間違ってるよ

八人、時おり九人、私を含めて十人が出入りするアパートメントに、パンの詰まった袋を持って向かう。冷めて、うまみがギュッと凝縮された硬いパンだ。長いパン切り包丁で切れ込みを入れて、押しては引く心地よい感触を大切にしながら潰さないよう切り分けていくのがとてもイイ。食べる時にはまずひと口、何もつけずに齧らせていただく。酵母の匂いが落ち着くのよね。次はバターを塗ってパクパク。ジャムでむしゃむしゃ。あーん止まらない!パンの表面の硬い部分が口の中に刺さっても止まらない。私はアレで何回も歯茎をずたずたにされてるんだけど、戦場で傷を負ったことのない無敗の戦士もパン食派だったらアレには負けて血を流していると思う。
アパートには何のジャムがあったかなーと脳内で冷蔵庫を開けながら歩いていると、ここからが敷地内、と定められる見えない線を越えないうちに、見知らぬ男が建物の前をうろついていることに気がついた。誰だ。笑うタイプのセールスマンでも宅配業者の新人でもなさそうだから、好意的に見ると、ここに住まう男たちに恋をしてラブレターを渡しにやって来るも事情があってできないでいる恋の奴隷か?部屋番号がわからないのか勇気が出ないのか。
その程度なら私にも手助けができそうだが、おっ?と私が立ち止まった直後、慌てたように背後で"誰か"も立ち止まった気配と音を感じて困ってしまう。
再び好意的に見ると、前後の二人は私に一目惚れして告白する為に追いかけて来たのかもしれない。人間のモテ期は一生に三回あると聞くしね。しかしここでそのうちのワンチャンスを使っちゃうのは勿体ないよな。
背中に何か、棒の先のようなものを押しつけられる。
「金髪の男の所へ案内しろ」
様々な邪推が脳裏を過った。機嫌を損なわせると大変なことになりそうだから言わなかったけど、NTR案件じゃあないだろうな。どっちの金髪も無粋な真似は、う、うん、しない、しないし。罪深きイケメンの甘い蜜が波乱を巻き起こすことはあっても、片方は自分から面倒を起こさなくても女には困らず、もう片方は、うん、大丈夫大丈夫。根拠はないけどメローネなら大丈夫。あっ個人名出しちゃったよ。
「どのようなご用件で?」
「黙って案内すればいい。貴様がヤツと親しくしている姿は確認済みだ。しらばっくれても無駄だぞ」
「じゃあどの金髪よ?」
「顔面の整った男だ。最近、スロットで大勝した……」
わ、わかんねー!!誰よ!スロットで大勝した顔面の整った金髪誰よ!プロシュートは幸運値振り切れてそうだしメローネは絶対にスロットの乱数を読むからわかんねーわ。
背後の男の合図を受けたか、前方の男もこちらへ近寄ってくる。
私は右手首の腕時計に目をやった。
どう言おうか迷い口ごもった。
「ねえ、お兄さん間違ってるわよ」
「正論を言い聞かせるつもりなら、甘い考えだ」
「そうでなくて、……あ、そろそろ時間が……」
「何?いいから早く……アアーッ!」
こっちの背中をどついた男が引きつった声を上げる。うん、そういう系の悲鳴はやめようね。
崩れ落ちた身体を避けて足を上げる。前方の男も、武器を取り出す前に何かをぶつけられて頭から地面にぶっ倒れた。
振り返ると、手ぶらのメローネが間近で眉根を寄せていた。
「物騒なモン持ってんなー」
"物騒なモン"が動かないように押さえる手をゆっくりと下ろす。
「怪我はないかい?やっぱりあんたから離れると良くねえや。なあ、何の用だって?強引な求愛じゃあないだろ?もしそうだったら武装した二人がかりで前と後ろから無理やりなんて不埒な想いがムンムンに出てるぜ」
「はいはいはい」
あんたかプロシュートからお金を奪いたかったらしいよと説明する。スロットで稼いだのってどっち?訊くとメローネがへらへら笑った。俺俺ー。まあそんな気はしてたわ。
メローネは私の顔を見て無邪気に笑った。
何も持たない両手を顔の高さに上げて、謝罪の意を表明される。許すよヒヤシンス。
「もしかして頼まれた調味料投げたの?」
「だってそれしかなかったんだもん」
うっ、かわいい。
「プロシュートに怒られちゃうね」
「そうしなけりゃ見つかった俺がポルポを人質に取られて抵抗できずに犯されたかもしれない、って知ったら納得してくれるさ」
「大変なことだもんね」
「ああ。だって俺、処女なんだぜ。こんなやつらに襲われたら怖くて泣いちゃうよ」
「え!?」
「あはははは!嘘だよ嘘」
激しく食いつきすぎてメローネの手を握りしめてしまった。美青年の手は不可侵なのにごめんよ。どこが嘘なのかもうちょっと説明してもらえるとありがたい。
拾い上げた袋の中は、嵐に揉まれたようにぐちゃぐちゃだった。これを渡したらあのIKEMENはプチッとキレるんだろうな。なぜか私も怒られるんだよ。"突然の強盗"って頭の中で久々にAAを描いて遊べたのは嬉しかったが代償がデカい。
「ま、いいよな」
「どうしようもないしね」

開き直って袋を差し出すと"マンモーニでもこうはならねえ"となじられ、罰として購入してきた調味料の詰め替え作業を言いつけられてしまった。
袋を開けて瓶の中にざらざらと胡椒を入れる。隣でメローネが「……ま、いいよな?」と自問自答した。入れる箱を間違えたとラベルを見せられる。それ良くないんじゃね?
「塩と砂糖なんて間違えるほうがおかしいって。見た目が全然違うだろ?」
わかんなかったら舐めりゃあいいし、と言う。
確かに、わかんなかったら確かめるよね。どうせこの部屋でキッチンに立つのは料理上手さんたちだけだ。


間違ってもいい

バレンタインデー。
イッタリアンな国ではやり方が違っても、私の魂は日本色に染まりきっていくら洗っても色落ちしない。生まれ直してから26年も経って未だに日本から抜け出せてないのかと思われても気にならない。私以外に私のことを本当に知る人はいないのだから(哲学っぽいわ)外聞も何も関係ないし、知られていたって、そんなのは私の自由だ。私は日本式のバレンタイン商戦を永遠にだいしゅきホールドし続けるだろう。
恵方を向いて太巻きを無言で食べ終わると、街角にはどこからともなく甘い匂いが漂い始め、やがてうんざりするほど立ち込める。いつしかデパートの催事場に世界中のチョコレートが集結するようになり、苦手な人にとっては拷問に等しい期間が訪れる。
技を凝らして鎬を削る各国のブランドが一つの目的を持って一堂に会する。まるで戦隊モノのオールスターバトルみたいで色んな闘魂が燃える展開だ。
戦隊モノで言えば、私はゴディバは高貴な眼鏡キャラって顔で大人しくしながらもその実内面の気位が高くて自分を高める為に修行を怠ることなく努力し続ける王様系イケメン、カッコ敵指令塔の優秀すぎる副官をつとめるも主人公たちの理念と暑苦しいほどの正義を見続けるうちに己の在り方に疑問を抱き敵陣営を内部崩壊させる存在カッコトジだと思いながら公式サイトを眺めているんだけどさ、前世の私はちょこっとだけサブカルに接するだけの普通の人だったのに、マジでどこで何がどうなってこうなったんだろうね。人間は日々進化するとはいえ、この進化は必要か?萌エボリューションで他人に迷惑をかけることだけは避けたい。正確に言うとこれ以上は避けたい。
さて、チョコレートフェアは眺めるだけで楽しかった。ていうかいつ眺めても楽しいよねえ。
小粒のトリュフチョコレートがショーケースの中で清楚に列を作って、誰かに購入される瞬間を待つ様はいじらしい。かつては意外性で大流行りしたソルトチョコは今や一般的となり、それを使うのかいこいつぁ驚きだ、と目を丸くするフレーバーが続々と開発されていたりする。留まりを知らないスイーツ業界において、そそられたものを食べまくってもあまり太らない体質は私の人生に確かな彩りを与えてくれていた。アッ、でも健康診断は受けてないからその辺は軽く心配かもしれない。血糖値とか血圧とかの"血"系だったらリゾットちゃんに検査を頼めそうだから訊いてみるとしよう。
ごめんすっげえテキトーぶっこいた。常識的に考えて無理だね。
こう、アレだ。困った時のメローネ頼りよ。我々が向ける彼への謎の信頼は大きい。新生パッショーネと提携するスタンド使いのドクターもいる。つらい数値を懸念してしまったのでそのうち行こう。だがそれはバレンタインデーが終わってからだ。わかってくれ、私の身体よ。心が喰らいたがってるんだ。
しかし"端から端までお願いします"と注文するのは情緒がない。浪漫だが違う。この場合は"選ぶ"過程が大切なのだ。
たっぷり悩んでからみんな用と自分用に買って、紙袋に入れてもらう。お店の人には申し訳ないけど、オシャレで頑丈で小型で使い勝手がいいので、素での手渡しにも関わらず紙袋は人数分いただいてしまった。
どうでも良くないけど、買ったチョコセットの内容は喧嘩を誘発できるように全員違う。"俺それ食べたい!"、"俺のに手ェ出すんじゃねえ!"というほのぼのしたわちゃわちゃが見たいんだ。欲望のままにプランを練って想像を巡らせる時の快楽はどうしてこんなに強烈なのか。ああ胸がぴょんぴょん疼く。
真紅の薔薇を買ってメッセージカードを添えようかとも思ったんだけど、気の利いた口説き文句が思いつかなかったので止めた。生粋のイタリア人(だよな)が相手じゃあ、どんなに知恵と経験を搾っても三流にしかなれない。何て言うのが正解なんだろ。チョコに引っ掛けるべきよね。あなたの愛のホワイトチョコをフォンデュしたい、とか、いや、これは下ネタっぽいな。マジでセンスなくてビビった。じゃあこっちはどうだ。どんなに甘いチョコレートもキミへの愛には敵わないよ。そしてハートマークを描く。もちろんピンク色のインクだ。しまった、この日の為に特別なインクを調合してもらっておくべきだったわ。
無駄なことを考えながら階段を上り、鍵が開きっ放しの部屋に入る。お邪魔しまーす。奥から聞こえたお迎えの言葉には統一性がなく、オウとか鍵よろとか今日の土産ナニ?とかの重唱は完璧には聞き取れなかった。わかんなかったけど、たぶんポルポさん大好きって言ったんでしょうね。鍵を閉めて自分を慰めた。
屋内には風が舞いている。うっすら、まとわりつくような香ばしさ(そっちじゃなくて)が鼻先をくすぐった。
「どしたの?お菓子作り?」
誰も座ってない椅子に紙袋を置き、上着を脱ぐ。
OFFモードの男たちの中でも、白シャツの袖を肘まで捲ってエプロンをつけるプロシュートはとても目立つ。毎日変わらない格好良さと余裕な態度が圧倒的な存在感を放ち、自信がなければ決してできない素肌アピールで上のボタンは二つ開く。バルの店員に見えなくもないが、こんな店員さんがいたら男女問わず涎で顔をべちゃべちゃにしながら店に雪崩れ込むに300ユーロ。
ホルマジオとイルーゾォ、ギアッチョもエプロンを装着したまま椅子に座って飲み物を飲む。三者三様、肘をついてぐったり顔だ。
「出来てっから食っていいぜ」
「味わえよ」
「俺らの苦労の結晶だからよォー」
目を閉じて、腕を組む。
なに?四人で仲良くお菓子作りを楽しんでたってこと?なにそれ現実?早くアバッキオを呼んで来ないと私の心の活火山が大変なことになってしまう。やばいやばい冷静にならなきゃ。
深呼吸の際に吸い込んだ甘い匂いから推理するに、作られたのはチョコレート菓子だ。
プロシュートは料理ができるから安心だ。ホルマジオは意外にマメで、手順に沿って行動できる。ギアッチョも、イライラしなければ真剣に集中して取り組む青年だ。
ちらりとイルーゾォに顔を向ける。ヤツもさっきから口を開かない。合った視線は逸らされた。疲労しきった他の三人にも再び目を遣って考える。
このタイミングで言いたかないけど、この中に一人、卵を爆発させる男がいるんですよね。
ご飯を炊かせれば炭を生み、肉を焼かせれば石を錬成するであろう、等価交換の法則を無視せしマッドシェフ。
「イルーゾォもやったの……かな?かな?」
「うるせえな。悪いかよ」
「味見の時は問題なかったが、心配ならジェラート来るまで待っとくか?」
「食っても死なねえよ!!」
食中毒で死にたくないからスタンドを使って欲しい、なんてお願いしたら彼は大笑いして窓から落ちちゃうんじゃないだろうか。
「一応、コイツのは俺たちの後に別枠で作らせてある」
プロシュートは不服そうに顔をしかめた。自分が監督していながら、最高の結果をもたらせたとは言えない状況が気に食わないのだろう。
しかし誰一人、張本人のイルーゾォですら、調理の腕で区別されたことに異議も疑問も不満も感じていないらしいのが和やかだ。
見つめると、顔を背けられた。
ぼそぼそと言われる。
「その、……一回、砂糖と塩を間違えちまったしさ。味見じゃあ問題ねえって言われても、プロシュートのケーキに比べりゃあただの柔らかい小麦粉の塊って感じで」
「俺のをテメーのと比べんな」
「うっ……、悪い」
電光石火で口を挟まれてて笑った。
「でもその、お前の中ではバレンタインって、チョコを贈って食う日なんだろ。貰ってばっかじゃあ男が廃るっつうか」
「花くれてるじゃん」
「食いモンには食いモンで返すべきっつうか」
「それで手作り?」
やっべえ、私最近は既製品しか渡してないぞ。おいしさと価値はイコールではない。
「こんなモンは初めて作って、上手くは行かなくても食えねえほどかって言われるとそうでもねえし。お、お前がもし要らねえなら自分で食えるし」
「なあ」
ギアッチョが、どうでも良さそうに低く言った。
「よーするに何なんだよ」
「頑張って作ったからポルポお姉さんに食べて欲しいって言ってるんだよねえ」
「言っ、て、ねえ!!」
「男がグダグダ焦らして面倒くせえな……」
「オメーはなんの為に作ったんだよ?」
アイツのこと校舎裏に呼んでおいたから告白しに行かなきゃだめ!と口々に応援して友人を待ち合わせ場所に向かわせる仲間のような後押しだ。微笑ましいけど鬼だよね。
追い詰められた男は、冷蔵庫のある方向を指さした。
「怖かったら、食わなくていい」
その台詞と表情知ってる。無言で近寄って相手を抱きしめたら"俺が……怖くないのか……?"って呟かれるやつだ。そうするのが正解である。だがしかし怖いから、私は口角を上げ、『無言で』の部分だけ採用した。これまであんたがこの世に誕生させた物は控えめに言って悉くダークマターじゃん。
「お前、そこは怖くねえって言うところだろ!?」
「うわびっくりした」
「いつものお前なら、"あーんしてくれたら食う"ーとかさあ!」
「めっちゃ食べて欲しいんじゃん。じゃあ、あーんしてくれたら食べるー」
「うるせえバカ!もう知らねえ!」
「イルーゾォのばかあー!」
「はあ!?なんでお前が俺を罵倒するんだよ!!」
「ごめん」
イルーゾォは大型のフワフワないきものが樹を生やしたり猫型ののりものが空を走るアニメが好きなので、これはもしかすると我が愚かなる妹よ貴様にはほとほと愛想が尽きた、の流れかなと思ったけど違った。そりゃあそうだ。冷静な部分ではわかってるんだ。
しゃーねーなーと言い、ホルマジオが立ち上がって冷蔵庫から箱を持って戻った。ようやく話が進みそうで、こっそり安心する。この状態のイルーゾォと私は永遠に同じ場所を回り続けるため、誰かに拾い上げてもらわないといけないのである。普段ストッパーになるツッコミ役がふてくされると大変だ。私に働く気がないのも問題だ。
「優しくしてね」
「黙って食え」
「ん」
苛立ちがきっかけで全てを吹っ切ったイルーゾォは、私の口に遠慮なくガナッシュケーキをぶち込んだ。つく。つくつく。ついちゃう。口の端にチョコがついてシャツにパウダーが落ちる。胸に落ちる。あとナニかがジャリッて言った。
そして、なぜかな。
「チョコの匂いはあんのに、味がしねェんだよなァ」
ホルマジオが代弁してくれた。
味見したけど問題ない、の『問題』って本当に単純な健康面だけの話か。確かにこれは柔らかい小麦粉の塊だわ。噛み締めてもグルテンの気配すら感じられないスポンジなんだけど、私は今、何を咀嚼しているのやら。
「うまくねえよな」
フォークを握り、視線をうろつかせ、唇をムズムズさせて苦い顔をするイルーゾォを観察する。
確かに味はわからない。このガナッシュケーキに味という概念は存在しない。
うん、でも。
「大丈夫。これはこれでおいしい」
この男が自主的に手ずから物を食べさせてくれることは、人生で何度あるだろう。
ほぼ全員が、発言の意味を正しく理解した。いつもならまともな感覚で敏感に察知したはずのイルーゾォだけが読み取り損ねていて、それもちょっと可愛い。

余談だが、作り手に許可を得てから、貰ったそれをリゾットにも食べてもらうと、私よりも料理に長けた彼はこう呟いた。
「……何かを間違えていることはわかるんだが、何を間違えているのかがわからないな」
ガチな困惑である。
「これはなんなんだ……」
あるはずのないハテナマークまで見えた気がした。
イルーゾォ、色んな意味であんたは凄い。