鼻血

※上司部下時代の話


アジトでだらだらしていたらホルマジオが外から戻って来た。ここにいない者は数人いたが、帰って来たのがホルマジオだと判別できたのは声が上がったからだ。玄関から投げかけられた言葉にリゾットが立ち上がる。部屋から救急箱を取って来るのだ。
私はといえば、あまりにも意外すぎて呆気にとられていた。ホルマジオが目の前にやって来ても、なんとなくポカンと見上げたまま首をかしげてしまう。
ホルマジオは流れる鼻血を服の袖で豪快に拭っていた。
「ど、どうした、喧嘩か?勝ったか?」
「なんでオメーはまず勝敗を気にしてンだよ……俺に"ダイジョーブ?"の一言はねェの?」
「ごめんごめん。"大丈夫"?」
「オウ、問題ねーよ」
血で汚れた袖を捲り上げてリゾットから受け取った治療道具で自分に処置を施していくホルマジオは、こう言うのもおかしい気がするけど、とっても鼻血が似合っていた。ややや、別に貴様は鼻血を流しているのが相応しい地に這いつくばって足を舐めろなんてひと言も言っていないけど、なんとなくホルマジオから感じられる粗にして野だが卑ではない、みたいなそういう某金銀妖瞳と書いてヘテロクロミアと読むタイプの帝国軍人が使いそうな形容の言葉が感じられるんだよ。私だけだろうか。
「いちゃもんつけられて殴られたんだよ」
「避けなかったのか?」
「格闘やってる動きだったし、街中で避けるっつーのも不自然じゃねェかなと思った」
「そうか。災難だったな」
「まったくだぜ」
鼻に綿を詰めたホルマジオはふてくされた顔で頬杖をついた。豪快に足を開いたまま私に茶でも淹れてくれやと要求してくる。構わんよお茶ならちょうど私もおかわりしようと思っていたところだ。
それにしても、ホルマジオにいちゃもんをつけた命知らずはどんな理由を持っていたのだろう。ホルマジオが街中で誰かに付け入る隙を与えるとは思えない。
「私が飲みたいお茶でもいい?」
「おーおー、好きにしてくれ」
許可が出たのでフレーバーティーの缶を手に取った。茶さじですくってポットに落とす。二回繰り返して、リゾットの分も考慮したぶんのお湯を入れた。上司としての気遣いってやつよ。席を立つときに見たらリゾットも残り少なかったからね。言えば淹れたげるのに、自分は自分で何かのついでに淹れようと思っていたのか、それとも私が大雑把にお湯を注いで余ったぶんのお茶を飲もうと思っていたのか、はたまたもう飲むのは止めようと思っていたのか。もし一番最後の理由だったら申し訳ないことをしたなと一瞬後悔したがまあいい。リゾットのお腹の中をたぽたぽにしてやろう。
お茶を持って戻る。ホルマジオは鼻に詰めた綿を替えていた。
「寝転んでなくていいの?」
「血は飲みたくねーからなァ……」
「なるほど」
確かにおいしくないよね、鼻血って。
軽く同意すると、リゾットがほんの少し首を傾げたように見えた。い、いいい、いまのもっかいやって。要求したけど無視された。クールだ。
「鼻血を出したことがあるのか?」
「そりゃあるさ。人生に一度くらいは出すものよ、リゾット」
「どーいうキッカケなんだよ。殴られたワケじゃあねェだろ?」
うん、なんか子供の頃にボーッとしてたところに走って来た大人とぶつかってすっ転んだ時に出た。
「ほー、オメーらしいな。茶、もう出てんじゃねェ?」
「本当だ。アイスにしなくていい?」
「オウ、グラッツェ」
「いえいえ」
琥珀色のお茶をカップに注ぐと、鼻血止めの綿を鼻に突っ込んだ男は大ぶりのマグカップを口元に運んだ。オメーの好きそうな香りだなと言われた。私の好きそうな香りとはいったいどんなもんなんだろう。ああ、これか。リゾットにもおかわりをついだあと、自分のカップから立ち上る湯気を吸いこんでみた。家でも飲んでいるお茶だから、自室でフーゴちゃんとのんびりしている時みたいな気持ちになるな。
「で、どういう経緯で殴られたの?」
満を持して問いかける。ホルマジオはカップの中身を熱がることもなく飲んだ。焦らさないでよお。
「道を訊かれて答えてたら、俺が女にしつこく絡んでると勘違いされちまったんだよ。俺ァそんなに柄が悪ィか?」
申し訳ないが同情した。そりゃ君の髪型と格好が悪いんだと思うよ。私も鋲打ちの入ったその色の革のジャケットを羽織る剃り込み男が女子に話しかけて道の向こうを指さしたりなんだりしていたらすわナンパかと思うもん。たぶん。身体も鍛えられていてがっしりしているし。
リゾットの言葉を繰り返すようだったが、私は「災難だったね」と言うだけに留めておいた。ファッションは個人の自由だし、たぶん殴られた理由の内訳を説明したとしてもホルマジオは何も変えるつもりはないだろうから。



うたたね

※上司部下時代の話



リゾットがソファで眠っていた。
部屋に入った瞬間ソルベとジェラートが口元に人差し指を当てたから何事かと思えば、ギアッチョが無言でソファを指さす。リゾットは膝に本を置いたまま少し首を傾けて目を閉じていた。
「ほ、……ほんとうに?」
出来るだけヒールの音を鳴らさないようつま先立ちでリゾットに近づく。やっぱり目は閉じられている。リゾットを示してみんなに問いかけると、ソルベもジェラートもギアッチョも無言で頷いた。
「そう深く眠っちゃあいねーだろうが、疲れてんじゃねえの。連日どっかのバカ女がリーダーの部屋に来っから」
どっかのバカ女ですみません。気を遣わせてしまっているのかな、リゾットに。負担になっていたのなら申し訳ないなと素直に反省した。
「何かかけてあげなくていいの?」
「かけたら起きるだろ」
「放っとくのが一番だぜ」
「気が済んだらまた動き出すさ」
そんな動物みたいな扱いで良いのか。
そーっと、リゾットの向かいの一人掛けソファに腰掛ける。携帯電話の着信音を切った。リゾットの安眠を邪魔してはいけない。
「昨日は遅くまで仕事だったし、……ああそうそう、ポルポが来たら渡すつもりだっつって予算の書類作ってたからそれもあってあんまし寝てなかったんじゃね?身体は資本、寝られるときに寝ておくべきだぜ」
「身体は資本なんだから冷やしちゃよくないと思うんだけど……暖房つける?」
「ストーブで充分だろ。そう心配すんなって。リゾットちゃんだって立派な大人だぜ。ぷくく」
膝に肘をついて、ソファのリゾットをまじまじと眺める。視線を送っているのは不躾だなと思ったけど、レアな姿を目に焼き付けておきたい気持ちが勝ってしまった。
「リゾットがねえ……」
じーっと見つめる。リゾットちゃんって目を閉じていると可愛い雰囲気出るじゃん。まあ目を閉じてなくても可愛い時はあるんだけど、いつもは"格好いい"、"クール"って感じだから意外な気持ちがある。リゾットが目を閉じてすやすや眠っているところなんてレアもレア。貴重だったら貴重である。野生の動物が敵の前で眠るかって話よ。身内として数えられているようで嬉しいね。絶対入って来たのがボスだったら起きてるし、寝ていたなんて気配はかけらも感じさせなかったに違いないよ。なんで今ボスで考えたのかって言ったらそりゃ手頃だったからだ。ついさっき電話したし。
アレッお前意外と睫毛長いじゃん、から始まる一連の会話はびいえるのお約束だけどリゾットもいつもの赤い瞳が見えないから印象が違ってまた違う方向で魅力的だ。はー、リゾットはナニしててもフェロモン出てるな。プロシュートと並び立てるだけはある。あっプロシュートと並び立ってるっていうのは私の勝手なイメージなんだけどね。同じチームに配属した一番最初の二人だから付き合いも長い。なんとなくそういうところはあるんじゃないかなって思っているのさ。色んな意味で。
なんてことを考えながらリゾットを見ていると、ぱちっと音が立ちそうなほどはっきりリゾットが目を開けた。急に無感動な瞳で見つめられてびっくりして心臓がばくばくと早鐘を打ち始める。うわびっくりした。もっとゆっくり目を開いて眠そうにまどろむシーンとかが見られるんじゃないのか。そんな瞬きでもしたような予備動作もない自然さで目を開けられると、心の準備ができていなくてドキドキしちゃうじゃないか。
リゾットは目を閉じていた時と同じ姿勢からぴくりとも動かず、じーっと私を見た後、また目を閉じた。あっ寝ちゃうの?
寒くないの、と訊ねようとしたけど、リゾットはもう瞼の幕を下ろしてしまっている。そうすると声をかけることが憚られて、私はまたリゾットの寝顔を眺めることになった。たぶん絶対、寝ていないんだろうけど。

それから数回、リゾットは私がそこにいることを確かめるように目を開けて、また呼吸を穏やかに浅い眠りにつく作業を繰り返した。時間にして一時間くらいだったと思う。私はその間本を読んだり仕事の書類に目を通したりと、ローテーブルと一人掛けソファで出来る精一杯の忙しさを演出していた。
あーかったるい、と私が大げさに脚を組んだタイミングで目を開けたリゾットは、強張った身体をゆっくりと動かして軸の傾きを戻すと、まったく何も感じ入っていない表情で言った。
「中が見えるぞ」
そのままどうでもよさそうに目を逸らされた。いや別に見せつけたかったわけでも反応が欲しかったわけでもないが、あんまりにも感動がないのでこの人よっぽど私に興味がないんだなって改めて実感した。イルーゾォならもっと反応してくれるのに。つまらん。
「勝負パンツだから見せても大丈夫なのに」
とりあえず脚を戻した。ソルベとジェラートが笑ってむせた。
「ごめん嘘。今日は普通のパンツです」
「ちなみに何色なんだよ女王さん?」
「レモンイエロー」
「答えてんじゃねえックソがッ知りたくねえんだよこいつの下着の色なんざ!!」
ギアッチョがテーブルを蹴って、それをリゾットが程々にしろと注意する。いつも通りの日常が戻って来て、私もへらへら笑いながら立ち上がった。貴重な一瞬を記憶に焼きつけ、ソルジェラのつくったクレームブリュレの表面を割り砕く。サックリ食べて、息を吐く。
あー、今日は良い日だったなあ。


じぇらしー


駅でリゾットと待ち合わせをする。
ふと見ると向こうに彼の姿が見えたので、ここですよーとこちらから近づこうとして、くい、と手を引かれた。振り返るとチャラめのイタリアーノがにこやかに、少し申し訳なさそうに首を傾げていた。
「美しいシニョリーナ。申し訳ないけど、もし紙とペンを持っていたら一枚いただけないかな」
「構いませんよ。手帳でいい?」
「うん、助かるよ!」
男性に向き直って手帳とペンを差し出すと、切り取り線から丁寧に紙を切り離した男性は、手帳の表紙を台にかりかりと何かを書きつけた。見えた文章には待ち合わせの時間と思しきものが書かれていたので視線を外す。イタリア人だしデートの約束でも取り付けたのかなと適当なことを考えてリゾットの方を見れば、彼はすたすたと、いつも通り特筆すべき表情もなく、無感動な歩き方でこちらにやって来た。
イタリア人の男性が私の手にペンと手帳を握らせたところで、リゾットが影のように静かに私の肩を少し引き寄せた。
「待たせて悪かったな。何かあったか?」
「おっと!これこそごめんよシニョリーナ。恋人さんがいたのかい。お邪魔したね。ペンと紙をありがとう!」
男性は軽快に笑って立ち去った。お幸せにーと祝福までいただいてしまった。祝福されたから結婚でもしておくか?
どうでもいいことを考えてリゾットを見ると、リゾットは立ち去った男性の背中が人ごみに消えるまでじっと見送って、次に私の手の中にあるものを見た。私も視線を下ろし、ペンと手帳をバッグにしまう。
「彼は?」
「ペンと手帳を貸してくれって」
「そうか。他には?」
「特にはなんにも。あ、美しいシニョリーナって言ってもらっちゃった。イタリア人はやっぱりすごいね」
「……お前もイタリア人だろう」
まあそうなんですけどね。実際に言われると感動するものよ。滅多に言われないからさ。
リゾットは私を見下ろして、そうか、と首肯した。するりと手をつながれたので、私も握り返す。
さて、どこへ行こうかな。
いつもリゾットはしっかり手をつないでくれるけれど、今日はそれよりもちょっぴり距離が近いような気がしたので、なんだか自分の立てるヒールの音が浮かれているような気がした。うーん、私は単純だ。