33 バレンタイィィィン


2月14日。むせかえるようなチョコレートの香りが、食べてもいないのに満腹中枢を刺激し食欲を減退させるあの日だ。
私は自分用に購入したチョコレートを口の中で溶かしながら、のんびり暗チの帰宅を待った。

日本で生きていた時も、イタリアで生きている今も、私には縁のないイベントだと思っていた。けれど事情は変わるのだ。なにせ、今の私には人生を共にするらしい部下がいるのだから。
らしい、というのは、数年前に宣言したはいいけど未だお互いの人生を背負いこむような出来事が起こっていないからつけているだけの助動詞だ。お給金を払うのも、提起された問題を解決するのも上司として当然のことだもんねえ。人に人生を預け、人の人生を貰い受けるとはなんぞや。私はもう一個チョコレートを摘まんで唇に当てた。体温で溶けていくぞー。
ガチャリと鍵が開けられて、扉の隙間から一気に冷気が入り込む。
「うう寒ィ、リーダー、暖房つけていいかぁ?」
「好きにしろ。……」
「ギアッチョ、一般人に見えねえからってスタンド着用すんのやめろよ一緒に歩いてて恥ずかしいだろ」
足元を見たり、扉の外を見たりしているホルマジオとイルーゾォには気づかれていないけど、リゾットと完璧に目が合った。チョコを食べながら振り返ったので、おかえりも言えない。チョコを噛むのは主義に反するんだ。
「うおっ、ポルポ何やってんだよ!?」
「え、ポルポ来てんの!?鍵閉まってたよな?」
驚いたイルーゾォの後ろからメローネが顔を出した。手を振ると、ばたばたと駆け寄ってくる。寒かったー、と言って私にぴったりくっついて私の背筋を寒さでぞわぞわさせてくれたが、待って、そのコートの下に着てるのっていつもの服だよね。お前それだから寒いんだよ。前開けて歩くな目立つから。
「オメーなにやってんだ、暖房もつけねーでよお」
「逆にこっちが聞きたいんだけど、みんなしてどこ行ってたの?9人揃ってお散歩?」
「アホかッ!仲良しこよしで歩いてたらおかしいだろーがッ!」
私は微笑ましいと思うよ。まあ私も知らない成人男性がぞろぞろ並んで街を歩いていたら二度見するけど。二度見して、えっ9人?て数え直して、イケメンだから仕方ないなって菩薩の笑みを浮かべる。
暖房のスイッチが入れられた。もう少し場が落ち着いてから渡したかったけど、溶けちゃったら元も子もない。私は6個入りのチョコ(すでに4つ食し済み)の箱をそのままに、テーブルに手をついてよっこらしょと立ち上がった。
それぞれ上着を脱いだりマフラーを取ったりして、コート掛けにかけていく。このコート掛けは冬が深まって、全員が耐えきれなくなった頃にリビングに設置される臨時のコート掛けちゃんだ。普段は、客間の物置になっているクローゼットの中でじっと黙って待っているけど、冬の真ん中らへんになるとこうしてお仕事をしてくれるいい子なのだ。たまにギアッチョがぶち切れてガンガン蹴ってるけど耐えてるし。折れたりしないのスゴイと思う。
隣の椅子に置いておいた紙袋を、自分の座っていた椅子に移動させて手を突っ込む。青いやつと黄色いやつ。
「はい、ペッシとプロシュート。これおねえさんからの贈り物ね」
「えっ、俺にもあるの!やったあ、ポルポありがとう!」
「テメーの方が年下だって何度言ったらわかるんだ?」
「要らない?」
「貰うに決まってんだろ。グラッツェ」
きれいなグラッツェをありがとうございます。むしろ私が得をした。プロシュートの、ちょっと口の端を持ち上げた笑みいただきました。
素直に喜んでくれたペッシを撫でて、また紙袋に手を突っ込む。今度は白いのと茶色いのだった。
「これリゾットに。こっちはホルマジオ」
「ありがとう」
「お、あんがとな。なんだ?これ」
包装紙に包まれた小箱を軽く耳元で振ったホルマジオは、私が口を開く前に正解に到達した。チョコか。そうだよ。なんでわかったんだろう。重さと音でわかるものだろうか。それとも動物並みの嗅覚を持っているのか。
ソルベとジェラートにはお揃いのピンク。グラッツェー!と両側から抱きしめられた。
「可愛いけどよお、俺らピンクってカンジか?」
「あ、それは私がイチゴが好きだから」
「ポルポの趣味か!」
「正直だな!」
と笑っているジェラートのマフラーはピンクだし、ソファに腰かけたソルベのズボンの裾から見えている靴下もピンクだ。色合わせてるのかな。相変わらず仲が良いようでなにより。大丈夫、私ペアルックには寛容だよ。
ギアッチョに水色、イルーゾォに黒を渡す。お前、髪の色で選んだだろ。なぜかバレた。
わくわくしながら私を見て、待てを言いつけられたわんこのようにじっとしていたメローネに黄色のつつみを渡すと、大きく万歳をしたその姿勢のまま抱き着かれた。今首が締まった。苦しいです。むき出しの肩をタップすると、ぱっと離れて、それからにっこり笑ったメローネが私に顔を近づけた。どんな流れだろうとさせねえよ。手のひらガード。
「ポルポは頑なだなあ」
「うひゃひゃ、くすぐったいからそのまま喋んないで。貞操観念がしっかりしていると言ってほしいわ」
「それがあと何年持つかだな」
「痛いところを突かないでプロシュート!!私だってもうギリギリでアウトなことは自覚してるから!」
恋多きイタリアにおいてこの体たらく。どんだけモテないんだ。つらい。
メローネから離れて椅子に戻り、自分のチョコレートをつまむ。暖かくなってきた部屋のせいで、ちょっと溶けてきていた。それでものんびり噛まずに口の中で楽しんでいると、ぺりぺりと包装紙を?ぐ音が周りからきこえてきた。ペッシ、イルーゾォ、ホルマジオは包装紙を取り、中身を見て警戒もせず口に入れている。
「毒とか仕込まれてないか確認しないでいいの?」
あんまり無造作に食べるものだから、逆に私がドキドキした。ペッシは心の底からその危険を考えていなかったようで目を丸くして、プロシュートにマンモーニが、と優しい声で罵られて(もうやだこのふたり)いたが、イルーゾォとホルマジオはからからと声を立てて笑った。
「どんな毒入れたんだ?オメーに恋する毒か?」
「おいマジオ笑ってんじゃねえよ!ロマンチックなこと言ったつもりか!そんな毒があったらとっととリゾットに仕込んでるよ!」
「ぶはっ、やめろ笑かすなよなァ!なんでリーダーなんだよ!」
ホルマジオは腹を抱えて笑い出した。草生えまくり。なんでって言われても勢いで言っちゃったんだよ。でもそれはそれで恥ずかしかったので私は冷静に言った。
「この中じゃリゾットが一番まともだからね」
「コートの下はアレなのに?」
「服装のことはやめたげてよお!」
そんなこと言ったらお前もそうだろメローネ。なんでその恰好でこの寒波に耐えられるんだろう。基礎体温の違い?私は斜め向かいに座っているメローネに手を伸ばした。メローネも手を伸ばして、テーブルの上で手をつなぐ。
「普通だよな……」
「なにが?もっと指絡めようか?」
「つなぎ方じゃなくて。いや絡めなくていいです。体温のことよ。そんな恰好でやってられるってことは身体あったかいのかなって思ったんだけど、私と同じか……ちょっとあったかいくらいじゃん。なんで平気なの?」
薄着軍団を順々に見ると、お互いに顔を見合わせて首をかしげた。可愛い仕草すぎる。もうなんでもどうでもいいや!って気分にさせられるわ。私はメローネから手を離してチョコレートをつまんだ。口を開けて迎え入れる。うまし糧。
「筋肉の違いじゃね?」
「ギアッチョはスタンド着てたから対象外だけどよ」
ホワイトアルバムを着るってかなりずるいよね。あの中はぬくぬくなんでしょ?コート要らず。
ん?ということは、スタンドを使えない一般人からすると、ギアッチョはこの寒さの中あの薄着でコートも着ないで歩いていた変人に見えたということか。怒るだろうからこのことは言わないでおこう。たぶん、ソルベとジェラートは気づいてるけど言わないだけだ。
「筋肉ねえ……。……まあ、みんな鍛えてるもんね」
甘いものにはカッフェだよ、と言ってカップに飲み物をそそいで全員に配ってくれたペッシにお礼を言う。気配りができる子だ。なんていい子なんだろう。私のカッフェがラッテになっていることにも感動で涙が出そうだ。覚えていてくれたの?もちろんだよ、ポルポの好みを忘れるはずないさ。イ、イケメーン!!
容姿はオトボケ気味だけど、その心、確かにプロシュートの男気が伝えられているよ。私はペッシに抱き着いた。慌てたあと、おずおずと抱きしめ返してくれた。イタリア人なのになんでこんな初心なんでしょうね。そこが可愛いんだけど。

席に戻って、チョコを食べよう、と箱を見て愕然とした。な、ない。6個あったのに。
かなり衝撃を受けたが、まさか20歳を超えて、チョコレートの残数を数え間違えて失意に暮れたことがばれてはいけないと思い、私は動揺する心臓をなだめつつそっと箱のふたを閉めた。危ない危ない、思わずうわあああって言うところだった。家なら言ってた。
「あれ、プロシュートとメローネは開けないの?」
まったく包装紙に手を付ける気配のない金髪ふたりに訊ねた。甘いものがそれほど好きではないプロシュートならともかく、メローネはすぐに開けるかと思ったのに。
「あ?……あァ、部屋でじっくり楽しむぜ」
「そっすか。カカオ多めのやつ選んだから、あんまり甘くないと思う」
仕事への心がけとして、ある程度の期間禁煙することにしているプロシュートは、口寂しいのか頻繁にカップを口に運ぶ。それならいっそものを食べればいいのに、と思うのは甘いものが好きな私だからだろうか。
メローネは、と顔を向けると、なんともいじらしい表情を浮かべていた。箱を両手で持ち上げて、だってさ、とそれを眺める。
「包みは綺麗に剥がして取っておきたいし、箱も残しておきたい。でも、中身は食べたら終わっちゃうだろ?」
え、ええええ何この子、かわいいいい!!私の小動物に反応する心の部分がきゅんとうずいた。困ったように下がった眉と、ほんのすこし突き出された唇。まじで成人してるの?男なの?そんな疑問を天元突破する萌えがそこにあった。年齢性別:メローネで何の問題もない!
私は思わず立ち上がって、リゾットの後ろを通ってメローネに後ろから抱きついた。わ、と驚いたような声も可愛い。かわいい。変態じゃないメローネ、とても可憐。
「かわいいよメローネ!すごくかわいかった!今のとってもよかった!私、今のでもっとメローネのこと好きになった!!」
「えっ、本当に?なんだろ、どれが良かったのかもっと詳しく教えてよ」
「う、ううう、ダメだ。それはダメ。量産型じゃないからこそいいんだよ」
量産型ザクよりシャア専用ザクのほうがインパクトあるもん。赤いとかそういうことじゃなくて。
私は一通りメローネをぐりぐり可愛がってから身体を起こした。ふう、一仕事終えた気分。お前騙されてるよ。イルーゾォがぼそりと言ったけど、それは間違えてる。いい、落ち着いて考えよう、あんな可愛いんだよ。騙されていたっていいだろ。そう、騙されてたっていいんだよ!さっきのメローネに「バイクで事故しちゃって……俺どうしたらいいかわかんないよ……」って言われたらなんだって振り込むよ!
「あ、これすげえ、バナナの味する。ポルポ食った?」
「私、数年前からバナナ断ちしてるから」
「なんだそれ?」
バナナは鬼門。
詳しく話すと私の過剰な懸念が露呈してしまうのでお口にチャック。そういえばブチャラティはリアルにお口にチャックすることができるんだよな。気をつけよう。でも何に気をつけたらいいんだ。
熱いラッテを吹き冷ましていると、プロシュートに笑われた。そんなに熱いか?
「うーん、そろそろいけるかな。……あッ!ダメだった!猫舌なんだよ私」
音を立ててすすってはいけない制限のある欧州、かなりきつい。私はお味噌汁も緑茶も音を立ててすするタイプだったからね。もう慣れたけどさ。熱いものを口にする時はすする方が楽だからうっかりそうしないように気をつけている。その結果火傷することが多い。
「ギアッチョに冷ましてもらうか?」
「ん?いや、それはさすがにいいよ。そこまでしてもらわなくてもそのうち冷めるし」
そうか、と頷いてリゾットの視線は自分のカッフェに戻った。今のリゾットジョークだったのかな。高度すぎてわからん。

カップを置いて、はー、とちょっぴり身体を伸ばした。ずっと座っていたから強張っている気がする。
くああ、とあくびが出た。両手でおさえて、はふ、息をつく。部屋があたたかくなってきたし、糖分を摂ったし、当然のように眠気が襲ってきた。冬のこたつを思い出す。あれは魔性だ。こたつに入っている暗チ、想像するだけで胸が温まりますな。4つしかない面を争って若者たちが戦い、最終的にプロシュートとペッシ、ソルベとジェラートが1つの面にそれぞれ並んでぬくぬくしているところを見るまでがひとネタ。
肘をついた片手で目元を覆いながらチョコレートの箱に手を伸ばして、そう言えば食べきったんだった、と、蓋に当たった指を戻した。両手で顔の上半分をおさえて肘を浮かせる。ひゃあうまい。間違えた。ひゃあ眠い。
「ポルポ、そのままこっち向いておくれよ」
「うん?」
右から呼ばれて、ペッシの方に顔を向ける。そのまま、と言われたので目元を隠したまま。
ふに、と唇に何か当たって、押し込まれたので口を開ける。ころりとひと粒のチョコレートが舌に落ち、じんわりと痺れるような甘さを伝えた。
「え!これペッシのじゃないの!?いいの?」
「うん。すごくおいしいから、お礼に」
「わあ、嬉しい!ありがとね、ペッシ!君は恋人が出来たら、いい彼氏になるんだろうなあ」
変な方向から褒めると、ペッシは照れ照れと頬を掻いた。
「ペッシに恋人……」
口元を手で隠して呟いたプロシュートはスルー。ショックを受けたの?あんたはペッシの母親かなんかなのか?
ペッシの心遣いが嬉しくて、チョコレートがよりおいしく感じるね。メルヘンなことを言いながらゆっくりチョコを溶かして、そう時間もかけずに口の中を空にする。カップを取り上げてそろそろさめたかなと様子を見ようとしたら、近づいてきたホルマジオにとんとん、と肩を叩かれた。
「どした、もがっ」
「俺とイルーゾォからの礼だぜー、味わって食えよォ」
用事を訊ねるために開けた口にチョコをふたつぶっこまれた。なに、この私に自分のチョコを一個分け与える流れ。いいよ、ソルベもジェラートも待機しなくていいよ!ギアッチョ、別に分けてほしいわけじゃないから顔しかめないで!
もごもごしながら身振りでそう示したつもりだったんだけど、にやにやと笑みを浮かべたソルジェラはおもむろにソファから立ち上がった。いい。むしろやめて。なんか笑顔が怖い。鼻の穴にでも詰めてくんじゃねえだろうな。
警戒しながらきつく口を閉ざしてチョコを飲みこむ。口さえ開けなきゃ私の勝ちだって気づけてよかった。ぜってー開けねえ。
じり、と椅子の上で後ずさった私に、ソルベが首をかしげる。
「あれあれ?ポルポってばさ、何警戒してんだよ?」
「まあ冷静になれよ、俺たちがポルポの損になることしたことあっか?」
「(得になることもそんなにしてくれてないんじゃ……)」
と、言うこともできずじっとふたりを見つめていると、ジェラートがふと真剣な顔になった。
「俺たちの生まれた地方では、自分の食べ物を分け与えることが親愛のしるしなんだぜ」
「え、そういう風習ってマジであ、うおぁッ」
「ぎゃははは、残念ひっかかったー!よく考えろよ、ポルポ、俺たちの資料読んだだろ?俺とジェラートは生まれも育ちも違えよ!」
なに今の騙し方。口にふた粒つっこまれた私は、愕然としてふたりを見上げた。なに今の。私の良心に訴えかけるやりかた、新しい。日々変化するふたりの手腕に戦慄した。
「あ、でもこれおいしい。ありがとね。なんだろ、キャラメルとヘーゼルナッツ?」
「そうそう。俺らの同じ内容だっただろ。だから半分こしてたら結局余るし」
半分こ、って普通に中身を交換するだけの話じゃないですよね。だって今、ソルベが半分かじった半月型のチョコレートをジェラートが食べましたもんね。ギアッチョと私は遠い目でソルベとジェラートを見た。永遠についていけない気がする。
「あー、私も仕返し、じゃなかった、お返しに何かしたいけど、食べきっちゃったからなあ。失敗したかも」
箱の中身はからっぽだ。もし未開封だったとしても、内容量は6個なので結局足りないのだけど。
私はラッテで口の中の甘味をリセットした。砂糖を入れていないラッテだから、ちょうどいい塩梅で落ち着く。
「んで、よォ。なんで今日急にチョコレートなんか配ったんだよ?どっか出張、……つっても行くわけねーよな」
「うん?あ、ジャッポーネ流のバレンタインデーだよ。ジャッポーネでは、好きな人とか、お世話になってる人にチョコレートを贈るからね」
「なんで日本流なのかはわかんねえけど、お前の脳みそにも一応バレンタインデーの存在はあったんだな」
え、いま失礼なこと言われた?
瞬きをしてイルーゾォを見ると、違う違う、と首を振られた。
「お前と一緒になって数年経ったけどさあ」
「なんかそのセリフ、新婚の夫婦みたいだからもうちょっと雰囲気出して」
「ブァッカじゃねえの!?どんな発想なんだよ!ちょっとそれっぽいなって思っちまった自分が嫌だよ!!」
「やっぱりさっきから失礼じゃない!?」
ちょっと赤くなった顔を逸らすイルーゾォ、落ち着いて見るとかわいい。
肘で小突かれたホルマジオが、イルーゾォの言葉を引き継いだ。
「俺らさー、オメーがバレンタインデーっつー行事を知らねえんじゃねーかと思ってたんだよなあ」
「……え?このイタリアに住んでいて?」
「オメー恋人いねーし、14日なんかすんのか、って聞いたら、『誰かの誕生日だっけ?』ってボケてやがるからよー」
そう言えば、その時は忙しくてバレンタインを祝うという発想がなかったような。しかし、それだけで世界的行事を知らないって思うのか?私が浮かべた疑問を読み取って、今度はリゾットが口を開いた。
「恋人もなく、道半ばでこちらの世界に入ったお前には、そもそも行事という概念が抜けているのではないか、と」
「ちょ……」
「誰ともなく言い始めて、お前も何も言ってこなかったから、本当にそうなのかと思っていた」
「え、えええ……」
どんだけ可哀そうな子なんだよ私。泰然としているリゾットの口から「恋人もなく」って言われると、鋭利な刃物で心を刺されたような気もするし。この年になっても経験がないことってそんなに罪かな……。
「ポルポってナターレもそんな騒がないし」
「俺らでさえベファーナを知ってんのに、『なんだっけ聞いたことある、食品メーカー?』と来たもんだから、こいつまともな生活してきてねーんだなって同情したわ」
「だ、だって……ナターレの間は仕事が多くてみんなにも会えなくて寂しいだけだし、ベファーナ、うちに来ないし!?忘れるよそりゃ!」
その季節忙しいんだよ。
私だってナターレはのんびり家族で過ごしたいけど何か知らんうちにひとりになってるし、ビアンカと蜜月過ごすわけにもいかないし、じゃあ暗チって思っても仕事の依頼が多くててんてこまいだろうし、みんなもナターレゆっくり過ごせてないから気を遣わせるのも悪いしなあと思ってこの数年は仕事で潰してたけど、まさかそれがこんな誤解を生んでいるとは思いもよらなかった。
「オメーなら、6日にオメーがベファーナの格好して現れんじゃねーかって最初の方はこいつら物音に敏感だったぜ」
「あんたもだろギアッチョ」
「うるせえ俺は来ない方に賭けてたんだよ!」
賭けになるほど注目されていたのですか。成人女性のベファーナ姿がそんなに見たいか。でもありがとう。待っててくれたのに来なくて申し訳ない。
「ごめん……。みんなはみんなでゆっくり過ごしたいかと思ってた……」
「気にする必要はない。逆に、お前が行事を知っていて安心した」
リゾット、すごくいい人だ。慰められて浮上しかけた気持ちが、ソルベの声で叩き落された。
「リゾットは来る方に賭けてたけどな」
「う、うわあああああああすみませんでしたああああああああ!」
なにがキツイってみんなの期待を裏切ったこともキツイけどリゾットの予想を裏切ったことがキツイ。ごめん、すごいごめん。
ホルマジオが私の肩を叩いた。机に突っ伏していた顔をそろそろと上げて、たぶん情けないことになっているだろう表情で見上げる。ホルマジオはからっと笑った。
「ンな気に病むなって。今年からやりゃーいいだろ?」
そうそう、とイルーゾォが頷く。チョコの箱は空になったようだった。
「本当ンところ、どうなんだよポルポ?お前、どんぐらい行事知ってんだ?」
「ど、……どんぐらい、って?」
イルーゾォは手のひらを広げた。ひとつひとつ指を折っていく。
「新年の日はさすがに知ってんだろうけど、謝肉祭とその最終日は?Festa della donna、女性の日は?父の日は?イースターは?解放記念日は?母の日だろ、流れ星に願いをかける日とか……」
私、沈黙。目標完全に沈黙しました。さすがに知ってるわ、と思ったけど、よく考えたら近年どれも祝ってない。
可哀そうなものを見るような視線が9対私に突き刺さった。慌てて否定する。知らないわけじゃないんだよ。
「た、ただ、全然やってなかったから自分にびっくりしただけで……」
「仕事と結婚する気か?」
「うっ、ぜ、絶対やだ、それってある意味ボスと結婚してることになるじゃん、絶対やだ」
プロシュート、嫌なことを想像させないでほしい。
隣で呆れていたホルマジオが、しゃーねーなこいつは、と腕を組んだ。
「今年からゆっくりやってくか。こいつに覚えさせねーといけねーなあ」
「う、うん?」
「安心しろよ、俺らが生きてる限り毎年付き合ってやっからよォ」
そう言ってホルマジオは笑って、混乱しながら、釣られて私も笑った。

そしてその口約束は、未だにずっと続いている。