問が再び浮上する。携帯電話の使用は禁止されているし、公衆電話まで歩いて行くことも看護士さんに断固として認められなかった。絶対安静だそうだ。連絡を取る手段はテレパシーくらいしかない。そして、私も彼らもそんなものは使えなかった。
私が目覚める予測は立っていたらしい。こんこんと眠っているだけだとわかっていた。それでも、多大なる心配をかけたに違いない。病院でグースカと眠っている私を見るのは二度目だろうけど、前回も、とても心配してくれていた。あのホルマジオが、くぐもった声を漏らすほどに。
ペッシは泣いていないかな。プロシュートは呆れていないかしら。ホルマジオとイルーゾォに怒られそうだな。メローネは大丈夫かな。ギアッチョも、怒りそうだ。ソルベとジェラートがおいしいご飯を作って迎えてくれたらいいな。
リゾットは、自分を責めていないかな。
どうしても都合が悪くて、私たちは一緒に行動できなかった。こんなことになるのなら、と、彼は悔やんでいないだろうか。いや、悔やんでいない筈がない。私がリゾットでも悔やむもん。こんなことなら離れるんじゃなかったと思うし、一緒に行動していて巻き添えになったかもしれなくても、近くにいたかったと考える。リゾットと私の思考が似ているとは決して思わないけど、こればかりは共通しているのではないだろうか。
ていうか、今チラッと思ったんだけど、私を撥ねた車の運転手は大丈夫なの?生きて普通に司法の裁きを受けてるかな?ついうっかり気になっちゃうね、ははは。笑い事じゃない。

噂をすれば影、なんて言葉もある通り、急いた足音を立てて病室の扉を開けたのは、リゾットだった。
「あ、はい、お疲れ様です」
咄嗟に何を言えばいいのかがわからなくておかしなことを口走ったが、リゾットはそれを無視して、名状しがたい表情を浮かべた。言葉を呑み込んで、消化して、目の前の出来事を一つ一つ噛み締めるような、今までに見たことのないものだった。
廊下に響いていた速度とは反対に、彼の歩みは緩慢なものだった。蜃気楼か現実か、確かめるように。
どうすることが正しいのか、上手く思いつかなかったけど、とにかく私は生きていた。リゾットを見て、どうしようもなく実感する。私は生きていた。きっと、みんなを見たらまた泣いてしまうのだろうな。
変な表情を浮かべている自覚はあったが、軋む身体でリゾットに縋りついて、彼の服をじんわりと濡らしてしまう。
「ただいま、って言うべきかな」
彼は答えなかった。
代わりに、私に額を押し付けて、何も言わずにひどく強い力で私の身体を抱きしめた。彼の頬が髪をこすり、吐息を間近に感じる。息が苦しくなるほどに距離を埋め、私たちは長い間、ずっとそうして抱き合っていた。






(未来設定)