無理は無理

自分で自分の足首を掴んでみると、どうなるんだろう。
意識して自分の足首を握りしめるなんてことは滅多にしないし、私自身が超絶にビミョーなトラウマなんてものを抱いてしまっていると知ってからは特に触れないようにしていた。だって急に泣き喚くなんて面倒くさいじゃん。面倒なことはしたくない。
お風呂場でそっと、くるぶしに触れる。いや、全然何も感じない。むしろ、緊張している自分がアホらしいほど何も思わなかった。ぎゅ、と握ってみても、問題はない。
「(もしかして)」
克服した?

いったいトラウマとは何だったのか。私はことさら丁寧に身体を洗い、ぽかぽかした気分でバスタオルを洗濯籠に入れる。明日は洗濯物の日だ。
ソファに戻って、ねえリゾット、と呼びかけてからあることに気づいた。もしかして、他の人にされたらビビっちまう、なんてオチじゃなかろうな。
リゾットも私のことを心配してくれているのはわかっている。ぬか喜び(……喜ぶのかは別として)はさせたくないな。
「やっぱり何でもない。リゾットは今日も可愛いねっていう話よ」
「褒めているのか?」
「モールト褒めてるよ」
立ち上がって自室へすたこら。階段を上る足取りは思いのほか憂鬱だ。あー、これでまだダメだったらしんどすぎるな。私は足首ストラップ付のパンプスが履きてえのよ。
明かりをつけて部屋を見まわす。適当なものがなかったので、ゲーム機のコントローラーを手に取ってコードを巻いてみた。悪寒がした。やめよう。
「(やっぱり駄目じゃねえかよ……)」
ぬか喜びをしたのは私の方だったようだ。まったく、言わなくて良かった。そっとコードを外して、うう、とうめく。嫌な気分だわ。ボス殴る。もうどこにいるのかなんて、わからないんだけどね。
リゾットに慰めてもらおうと決めて部屋を出た。
スリッパを脱ぎ捨てて、ソファに腰を下ろすリゾットにダイブ。ぐでりと凭れてエネルギーチャージ。10秒メシならぬ10秒リゾット。フル充電です。
「人生はままならないわね、リゾット……」
「そうかもしれないな」
挙動不審な同居人にも問題なく付き合ってくれるリゾットの寛容さに大感謝だわ。


トロッと

チョコレートをひと粒。3×3の9粒入りで、大きさはチンチロリンのサイコロ程度だ。
体温でも溶けにくいように表面が焦がされ、香ばしい色に仕上がっている。
かじるのもいいけど、口に入れてひと息に噛みつぶした。ムースのようにトロッとした中身が舌に広がった。このトロトロ感、名前なだけはある。
自室でこっそりと至福のひと時にひたると、背徳感でより味覚が鋭敏になる。隣の部屋ではリゾットが仕事をしているのにね。真っ昼間の昼食上がりから私は何をやっとるんだ。トイレに行くふりをして冷蔵庫からチョコレートを取り出した姿は泥棒に似ていたと自負できる。あ、トイレは行くふりっていうか実際に行ったけど、テイとしては行く"ふり"に近い。主目的が違う。
おいしすぎてすぐになくなる。なんで食べものって食べたらなくなっちゃうんだろう。エンドレスおやつがあればいいのに、そういう開発工場はまだできない。ゴールデンチケットは金で買う。なんて大人げない元ギャング。26歳としてどうかと思いますね。
それにしてもトロッとしてる。おいしい。気づけば最後のひと粒だ。
日本から輸入する手間を考えると、このまま食べたい気持ちで手が震えたが、根性で押さえつけてケースごと部屋を出た。隣のドアを叩こうとして、ドアがぴたりと閉まらないように物が挟まれていることに気づく。これは"返事を待たずに入っていい"サインだ。メローネが遊びに来ている時は貝のように合わさって動かないが、ふたりきりだとガードがゆるい。
「リゾットちゃーん。チョコあげる」
「余ったのか?」
「余ると思う?」
「思わない」
ですよねー。
あーん、と口を開けるように仕草で示すと、リゾットは無警戒に唇を開いた。札束を突っ込みたくなる奇跡的な隙間だ。黒歴史を振り返りつつ申し上げると、突っ込みたいのは札束だけではない。はい、ごめんなさい。星に帰るね。
星に帰る前にチョコレートを指でつまみ、ベリーキュートな口唇を大きく割るようにねじ込んだ。
「最初はできるだけ噛まないようにして、舌でころが、……」
「……"ころが"?」
「やめとくわ……。好きに食べて……」
一旦思考が脱線すると元に戻れなくなる。
「おいしい?」
リゾットはこくりと頷いた。食わされた手前、頷かずにはいられないのかなとも思ったけど、ガチでおいしくなかったら表情は変わらなくても頷くまでに一瞬のタイムラグが発生するから、まずくはなかったのだろう。
「トロッとする?」
「ああ、トロッとする」
トロッと、を日本語で言うと、彼も日本語で返してくれた。
リゾットから飛び出す日本語の"トロッ……"の威力に、食べさせてよかった、とじんとした。


遅刻

隣の体重がもぞりと動いた。
眠気の残りとうっすらした明るさを足してみて、今が朝方だと確信する。しかしリゾットがまだベッドにいるということは、かなり早い時間だ。陽が昇って間もないんじゃないか。重いまぶたをこじ開けて薄目で窺う。
リゾットは半身を起こしてナイトテーブルに顔を向け、じっとしていた。寝ている間にグラスを倒して床がびしょびしょになっていたような雰囲気だ。
「どしたの」
寝起きにガチの機嫌の悪さを見せる時があるプロシュートとは対照的に、リゾットは目覚めてひと息つくとテキパキ動いて着替えたり食事の準備ができる。プロシュートもできるんだけど、無性にイライラする日があるみたいなのよね。ウィメンズマンスリーなアレか?とは間違っても口にできない。爪の切り揃えられた麗しき白い手で顔面を掴まれること請け合いだ。直触りは速い。らめえ。
深く深くため息をつく、落胆したような音はリゾットに似合わない。
彼は掛け布団から抜け出した。スリッパに足を通し、ゆっくりと首を振って気持ちを切り替える。立ち上がって間もなくパジャマのボタンを外しにかかりながら振り返るその男、リゾット・ネエロの銀髪の一部がぴょんとハネていることは、薄暗がりの中でも興奮のタネを見逃さない私の華麗で敏感なるサーチ・アイが余すところなくとらえた。朝から心がエクスタシー。心拍計がくっついていたら精密検査を勧められるレベルだわ。おいおいハネてるぜリゾット・ネエロさんよ。マジで鏡見てみ。ハネてるから。ハネてるよって言ったら手櫛で直そうとしてて枕を殴りつけたくなった。天然記念物みたいな可愛さを見逃さなくてよかった。人生損するとこだった。私のリゾットちゃんは可愛いでーす!私のとか言っちゃったわごめん。リゾットはリゾット、誰のものでもない。でも預かれたお零れの感動に打ち震えて、基本は無宗教なのに胸の前で十字を切りそうになった。
「寝坊した」
追撃で死んだ。寝起きのきったねえ顔が非常に安らかなものへ変わった。
「そっかあ」
大変だあ、と言った私は会話を終えていいよとジェスチャーで示した。寝坊したんだね。じゃあ急いで準備しなくちゃだわね。いいよいいよ、目の前で脱いでくれて構いませんよ。私はオフトゥンの中から見守っていますからね。
「こんな早くに、待ち合わせでもしてたの?」
発売当日に高機能な家電を手に入れる為の行列に並ぶ、なんてことはなかろう。催し物に参加する柄とも思えず、思いつくのは待ち合わせ。暗チちゃんたちならこの早朝でも起きようと思えば起きられるし、リーダーを電話一本で呼び出せる。もしもしリーダー?明日の朝5時にグラウンドに来てくれよ。そんな誘いにホイホイ乗って学校に向かったリゾットの頭上から降る声。屋上から叫ばれる告白。腕で大きく丸を作るイタリア人。私は彼を取り囲み、目を潤ませながら拍手して歓声を上げる。何を言ってるんだろうね。私にも自分の雑念がわからない。
「"あちら"に朝一番で家具屋が来るから、それまでに家のテーブルをゴミに出したいらしい」
「ほほう」
ああ、なんか言ってた気がしなくもなくもない。
自室に家具らしい家具なんてないくせになぜか家具のカタログを購読しているメローネが、今月号をパラ読みして大部屋のテーブルと写真を見比べていた。気に入ってないワケじゃあないけど飽きたとの弁で丸め込まれた彼らは、当然言いだしっぺのメローネがお役御免のテーブルを処分するものだとばかり思っていたが、そう思ううちに宅配の予定が整ってしまった。ホルマジオには私が長期のお仕事を頼んでいたので、彼らは自力で古いテーブルを解体しなくてはならない。ソルベとジェラートが"蹴り壊そうか?"と提案したがそれは却下された。鏡の中もゴミ箱じゃねえと怒られたそうだ。
力仕事得意マンたちが取り出したのは刃物だった。解体しようと言うのだ。だんだんと彼らが状況を楽しみ始めているのがわかったリゾットは、そうか頑張ってくれ、と近寄らないことにしたのだが、がっしり腕を掴まれて引きずり込まれた。リーダーは断らず、バラバラ殺テーブル事件は本日決行されるはずだった。
それに寝坊したリゾットは、心なしかせかせかした動きで身支度を整えた。見送るために私も起き上がる。階段を下りる足取りも急ぎ気味だ。
「終わったら連絡する」
「お昼くらいまでかかるかな?行けそうだったらご飯一緒に食べよ」
「そうだな」
手首に巻きつけた腕時計を見て、リゾットは早足で出て行った。後姿はケータイを耳に当てて、たぶん暗チの誰かに電話をかけた。あちらではリーダーの粗を見つけては喜び勇んでつつき回す、メから始まる子とソから始まる男とジェから始まる男が待ち構えていることだろう。一分一秒を争う戦いだ。
だというのに出がけのハグは欠かさないのだから、まずそこを省いて10秒を大事にすればナニか変わることがありそうなんだけど、そこは正真正銘のイタリア人だからか、上司と部下の6年間が効いているのか。ジョルノに言われても(言わないけど)やるだろうしブチャラティに求められても抱きしめるだろうから、イタリア人ゆえってことにしておこう。アッー、ブチャラティに"求められても"の部分に個人的な誤解が生じそうで、二度寝したいのに交感神経が働き始めた。あとせっかくの機会だったのにリゾットに"がんばれっがんばれっ"て言うの忘れた。
"遅刻して焦るリゾット"という天変地異でも起きそうな姿を思い出しながら、まだちょっとあたたかい布団にくるまる。そこで息を止めた。
「(リゾット、髪の毛ハネっぱなしだったような……)」

30分後にジェラートから、騒がしい大笑いがBGMの動画が届いた。撮影者が笑いすぎてるせいで画面がブレまくっている。
要するに、ハネていた。