34 ふれるなにぎるなあばかないで


珍しくゆるいロングスカートを履いてきたので、今日は膝を曲げて横になってもだいじょうぶな日だ。
いつものように壁際の肘かけに頭をのせて、誰も座らないソファを占領して仰向けになりながら書類をめくる。ホチキスで留められた数枚の紙はもう最後の一枚までめくっていて、右下に記された直筆のサインを確認した私は、それを寝っ転がりながらローテーブルに置いて片脚を伸ばした。今日の仕事はおーわり。なにか甘いものでも食べようかな。
あるかないか微妙な腹筋には頼らず、腕で支えて身体を起こすと、私のつまさきのすぐ近くにホルマジオがいた。
「ソファ座る?」
「いんや、いいや。……ところでオメーさあ、前に俺が言ったこと覚えてっか?」
背もたれに左手をついて、もう片方の手を腰に当てたホルマジオが私に訊ねた。前に言ったことって、なんじゃらほい。色々と言われているからどれがどれかわからないよ。正直にそう言うと、じゃあ今思い出すかな、と何気ない口調で呟いて、それから右手でぺらりと私のスカートの裾をめくった。
ホルマジオの右手に対して、私が伸ばしていた脚は左脚。向かい合う形で顔を合わせているので、ちょうど手を伸ばしやすかったのかもしれない。いや、なんでスカートめくるんだろうか。
何かあるの?そう訊ねた私の言葉が、不自然に途切れた。右手で左の足首を掴まれたのだ。ぴしりと、身体がかたまったように動かなくなる。
「ひ、ひえッ……、な、ななな、な、なに?なに?!」
「何をやっているんだ?」
私の声に反応したリゾットが立ち上がった。いや、間違えた。飲み物をつぎたそうと立ち上がった時に私の声を聴いて振り返った、というのが正しいんだろう。片手に持っていたグラスを置いている。
「あー、リーダーは覚えてっかなァ?前にポルポの偽物が出た時によォー、こいつの秘密を暴露する流れになっただろ?」
いつの話だそれは。数か月は前のことだぞ。ちょっとは覚えてるけど、暴露された秘密なんて私にとって痛いものばっかりだったし、そんな流れをつくってしまった自分を呪って忘却の彼方へ放り投げたわ。
リゾットは覚えているようだった。そんなこともあったな、と肯定する。
「んで、俺が言ったこいつの秘密。ポルポっておもしれーんだわ。なんか知らねえけど、足首掴むと固まって動かなくなんの」
オメートラウマでも持ってんのか?そんなこと言われても覚えが……ない。ないったらない。うあああ、ないんだよ。あれは忘れたい記憶なの。ないです。確かに身体は動かない。理由は、いや、ないったらない。手なんかは動くから逃げようと後ずさろうとしても、身体がついてこなくて倒れ込んでしまう、そんな感じだ。こんなにもなる理由がかなり根深そうで、自分に引いた。私は楽しいことしか考えていたくないんだよお。
「本当に動かないのか?」
「ま、ま、まじお、ちょっと離せよ、なんか緊張しすぎて、ちょ、ちょっとはなして」
「やっぱおかしーだろ?心当たりねェのか?」
ギャグかよ、と笑い飛ばしたくなるくらい身体が小刻みに震えてる。何、私、寒いの?モテないから心にはいつでも北風が吹いているけどそう言う話?歯の根が、あわなくなって、めまいがした。
「ホルマジオ、一度離せ」
「おう」
解放されて、即行後ずさって逃げた。もう誰にもぜってー足首触らせねえー。アンクレットとかつけられないのかなこれ。オシャレの幅が狭まる。あっすみません私なんぞがオシャレぶって。
ぐるぐると関係のないことに脳みそを使って現実逃避を計っていた私は、有無を言わさず顔の向きを変えられて心底から驚いた。ソファに、横に座っていた私のすぐ隣の床にリゾットが膝をついていたことにも気づいていなかった。今のが暗殺だったら私死んでるな。冷静に考えたつもりだったけど、後から振り返れば全然冷静じゃない。
「ポルポ」
「え、あ、えっと」
ポルポって誰だっけ。

「わ、……私のこと、だよね、ご、ごめん、今のなし!」
一拍が空いて、素で訊いてしまった。リゾットの眉根が寄せられて、はっと気づいて訂正。誤魔化せてねえよ私。でも"私"と"ポルポ"の剥離的なものが起こってしまったのは仕方ない、と後から自分を慰めた。名前呼びながら色々されたからそりゃ剥がれもするってんだよ。ふざけんな親衛隊ども。あとなんかよくわかんない野郎。一度たりともゆるさん。めちゃゆるさん。
ぐるぐる、思考が空転する。
「リゾット、……ホルマジオ……」
リゾットから目が離せない。どうしたらいいのかがよくわからない。なんだっけ、ここってどこだっけ。食べた朝ご飯が思い出せない。すぐ近くにいるリゾットとホルマジオに手だけ伸ばした。すぐに暖かい体温がすくいとってくれる。焦点が合ってるのかもわからなかった。ご飯のことがやけに気にかかる。一昨日の夕ご飯まで思い出せたはずなのに、どうして今はこんなにもわからないんだろう。
あああやばい、前に掴まれた時は掴まれたことにも気づいていなかった、それは幸運だった。こんなに、吐き気がするほど"戻って"しまうとは思っていなかった。さらりと笑い話に変えて流したつもりだったのに、全然ダメじゃねえか。チェス盤もひっくり返せないよ。助けてくれ魔女さん。魔女はいるんだようーうー、今だけいてくれ。
「リゾ……、いや、……やめよ、この話やめよう、ヤバい」
「なにが"ヤバい"?」
「なにって……やめて、これには、……お願い、こればっかは、……」
何て言ってやめてもらえばいいのか、言葉も出てこなかった。涙が、勝手にあふれた。いやだ、知らないことだ、私には関係のない。
危険だな、と自分でもわかった。自己否定は何も生まない。むしろ、状況を悪くする。
いつの間にか私の手はリゾットの肩を掴んでいた。きついほど指に力がこもっているのに、しびれてしまうほどの色なのに、まったく感じなかった。
「リーダー、ちっとこいつぁ"ヤバい"ぜ」
「あぁ」
ホルマジオがじっとこちらを見ながら、ソファについていた手をそっと脚に伸ばしたことに私は気づいていなかった。ぼろぼろとこぼれる涙で、視界も最悪だった。リゾットの赤だけが、焦点の合わないレンズの中でぼんやり光っているように見えて、それだけを見ていた。
ぴくり、と、ほんの少しだけ指先が触れた。それに気づいた瞬間、強烈なフラッシュバックが襲った。
「いやだッ、わかった、もうわかってる!もう、無理……!」
自分が悲鳴を上げたことも、指が離れた瞬間、身を守るようにソファの上でうずくまったことも、気づかないうちに終わっていた。

はっと目が覚めて、あれ、寝てたっけ、とぼんやりしたままかぶっていた毛布を?いだ。おかしいな、ついさっきまでホルマジオと―――。
「(……やっべええ)」
開けてはいけない扉(隠語ではなく)を、あんな少しのきっかけで開けてしまったのだと、瞬時に思い出した。同時に、心臓がどくりと不自然に脈打った。あれは、誰にも言う必要のないことだ。私自身、思い出したくもない。ざわりと背中の毛が逆立つような気がした。
かちゃり、と小さく音がした。私からはソファの背もたれに隠れて見えない、廊下からだ。私は起き上がるのをやめて、わずかな時間の間で考えた。
このことを追及されるわけにはいかない。必要のないことだからだ。だが、それにしては、あまりにも私は動揺しすぎた。醜態をさらしたと言ってもいい。これはあきらかな失敗だった。リゾットとホルマジオは、私がなんでもないと突っぱねても、まず諦めないだろう。なにせリゾット。そしてホルマジオ。いやいやこれは仕事への信用だよ。このふたりの手にかかったらなんでもコロッと吐いちゃう。私も吐いちゃう。でも吐いちゃダメ。
じゃ、どうするか。今でしょ!じゃなくて。
「(これしかねーな……)」
私はのっそりと起き上がった。私が理性を失って♂しまったあのあとも、私は泣いたのだろうか。もしそうだとしたら、この額の鈍痛にも納得がいく。泣きすぎだよ私。
ぎしりと床が軋んだ。
「お、ポルポ、起きたのかよ。その毛布、寝心地良かっただろ?」
「よく眠れたか?」
あれ、なんか普通じゃね?私はきょとんと眼を瞬かせた。
ふたりの様子はあまりにも普段と変わりがなかった。私が話の途中で寝落ちして、仕方ないからそのまま寝かせておいた、そんな感じだ。
「うん、なんか、寝ちゃってごめん」
私はちょっと安心して、目元を緩めた。もしかして、いつもの上司の奇行だと流してくれるのかな。
そんなわけないだろ。やっぱりこの時の私は寝起きで頭が働いていなかったのだとしか思えない。安心するなんてあたまおかしい。
「俺たちよォ、オメーに聞きてえことがあんだがよー」
「……は?」
完全に油断していた私のこの反応は本物だった。だからこそ、このあとの稚拙なつくろいに、ふたりが騙され――あるいは見逃してくれたのかもしれない。
リゾットが、眠る前と同じように、私の隣に膝をついた。自慢のズボンが汚れちゃうよと、あの時は考えられなかった無駄なことを思う。
「ポルポ」
「う、うん?」
リゾットとホルマジオのどちらに視線を合わせたらいいのか混乱していると、リゾットが静かに私を呼んだ。返事をして、あ、私、戻ったな、と表情の裏で安心した。名前と自分を結び付けられなくなるなんて、まったくトラウマというやつは厄介だ。
「眠る前、何があったか覚えているか?」
「……ホルマジオと話してただけじゃないの?」
必殺、知らんぷり。嘘つくのへたくそだろとか、ギャングなのに表情が隠せてないとか、ぼろくそ言われてる私の全力だ。視線の彷徨いを隠した程度で、鋭すぎるリゾットを欺けるかといえばそうではないだろうけど、私は笑顔の形でそっと目を閉じた。
騙している、という罪悪感がないわけじゃあ、ない。でも、これは、本当に話す必要のないことだ。それを説明することもできない私には、この方法を選ぶしかない。
ごめんね。
伝えられない謝罪を、違う言葉にこめた。
「リゾットも、ホルマジオも、……途中で寝ちゃってごめんね。何の話をしてたんだったかな?」
リゾットがホルマジオを見て、私もホルマジオを見た。その手が音もなく、――あえていうなら、私の恐怖と合わせて、ぬるり、と表現したい――私の脚の方にわずかに動いたのを見て、一瞬息が詰まった。
ばれないように、ごくりと唾を飲む。呼吸を整えて、何事もなかったかのように。
「ちょっと、トイレ借りるわ」
手は震えていなかっただろうか。たぶん平気。今この時をやりすごしただけで、私の豆腐メンタルがりがり削れた。でもいわゆるSAN値/Zero状態だったさっきと比べるとずっとましだ。
することもないけどトイレに入って、とりあえずトイレットペーパーを三角に折って、水を流して廊下に出た。手を洗って、ビビりながらリビングに戻る。ソファの肘掛けで腰を休めていたホルマジオと、まるで最初からそこにいたかのようにテーブルについていたリゾットが、いつも通りの表情で私を迎えた。
「(の、……乗り切ったあぁあああ)」
私内心でガッツポーズ。今度こそ安心して飲み物を注ぎにキッチンに向かった私は、私がトイレに立った時から、唇の動きだけでふたりが会話をしていたことには、もちろんまったく気づいていなかったのである。
あえて言おう。
短慮であると。