パーフェクトさんすう教室

私の家でテレビを見てくつろいでいたナランチャが、弾かれたように立ち上がった。
自分のリュックサックに駆け寄って、中から何冊かファイルを取り出す。ペン貸して、と言われたので手近にあったシャーペンを渡した。ついでに消しゴムも。
消しゴムといえば、学校の授業中にころりんと落としてしまった消しゴムが不思議なヤモリの仕業か何かで『本音を消せない』消しゴムに変わってしまうお話が有名か。まあもちろんこれはそんな祝福を受けたりはしていない普通の消しゴムだ。ちょっと変わっているところといえば、日本から取り寄せている部分かな。なんとなく日本の学生気分に浸りたかったんだ。無駄に手のひらよりも大きい顔面サイズの消しゴムとかもあるけど、使い道のないそれはタンスの肥やしになっている。そのうちヤフオクで売るつもりだ。軽く使っておいて『イタリア人美女の使いかけ消しゴム』という看板で売り出したほうが高く売れるかな。よこしまだ。
ペンと消しゴムを装備したナランチャは、握り心地が普段と違う文房具を手の中で一度くるりと回してから、ファイルを開いた。プリントがテーブルに散らばった。
「どしたの?」
答えたのは、ソファに腰掛けてテレビから目を離さないフーゴだった。
「アバッキオがつくったんですよ」
「なんでアバッキオが?」
「僕がつくってばかりよりも、毛色の違う問題を混ぜてみたらどうかなと思ったんです」
「なるほどね」
それでアバッキオをチョイスするところにフーゴの才能を感じる。
興味をそそられたのでナランチャのプリントを一枚横からかすめ取らせてもらう。なになに、簡単なりんごとみかんの問題だ。私からすると簡単だけど、かけ算を始めたばかりの生徒にはちょっと難しい、のかもしれない。そんな時期は遠い過去なのでちょっと共感の仕方を忘れてしまったのが悲しい。年月って何だろうね。
「ポルポって算数得意?」
「数字は苦手だなあ。リゾット呼んでくる?」
二階でお仕事にいそしんでいる我らがリーダーを?
ナランチャは首を振った。ポルポでいーや、と聞こえた気がしたんだけど侮られてる……?いやいや、折れ曲がった信頼だと思おう。ポルポでいいの?ありがとありがとー!って感じだ。私でごめんな。
「じゃあ読むぜ」
「うん」
なんで私が教える流れになってんのかはちょっと理解できなかったけど、家庭教師のフーゴは沈黙したままだ。彼の教授の指針ともそれほど逸れてはいないのだろう。
やんちゃな唇が問題を読み上げる。
「パッショーネからバスが出て、はじめに三人乗りました」
「うん?」
脳を刺激するフレーズ。
「ジェラート屋でひとり降りて、独立型人型スタンド使いのスタンドだけ乗りました」
「なんでだろうね」
「わかんねーけど書いてある」
その状況謎過ぎるでしょ。本体置いてけぼりかよ。
「ポルポんちでふたり降りて」
「うん」
聞き覚えのあるフレーズパートツー。
「結局乗客合計何人だ?」
なんか盛大な振りな気がするから堂々と答えるけど、ゼロ人じゃないかな。
「え!なんでだよ!?計算早いんだな」
フーゴの視線が突き刺さった。
「なぜならなぜならそれは、イタリアにバスがないから」
「ありますよ何言ってんですか」
「あるだろポルポ」
「あるよね」
ごめん私が間違ってたわ。私としては完全に正解なんだけどな。
アバッキオが生み出した偶然のネタは当然、誰にも理解されなかったので、私は名誉を復活させるために身を乗り出してナランチャの手元を指さした。


夜にべたべた

うだるような。茹だってしまうような。うんざりするくらい暑い夜だった。
暑いんだから別のベッドで寝りゃあいいんだろうけど、タオルケットの中で七回くらい寝返りを打ったときにようやく気づいたので時すでに遅し。今さらそそくさと抜け出してそれじゃあ私は別室に控えておりますのでというわけにはいかない。リゾットは何も思わないだろうけど自分勝手すぎて申し訳なさがあるよね。これ以上この人に迷惑をかけていいのか?甘えまくっていていいのか?
なんかもうなんでもいいや。暑すぎて考えていられない。
枕元のスマートな携帯電話を取り上げてタイムラインを数分、追う。煌々とした明かりがちょっと眩しかったので弱めたが、間接照明につつまれた柔らかな薄暗い部屋に慣れた目はまだ落ち着いてくれなかった。しぱしぱするからケータイをいじるのを止めろということなのだろう。暑苦しくて、清廉な眠気に厄介なうっとうしい寝苦しさがまとわりついて離れない。眠れないのに遊ぶこともままならない、つらい夜だ。夏はこれだから。
からりとした暑さかと思いきや、今日は雨上がりのせいかやけに湿度が高い。普段はこんなことはないのだけど、クーラーでもつけるか。
「つけていい?」
「ああ……、暑いからな」
暑いなら言ってくれよと切実に思った。涼しい顔で本を読んでっからこの人は暑さを感じないのかなと何度目かになる非人間疑惑を深めていたんだけど、別にそんなことはなかったようだ。
リゾットの身体を横切るようにして身体を伸ばし、それでもとどかなかったので彼をまたいでサイドテーブルの引き出しにあるエアコンのリモコンを手に取った。スイッチを押して、ぴ、という音にまず癒しを感じる。こんなに安心をもたらす音がこの世にあるだろうか。蒸し暑くて眠りづらい日に救いをもたらすわずか一音。ひやあ、最高。このあとに訪れる冷風を思うとこの時点で恍惚としてしまうな。
身体を戻す。ひょいと避けてくれたリゾットが腕を戻した。小説本から目を離さない横顔をしばらく見つめる。鋭さがひっこみ、静かな眼差しが文字に注がれる。温度がないように見える中にもどこか熱意のようなものが見えるのは、内容が面白いからだろうか。それとも、この部屋の暑さに浮かされている気持ちは私も彼も同じなのか。よく見ると、シャツからのぞく首筋にうっすら汗がにじんでいた。ちょっと興奮した。まじか、やっぱり汗かくんだね。私もリゾットも人間でよかった。最高だ。さっきまで夏を恨んでいたけど私、やっぱり夏のこと愛してるかもしれない。ありがとうサマー。グッジョブ真夏。そっと手を伸ばして、視線をかいくぐるようにこっそりと首筋に手を触れさせ撫ぜてみるとぬるりとした感触があった。マックスに興奮した。私は変態か?夏は変な人が増えて困るなと思っていたけど、こういう理屈だったのかもしれない。イエスリゾットノータッチ。
おかしな行動に出た私を不審がる様子もなく、リゾットは黙って本に目を通し続けた。もはや反応するほどのことでもないと思われているのかもしれない。切ないようなありがたいような、複雑な乙女心である。なんかごめんね、変人ポルポっていわれてたけどこんな意味での変人にはなりたくなかったな。恋人の汗の感触を突然確かめる夏の狂った女。つらすぎでしょ。
手を離すと、ちらりと視線が向けられた。へらっと笑ってごまかす。濡れた指先はこっそりタオルケットで拭ったけど、拭わなくても嫌悪感なんかはかけらもないってのがリゾットの怖いところよね。あふれ出る魅力。フェロモン。夏。最高。私がリゾットを好きだからそう感じるだけかな。リゾットの汗を舐めたいと思わなくもない。順調にリゾット厨として狂ってきている。
ふかふか枕に頭を埋め、リゾットの横顔を見つめ続ける。こんな熱視線を注がれても無視し続けられるリゾットのメンタルに乾杯。でも、反応されても何も言えないからこのくらいがちょうどいい。
「ねえ、何読んでるの?」
「推理小説だな」
「ふーん。今どんな場面?」
リゾットはページの冒頭に視線を戻した。
「マイケルというキャラクターが登場したところだ」
「どんなキャラ?」
「……お調子者で、主人公につっかかる描写がみられる」
死ぬな、と数々の物語を舐めてきた歴戦の私の魂がささやいた。マイケル、強く生きろ。
沈黙が戻り、リゾットがページをめくる。
そんな彼を見ていて、私はふと思った。
今晩はとても暑い。非常に暑い。クーラーが効き始めるまで、絶対に眠れないと確信できるほどに暑い。うんざりするくらいだ。
リゾットをうんざりさせたい。いや、正確にいうとリゾットにうざがられたい。この、小説から目を離さず、黙って暑さに耐えようとした男に音を上げさせたい。うわ……暑……と思わせたい。私だけが暑いというのは理不尽じゃない?特に私が暑さに弱いわけではないのに。こらえ性がないのは確かにその通りかもしれないけれども。
胸にちょっとしたヨコシマな思いを隠して、シーツの上でじりじりとにじりよる。リゾットは横目で私を見ただけだった。この、意識されていない感じ。近寄られて暑苦しいなあという感情がちらとでも表情に浮かんでいれば突っ込めるのに、まったく隙がない。
「ねえ、リゾット」
手を少し動かせば触れられるほどの距離まで近づいて、もう半分リゾットの枕に乗り上げて言う。リゾットは枕を背もたれに、身体を起こして本を開いているので、顔の距離は近くない。
「ねえ、リゾット。暑くない?」
「暑いな」
「だよねえ」
がっちり鍛え上げられた肉体にしなだれかかるようにする。
「こんな暑い夜に、真剣に読書しているリゾットに、こーんなデカい脂肪のかたまりを持った体温の高い暑苦しそうな女がひっついてべたべたしたりなんかしちゃったらキレる?」
「やってみたらどうだ?」
ちょっとリゾットにうざがられたいのでやるね。
胸に触れてシャツを軽く握りしめるようにして身体を寄せる。肌が触れ合い、それだけでも蒸し暑さがいや増した。ずりずりと身体を起こす。リゾットの頬に髪を触れさせられるくらいまで起き上がり、く、と一度すり寄ってから手元に目を向けた。小説は半分くらいまで進んでいる。
「これ、どうしたの?」
「ずっと読んでいなかったのを見つけた」
引っ越してくる前から買っていたけど、読んだことはなかったらしい。わかるよ、待ち合わせとかしてるときにひょいっと入った本屋さんで見つけた作品ってなんか何でも面白そうに見えちゃうよね。そういう状況だったのかは知らないけど、リゾットにもそんな衝動買いの感情があると知って感動した。
「へえ。面白そうだね。次、貸してくれる?」
「読み終わったらな」
「うん、もちろん」
言い終わり、じっとリゾットの動きを追いかける。ページがめくられるのに合わせてできるだけ素早く内容を読みとっていく。黙ってその作業に没頭する私に、リゾットがもぞりと身じろぎして言った。
「次に読むなら、見ないほうがいいんじゃないのか」
ネタバレを心配してくれているのだ。
「ん、大丈夫。私、ネタバレとか気にしないほうだから」
「そうか」
納得したのか、彼は読書に戻った。実際に全然まったく気にならないタイプなので、がっつり読み進める。途中からでも物語に不自然さを感じたりはせず物語にのめり込めるタイプなので余裕で楽しめる。前後の流れを勝手に妄想して後から答え合わせをするっていうのも楽しみのひとつだよね。
そう言って文章を読み進めた私は、くすりとこっそり、リゾットにばれないように小さく笑った。
ずっと私が知っているリゾットのイメージからすると、ここで私が読みやすいように読むスピードを遅らせてくれるような気がする。ゆっくりと、充分すぎるほどに時間をとってページをめくってくれるような。
けれど実際はそうではない。合わせるかと思いきや、まったく関係なくぺらぺらとページをめくっていってしまう。
その距離感が、たまらなく心地よくて、大好きだなと感じた。
「リゾット、好き」
ぽつりと呟けば、リゾットは意味がわからないというように首を傾げた。それもそうだ。私が勝手に感じ入ってきゅんとしているだけなのだから。しかも、こんな意味のわからないシチュエーションで。
猫がそうするように肩に頬ずりする。すると、リゾットの雰囲気がどこか少し和らいだ、ような気がした。気のせいかもしれない。
じっとそのままページをめくってもらって、目に入っているんだかいないんだか自分でもわからない文章を、クーラーが効くまでじっと読みとり続けた。本当はたぶん、リゾットの匂いとぬくもりを感じていたのだと思う。まったくラブラブで困っちまうわな、私たちは。私が電車の中でこんなカップルを見かけたら盛大に幸せな爆発を願うに違いない。私も心の中で自分たちの盛大な爆発を祈った。末永く爆発したいよね、リゾット。同意を求めると何のことやらといった視線が向けられたので、そりゃそうやなと思いつつ訳知り顔で頷く。な、爆発したいんだよ。したくないけど。
リゾットの匂いを吸い込み、はふー、と息をついた。なんだこの落ち着く実家の香りは。私の実家はたぶんこんな素晴らしい匂いではなかったと思うけど、この落ち着き方は実家のそれに匹敵する。
「リゾット、好き……」
酔っぱらっているわけではないのに、完全に理性がゆるんで本音が二回出た。リゾットは何かを感じたのか、本から片手を離して私の肩を優しく抱いて、ゆっくりと撫でさすった。あまりの優しさにぐっときた。なりふり構わずリゾットを可愛がってナデナデして愛おしみたい気持ちにかられるけど、そこは理性が働いたのでやめた。
しばらくその体勢のまま、リゾットが器用に片手でページをめくる姿を三度ほど眺め、私は意識をリゾットに向けたまま、もう小説の内容はあんまり目にしていないでぼうっと問いかけた。
「マイケル、どうなった?」
リゾットは答えた。私の肩をゆったりと、優しく、丁寧に撫ぜながら。
「死んだ」
やっぱりな、と私は口の中で呟いた。


たわむれのチュー

気持ちのいい天気に、うんと伸びをする。洗濯物もあっという間に乾いてしまいそうだ。はためくTシャツがカラフルに視界を彩った。さて、次は何をしようか。掃除機はかけたし、洗濯物も干した。朝ご飯もとっくに食べ終わっている。
これは、おやつだな。朝と昼の間に挟む小休憩だ。一仕事終えたのだし、これくらいは許されるのではないだろうか。
冷蔵庫のところまで行ってしゃがみ込み、中を覗く。アイスクリームがあるのが一番だけど、なさそうなのでチョコレートにしよう。
立ち上がると、リビングのソファにリゾットがいるのが見えた。どうやらあちらも部屋の掃除が終わったらしい。
近寄ってチョコレートを勧める。少し考えた彼は、箱から一粒取って口に含んだ。噛むのではなく溶かす気分か、とちょっとだけ口元を観察して、私も食べる。私は今日は噛む気分だ。冷えて硬いチョコレートをぐにぐにと噛む。ついでにテレビもつけちゃおう。

しばらくそうして、会話もなくだらだらとテレビを見ていると、リゾットが空のグラスを見て立ち上がった。いるか、と言われたのでお願いしますと頼む。
1分くらいで戻ったリゾットは、ローテーブルにコースターを敷いて、汗をかきそうな冷たいグラスをそこに置いた。
元の位置に座るのかと思いきや、一瞬立ち止まる。なんぞと私が顔を上げたのは自然なことだろう。それを待っていたかのように、ぐっと身を屈めたリゾットがこちらに顔を近づけた。唇と唇がかすめるように触れあって、ただそれだけで離れていく。さっさと用事を済ませたリゾットは平然とソファに腰を下ろした。なんだ今の。意味がわからなすぎて目を瞬かせるしかない。
「何?」
「何でもない」
「あ……そう……」
気が向いただけみたいだった。朝から心臓に悪いな。
あまりにも普通な様子なので、私もびっくりしているほうがおかしいような錯覚に陥ってテレビに視線を戻した。いや、私はおかしくないよね?急にされたら驚くよ。リゾットだって驚くし、たぶんブチャラティだって驚く。あっそれ可愛いな。ふらっと思考が雑念に傾きかけた。
なんかやられっぱなしっていうのも微妙だ。しかし私に身を乗り出してリゾットの麗しい唇を奪うだけの度胸はない。それをするには勇気が足りない。仕方ない、心臓に毛を生やす作業にはあんまり時間を使っていなかった。
テレビ番組がCMに突入するのを待って、指を自分の唇に押し当てる。ついで、軽い感じを装いリゾットのうるうるリップに押しつけた。
「あげる」
「……急にどうした?」
それかなりこっちの台詞。でも大人な私は突っ込まなかった。野暮だ。
「いや、何となく」
「そうか」
冷静きわまりないリゾットから指を離し、朝の爽やかで意味がわからないスキンシップに区切りをつけた。