とある早朝

喉が渇いたな、とうっすら目を開ける。しばらく寝ぼけた頭のまま、部屋にグラスを置いていたかを思い出して、お水のボトルごと持ち込んだのだったと記憶を取り戻す。冷たくはないけれど、背に腹は代えられない。わざわざスリッパを履いて下までお水を取りに行く気力はなかった。だってまだ寝たい。
起き上がろうとして、ようやく気づいた。リゾットに抱き寄せられている。やけに蒸し暑いなあと思ったが、こういうことか。脚まで触れ合ってるよ。まあそりゃあ体勢的に当たり前なのかもしれないけど。
ではちょっと失礼して。髪にかかる寝息から頭を遠ざける。
だがしかし、けれどだけど、上体を起こそうとしたところで捕まった。私の背中にまわっていた腕が緩慢に動き、大きな手がパジャマごと二の腕を掴む。そのまま両手でずるずると元の位置に戻された。
「起きてんの?」
待てど暮らせど返事はない。
「喉渇いただけだから。すぐまた寝るから」
だから離して、とまたもがく。起きているのか寝ているのかは知らんけど、夢うつつのリゾットを力任せに押しのけるのもしのびない。でも私は喉がからからなのだ。ということで思い切り硬い胸を押した。邪魔そうに抱き込まれただけでびくともしなかったのが実におそろしい。
肉体労働派の筋肉に恐れおののいていると、触れ合っていた脚が動いた。がっつりホールドされる。かるーく捻って力を込めたら関節がキメられそうだった。こわい。
「喉……」
まったく離す気配がない。こいつ起きてんじゃないの、と疑惑を深めてもいらえはないので仕方がなく。
……いやいや、喉が渇いてるんだよ私は。この苦しみと切なさは喉が渇いている人にしか伝わらない。
脚を引き抜いて、今度こそ思いっきり腕を振りほどく。すぐ戻るから!と言い残してリゾットを跨ぎ、ベッドから身を乗り出してお水を飲んだ。いつも通り、私にとってかなり問題のある配置である。
生き返る。できれば冷たいのがよかったけど、それは二度寝から起きたときに堪能しよう。
息をついてグラスを置く。コト、と音が立った。
すると、手を離したタイミングを見計らっていたように後ろから引き倒された。そのままぬいぐるみか何かと勘違いしているのではと言いたくなる動きで締めつけられる。あんたはアナコンダか?
「起きてんじゃん」
「寝ているとは言っていない」
そうだよね。どことなく法の穴感があるけど、おっしゃる通りだ。
「暑くないの?私は暑い」
これには返事がなかった。二度寝に入ったらしい。本当に寝ているのかは、怪しいもんだ。
一生懸命腕の中から這い出て手を伸ばす。ラピュタで石の受け渡しをするシータとパズーよろしく何度か指をかすめたリモコンを必死に手繰り寄せ、クーラーのスイッチを入れる。これで少しはマシになるはずだ。
腹に圧がかかったので大人しく戻り、吐息で髪がふわふわするのを感じながら目を閉じた。
思いついてもぞもぞと、リゾットの薄いシャツの中に手を突っ込んで背中を撫でると、じんわり汗をかいていた。なんだ、そっちも暑いんじゃん。こんなところで我慢強さを発揮しなくてもいいのになあ……。


まるみがある形を皮ごしに撫でまくる。あまりやるとせっかく冷やしたのが台無しになってしまうので程々に。風情ある曲線と滲み出る甘い香りがたまらんね。
キッチンに立って包丁を持つ。桐の箱におさめられたものが気になってついてきたイルーゾォが、一玉手に取ってしげしげと眺めた。
「桃くらいイタリアにもあんのに、わざわざジャッポーネから取り寄せたのかよ。お前、暇なの?」
「注文は仕事の間にクリックひとつでできるんですよ、ワトソンくん」
「そんな余裕があんならリーダーに回す書類かなんかの一枚や二枚、引き受けてやれよな」
リーダー大好きマンであるイルーゾォは厳しい顔をつくって言った。でもほら、適材適所ってモンがあんのよ。私は空間把握系の作業が苦手で、リゾットは得意。リゾットは……、……えーっと……、あの人は何が苦手なんだ?とりあえず取引先とのメールは私しかできないからそれは私がやってるよ。あれっ、もしかして私ダメか?
よく熟れた桃は包丁を優しく受け止める。刃を入れて軽く引っ張ると、皮は抵抗なくはがれていった。果物の皮もむけないのではと過去に疑惑をかけられていたらしい私だけど、自炊歴は前世含めてかなり長いし、簡単なことならひと通りはできるのだ。リアルに人を刺す以外の用途で包丁を握った経験がなさそうなザクとは、いや、イルーゾォとは違うのだよ。
「バカにすんなよ、料理くらいしたことあるっつうの」
「そうだっけ?」
「パスタを茹でられねえイタリア人がいるはずねえだろ」
「パスタの話はしてないわよ。包丁よ、包丁」
「つうか、包丁で人は刺さねえし」
「話聞いてよ」
隠し持つのもバカらしいし、現地で入手するにしても隠蔽処理が面倒なんだってさ。鏡の世界に放り込んだらダメなのかな。ゴミ箱じゃねえんだぞって怒られそう。
繊維を断っていく。ささやかな抵抗を押し切る程度は苦にもならない。果汁がしたたり、もったいない。腕に垂れたそれを舐め上げるわけにもいかないので(ひとりならこっそりやるけどさ)、澄ました顔で我慢した。
突っ立っている男にお皿をとらせて、そこに削いだ果肉を盛りつける。まだ桃はたくさんあるので、ここからは酸化現象とのスピード勝負だ。
「手、出して」
「なんだよ?」
「いいからお出し」
恐る恐る両手のひらで器をつくったイルーゾォに、桃の種を渡す。包丁では削ぎきれない果肉が周りにたっぷり残る種をかじるのは、キッチンに立つ人だけの特権だ。特別にそのオプーナを買う、じゃなかった、桃の種をしゃぶる権利を与えよう。
イルーゾォはためらっていたけれど、私が無視して次の桃に取り掛かったのを見て、キッチンシンクに顔を寄せた。じゅる、と音が立つ。
「おいしいよね」
「ん」
「こうやって食べると余計おいしくない?」
「ぎょーぎわりい」
「ワルいことはたまに楽しいのよ」
私も切れっぱしを口に入れる。甘くて冷たくておいしすぎた。これは早く食べたいな。今食べたけど。

お皿に桃の山ができるまで、イルーゾォは四つの種から綺麗に果肉をかじりとった。何の気なしに布巾を渡しつつ名前を呼んで、沈黙する。
「……なんだよ?」
口の周りと手元を果汁で濡らした男。心なしか満足げな空気を醸し出している。
うん、なるほど、見れば見るほど。
「イルーゾォは可愛いね」
できるだけ綺麗に微笑んだつもりだったけれど、込められた邪で興奮を交えた様々な感情を察したか、イルーゾォはひとつ激しく身震いをした。


肌年齢

機械を当てられてしばらく待つ。隣でイライラするプロシュートも、美容店員さんの押しには反発できなかったのか、眉根を寄せて頬に端末を押し付けられた。
電子音が断続的に小さく鳴る。店員のお姉さんカッコめちゃくちゃ美人カッコトジがわあっと歓声をあげた。
「奥さま、どんなお手入れをしていらっしゃるんですか?26歳とおっしゃっていましたが、肌年齢がすごくお若いですよ」
奥さま呼びについては突っ込まない。もう何回か呼ばれちゃったし否定のタイミングも逃したので、並んで化粧品売り場に立ち品物を吟味していた私たち金髪コンビは完全に夫婦だと思われている。"妻のためにメイク道具の選別に付き合う優しい夫"ことプロシュートも、どうせ否定したところで今度は恋人同士だの何だのと言われるのだろうと思ったのか、口をつぐんだ。後から「珍しいね」と言ったら、「今は女に困ってねえ。コブ付きと思われてた方が楽だ」とイケメンならではの無自覚な嫌味が飛び出してきたので目を閉じた。う、うん、君の虫除けになれて嬉しいよ。
肌を褒められると同時にスキンケア商品を勧められ、なかなか貴重な体験なのでふむふむと頷き話し込む。知らない成分の名前がたくさん出てきて目が回りそうだ。私はそこまで熱心にこだわっていたわけではないのでビアンカを参考にしたりファッション誌から情報を得たりしてそれなりのケアしかしてこなかったけど、こういうのも面白いかもしれない。試供品として小さなボトルをもらえたので使ってみよう、といそいそとカバンにしまった。
もう一方では驚愕の声が上がる。
「だ、旦那さま……!?こ、この肌……素晴らしいです!どんなケアをなさっているんですか!?男性の肌とは思えない……!!」
「特には何もしてねえよ」
いや、やってるんじゃない!?だって肌の輝きがおかしいもん。28歳の男性とは思えないハリを持ち、内側から白く輝くなめらかな肌にはニキビひとつないし、肌荒れなんて言葉からはもっとも遠いように思える。こんな肌がデフォルトだとしたら、それは神がプロシュートを『完璧なイケメン』として生み出したとしか思えない。
けれどなんとなく、プロシュートは陰で努力もしていそうな気がした。いや、素で美しいプロシュートもあり得そうなんだけど、というかそっちの可能性のほうが高いけど、私はプロシュートにケアをしていてほしい。だってなんか悔しいじゃん。イケメンかよ。肌質までイケメンかよ。
「お、教えてください、どんなケアを……?」
店員さんが肌ケアに効くクリームを勧める余地がないほどパーフェクトな肌年齢を叩き出したプロシュートは、口角を持ち上げて店員さんの手をそっと押しのけた。
「正しい食事と適度な運動。これに限るぜ」
「は、はいっ……」
イケメンフェイスとイタリアンスマイルに魅了された子猫ちゃんがまたひとり。妻の役目を負わされた私としては嫉妬のひとつも見せるべきなのだろうけど、もうどうでもいいや。
プロシュートの分という名目でもう一本ボトルをもらい、横目で呆れたイケメンの視線をいただきながらカバンにおさめる。
「行きましょうか、旦那さま」
「オウ。それじゃあな」
「ま、またのお越しをお待ちしておりますっ」
かなり本気で再来を求めた店員さんにひらりと手を振り、プロシュートは店に背を向けた。慌てて追いかけ、しばらく歩く。
人目がなくなったところで、誰もを驚かせる肌にぺたりと触った。うるさそうに払いのけられる。しかし、確かに感じた。すべすべして触り心地がいい。ひげも傷もまったく感じられない。
「何者……」
「テメーの旦那だろ」
「そうだね。自慢の旦那さまだわ」
などと軽口をたたきながらアパートへ向かう。
いやはや恐ろしい、プロシュート。探せばもっと人並み外れた魅力ポイントが見つかるのだろう。
女として負けまくっているような気がするので、できるだけ目を逸らして生きたいね。


はい、ネエロです


リゾットがキッチンで洗い物をしているとき、テーブルの上でケータイ電話がブブブブと震えて音を立てた。
リゾットちゃんが忙しなくお昼の家事を済ませている間、私がいったい何をしているのかと言えば、そりゃもちろん休憩である。今日のお昼当番はリゾットなのだ。だからこうして悠々と、ちょっとした申し訳なさを感じつつも『慣れ』と『やさしさ』にあぐらをかいて、テーブルに肘をつきオレンジジュースで早すぎる午後のブレイクタイムを演出できるというわけである。仕事なんてまだ欠片もしていないのに、ブレイクタイム。まったくこれだから自由業は嫌になっちゃうわ。楽しすぎる。ノルマさえこなせばいつどのタイミングで何をしようが平気、っていうこの解放感。ボスのシャチクウーマンだったころとは話が違うのだよ、話が。まああの時も、精力的に働いていたのかと訊かれると素直に頷けないところもあるのだけども。精力的ってなんだっけね。私の辞書にそんな言葉はない。
「リゾットー、電話鳴ってるよ」
キッチンに向かって呼びかけると、リゾットは水を止めて「誰からだ?」と私に問うた。手を伸ばしてハイテクで便利なそれを引き寄せ、画面を見てみる。
「ホルマジオ」
「悪いが、出てくれ。手が離せない」
「いいの?」
「ああ。ホルマジオだろう?」
「そう」
「ならいい」
誰だったらダメなんだろう。想像をめぐらせたが、あの8人の中にダメそうな人は見当たらなかった。これは私への信頼と思うべきか、電話に誰が出ようが動揺しなさそうな彼らへの信頼と考えるべきか。できれば前者を採用したい。嬉しいから。
お言葉通りにボタンを押し、耳に当てる。
「はい、ネエロです」
電話に出たのが明らかに女の、それも某元上司の声だったためか、ホルマジオが耳からケータイを離した姿が簡単に想像できた。掛け間違えたかと疑い、画面にきちんと『リーダー』の名前が表示されるのを確かめて、もう一度耳に当てたのだろう。戸惑いがちな「もしもし」が似合わない。
「オメー、ポルポだろ?」
「そうだよ」
「なんでリーダーの電話に出てんだよ」
「出ていいよって言われたから」
「じゃあなんだよ、その『はい、ネエロです』ってやつァ」
「だってこれ、リゾットの電話だもん」
「いい年こいて『だもん』なんて言ってんじゃねェよ、ったくよォー。新婚のマネは似合わねーぜ、オメーにゃあ」
「理不尽じゃない?」
同い年だからこそ何か思うところがあるのだろうか。いいじゃん、ちょっとくらい。26歳だって可愛く生きたいんだよ。もうすぐアラサーに足を突っ込むけど。うわっマジか、私、もうすぐアラサーか。自分で自分が信じられない。よく生きてた。改めて感動するわ。あとそれから、すでに『アラサー』と名のつく輝かしい時代に浸かりかけているリゾット・ネエロ28歳のことを想って涙が出そうになった。アラサーリゾット。なんて素晴らしい響きなのだろう。『アラサープロシュート』の違和感には軽く首を傾げるところだが(なんかぴんと来ない)、リゾットなら。それでも私たちのリゾットちゃんならやってくれる。試合開始のホイッスルは今、鳴ったばかり。
「で、なんか用事?デートのお誘い?」
「なんでリーダーとデートに出かけなきゃなんねーんだ?」
「その言い方はリゾットが傷ついちゃうよ」
「俺の心も傷つくんだよ。俺ァ、いくらリーダーっつってもヤロウと並んで街を歩く趣味はねェんだぜ」
「イルーゾォとよくふらふらお散歩してるくせになに言ってんの。イルーゾォたちは良くてリーダーはダメなの?リーダーが傷ついちゃうよ」
「あーあーわかったよ、んじゃあリーダーをデートに誘いにきたってことにしとくわ。さっさと替われよなァ」
電話を遠ざけて、リゾットを呼ぶ。リゾットは一区切りついたのか、タオルで手を拭いてこちらへやって来た。
「ありがとう」
「いえいえとんでもございません」
そのようなやりとりをして、電話を受け渡す。ホルマジオに向ける「替わるよ」のひと言はない。あとから気づいてヤベッて思ったけど、たぶんあいつも気にしないから問題ないだろう。イイヤツだ。
リゾットは窓の近くで何事かを話し、何度か頷いてから電話を切った。
こちらに戻って、エプロンを脱ぐ。この動きはいつ見ても、どんなに数多く見ても盛大な感動を巻き起こす。リゾットを中心に癒しオーラが放たれるかのようだ。この勢いにのって加速したい。
「電話、なんだったの?」
普段はこんなことは訊かないけど、ちょっと気になったので話しかけると、隠すような内容ではなかったのか、彼は躊躇なく答えた。
「隣町に出かける用事があるので、何か欲しいものがあるならついでに買ってくる、と言われた」
「へー」
私にも訊いてよ!いや、特に欲しいものはないけど!なんか寂しいよホルマジオの兄貴。
「何か頼んだ?」
「ペンのインクを」
「なくなりそうだったんだ?」
「黒はよく使うからな」
なるほどねーと納得して会話を終え、ふと思った。
「ホルマジオ、ひとりで行くって?」
リゾットは小さく首を傾げた。その傾げられた角度を測って出た数字を今日のラッキーナンバーにしたい。
「確か、イルーゾォと行くと言っていたな」
「へー」
うんうんと首を振った。
リーダーじゃなくて、相棒を誘い済みか。ははん。
仲良く並んで街を歩くふたりを想像し、私は乾いた笑顔を浮かべた。やっぱりあんなこと言ったら、リーダー泣いちゃうよ。