チョコレートと君と僕と

バレンタイン。
それは世の女子が勝負を仕掛ける時であり、世の男子が期待と不安の中でそわそわと身を小さくする時である。
チョコレートのお菓子が街を満たし、犬も歩けばアラザンに当たる。お酒や果物だけでなく、こっそり中にしのばせるのは愛情だ。あわよくばという邪な気持ちもこの時ばかりは甘く香る。
ここ、イタリアはネアポリスでも、聖なる日に向けて真剣な顔でチョコレートを選ぶ者がいた。

あまりにも切羽詰った顔で悩んでいるのでどうしたのかと背を曲げて瞳を覗き込むと、うるさそうに手で払いのけられる。
ショーケースには形も色もさまざまで鮮やかなチョコレートが並ぶが、今の彼らは非常に居心地の悪い思いでいるに違いない。これほど凝視されることなんてなかなかなさそうだ。
「ねー、私あっちでチョコドリンク飲んでていい?」
「んあ……待てよ、俺も行く」
「じゃあ行こうよ」
「待てってば……これ選んでから……」
とか言ってるけど全然選びきれてない。このやりとりは三回目で、店員さんも微妙に苦笑いを浮かべている。ほらあ、私はもう買い終わってるのに同属だと思われるじゃん。いいけどさ。いいけど、なんであんたがここまでガッツリこのイベントに挑んでいるのか、そこんとこは早めに事情を聞かせてもらいたい。
イルーゾォは私には目もくれず、どうやら四つまで絞り込んだ候補をまるで睨んでいるかのように目を眇めて選別を続ける。これは事前にチョコレートのカタログを見せなかった私も悪いのかもしれない。私は別の店舗で貰ったぺらっちい冊子を読んでからやって来たのですぐに用事が済んでしまったけれど、彼はそうではなかった。
「誰にあげるのか教えてくれたら選ぶの手伝えるかもよ」
「……」
わずかな沈黙。
ぶつぶつと何かを呟いた彼は、それもそうか、と最後に言って私を振り仰いだ。
「お前だったらどれがいい?」
「えー……、これかな。アーモンドプラリネ」
「じゃあそれ」
えっ。
「いいの?」
慌てて訊ねると、イルーゾォはガッツリ私から顔を背けつつ、店員さんがチョコレートを箱に詰めるのを見るふりをして、ぶっきらぼうにこう言った。
「お前にやるやつだし」
「……」
わずかな沈黙。今度は私が静寂を作り出す。
今何つった?
いや、訊き返すまでもない。この男が、私に、チョコレートを。
遅れてやってきた感激に打ち震えるあまり、目立った反応をし損ねた。やばいイルーゾォ。やばい。デレすぎじゃね。私今年死ぬ?大丈夫か?問題ない?ていうかイルーゾォ可愛すぎない?
結局、口に出せたのはこの言葉だけだった。
「愛してる」
「わかった。わかったからこれ食って黙れよ」
買ったばかりの箱を突き出される。うやうやしく受け取ると、もうこれ以上の干渉は許さないとばかりにおさげの男は手をポケットに突っ込んだ。
それでもまとわりついてみると、うるさそうな顔はするものの、振り払いはしない。
「私たちカップルみたいじゃない?」
「お前それマジで言ってんの?」
「ううん、結構テキトー」
「最低だな!!」
「急に大きい声出すなよ」
マジで言ってても怒るくせに。
そこら辺の公園の花壇に腰掛けて、貰ったばかりのチョコレートの箱を開き、リボンを丁寧に袋の中に戻してからひと粒を取り上げる。
おいしいよ、と微笑むと、イルーゾォはちゃんと「食う前に言うなよ!」と突っ込んでくれた。律儀なやつ。だから好きだよ。



徹夜ゲーはよくない

気がつくと、人けのない豪邸に立っていた。
消えかけの灯りが壁に影をうつす。何処となく埃っぽいにおいがして、時おり風が窓の向こうを吹き抜けるのが感じられる。
辺りを見回して、気づいたことがあった。私は普段の恰好なのに、腰のあたりに不釣り合いなベルトを巻き付け、銃を吊っている。手に取るとずしりと重かった。
どうやらこの銃は私のもののようだ。セーフティロックがかかっているかどうかはわからない。見よう見まねで弾の残数あたりを確認できないかなといじくり回してみたがこちらもよくわからないし、暴発して死ぬのも嫌なのでそっと戻す。
さてここはどこだろう。私はついさっきまで何をしていたっけな。
うまく思い出せない。
かぶりを振ると、髪が揺れて顔にかかった。それを払いのけようとして、ふと気づく。見覚えのない絨毯や壁、天井からにじみ出る館の雰囲気が歪んだ気がした。何か不気味なことが起ころうとしている、と直感的に思った。
低いうなり声を聞き取れたのは、私が硬直して感覚を研ぎ澄ませようと必死になっていたからだろう。良かったのか、悪かったのか、身の毛がよだつ絶望の呼び声を聞いてしまった私は、咄嗟にそちらを見た。
見てはいけないもの、とは何だろうか? ググっちゃあいけない単語だとか、閲覧注意とついているスレとか、腕どころか全身に入れ墨がありそうな人たちが繁華街の裏で行っている闇取引だとか、その辺りかな。そしてそこに付け加えよう。腐り落ちそうな肉を引きずり、全身にありえないほど血管を浮かせ、ぼろきれをまとい、爪が折れようが剥がれようが目がただれようが関係なく前へ前へと人の気配に向かって身体を動かすゾンビだって、見ちゃいけないものだ。
「……え……」
人は咄嗟には悲鳴を上げられないものである。
頬をつねることも忘れて、私は後ずさっていた。ちょ、ちょっと待ってくれないかな。私、そうだ、こういう時ってどうしたらいいんだっけ。身を低くしてハンカチで口元を押さえて進めば、いやそれは煙に巻かれた時の対処法だ。えーっと。なんだ。くさった死体は毒液を吐くから注意しなきゃな。聖水を投げつけたら逆にダメージを受ける種族なんだよな。じゃあ聖水探しに行かなきゃ。聖水って、隠語じゃなくて、えーっと、はい、なんだこれ、私どうしよう。
とりあえず本能的に、捕まったら食われると理解できた。というのも私はこういうゲームをつい最近プレイしたからで……、アレッ。
これ夢か?
ようやく気づけたが、気づいたところでどうにもならない。どうやって目覚めたらいいんだ。
一歩踏み出されて後ずさる。そ、そうだ、こういう時は部位破壊すればいいんだ。ヘッドショット。いやでも待てよ、これセーフティかかってたら詰むな。
このまま殺されたら自然と目覚めるんじゃないかと思わなくもなかったが、夢の中で死ぬと実際にも死んでしまうという話が頭を過ってぐぬぬ顔。仕方なく、腰の銃に手を伸ばす。かなり冷や汗をかいて口の中がカラカラで、正直こいつぁ超悪夢でノーセンキュー!って感じだったんだけど、切羽詰まると人は強くなる。おかしな具合に覚悟が決まって引き金を引いた。カチン、と無様な音が響くだけだった。
「マジかよ!!」
こういう時は一発成功するもんだろ!?
慌てて身をかわし逃走を試みた私の背中に腐った腕がかかる。思い切り組み付かれ、苦しさを覚えた。腐臭がしたら吐いてるところだ。そこは夢様様と言ったほうがいいのかな。もう何でもいいから目覚めさせてほしい。怖すぎる。
ぐえ、と首が絞まり、肩口に吐息を感じた。

「ウワーッ!!」
「うわっびっくりした」
自分の悲鳴で目覚めると、顔のすぐ横からメローネの声がする。びくっと身を震わせて振り返る。頬と頬がくっついたので顔の向きを前に戻した。
瞬きを繰り返すと、ようやく悪夢から逃げられたのだという実感がわいてきた。これすらも夢だったら困るんだけど、つねったら痛かったから現実だということにしよう。
「どうしたんだいポルポ、急に大声なんか出して」
ソファに座りうたた寝していた私に、メローネが背もたれの後ろから抱きついてきている。
ついうとうとしてしまったのは、昨夜リゾットを付き合わせて遅くまでゲームに興じていたせいだ。何のゲームかと言えば、もう説明するまでもなく、ゾンビ大量発生ショットガンゲーなのだけど。
ぎゅ、と腕に力をこめたメローネがもう一度私に囁きかける。
「夢の中に俺でも出てきた?」
「……あー」
出てきたわ。ていうかオメーだわ。オメーでしょう。ねえ。
「へえ、マジに出てきたんだ。どんな役だった?」
「イケメンじゃあなかったわよ」
「えー?じゃあそれ俺じゃねえよ」
いや、あれは確実にアンタだったよ。