同じ香り

シャンプーがなくなりかけていると知っていたのにすっかり忘れていて、換えを持たないままお風呂に入ってしまった。身体も髪も濡らしてポンプを押したらゲチャゲチャと嫌な音を立てたので、ようやく思い出した。
扉を開けるとかちゃりと音が鳴るのは仕様だ。扉を開けて、どうせリゾットはこっちに用事なんてないだろうと高をくくって全裸で棚を探っていたら脱衣所のドアが開いた。リゾットしかいないのだけど、リゾットが相手だってびっくりするもんはびっくりする。しかしここは大人の余裕を持とう。慌てず落ち着いてバスタオルで全裸をガード。
「どうした?」
スルーされた。ごめんね、挙動不審で。
シャンプーが切れていると忘れていたことと、ストックを探していたけど見つからないことを説明する。そうなんだよ、見つからないんだよね。もしかして買ってないのかな。うっすらと、いつも買っているお店で売り切れていたから買うのを先延ばしにした記憶が蘇って来た。
「どうするんだ?」
どうしようね。
「あ……、もしかしたらアメニティで貰って来たのがあるかも」
仕事でホテルを利用した時とかに、使わなかったものを勧められることがあるんだよね。それ貰ってきてたら使えるなあ。
棚を振り返るより先に、リゾットが口を開いた。
「もしなければ、その時は俺のを使うか?」
「(むしろリゾットがそういうの気にするかと思ってた)」
自分の私物を他人が使うとか。
私の考えていることが判ったのか、もの言いたげな視線が向けられた。私は他人じゃないって意味かな?ありがとうね。

「ありがとう、助かっちゃった。シャンプーは明日買いに行ってくるね」
ポルポは二度目の礼を言ってニコリと笑う。グラスを持ったままソファに腰を下ろすと、その拍子にいつもと違う香りを感じた。続きを借りて読んでいた漫画本を置いて彼女に手を伸ばし、ドライヤーの熱でまだ少し暖かい髪に触れる。
彼女が漫画本を置く動きを目で追ったのは、リゾットと漫画という組み合わせに興味を持っているからか。とりとめのないことを考えているのだろうなと、ぼんやりこちらを見つめ返した瞳から察しをつけた。
リゾットもポルポも、多弁なほうではない。
ポルポの方から話題を切り出すことが多いから錯覚してしまうだけで、実際に言葉にしている数よりも、頭の中で考えて消化してしまっているもののほうがずっと多いのだろう。"言わない"ことを選択するリゾットとは違い、"言うべきこと"をいくつも浮かんだ中からたった一つ拾い上げる寡黙さだ。
髪の質感に大きな変化はなかった。特別な成分が配合されているシャンプーではないからか、もしくはポルポの使っているものと素材が近いのかもしれない。
「今の私はリゾットちゃんと同じ香りがするということかしらね」
そうかもしれないなと相槌を打つ。
立ち上がってリゾットの脚を跨いだポルポは、受け入れたリゾットの肩に触れて、ソファに膝をつく。しばらくの間何事かを考えていたようだが、首の傷に目を留めたリゾットがそれを指で幾度かなぞると、やんわりその手を外しにかかった。
「くすぐったいですよ」
くすぐったがる時とそうでない時があるが、今日はくすぐったかったらしい。
すり寄るように、ポルポが近づいてくる。
違うな、と感じたのは正しく、ポルポからはリゾットの使うシャンプーの、"香りのないシャンプー"らしい香りがした。彼女の髪を除けることもなく首筋に頬を寄せると、無機質な香料の中に彼女自身の匂いが見つかる。
「(近いが、同じではないな)」
「(近いかもしれないけど、同じかと言われるとやっぱりリゾットにはなりきらないなあ)」
二人は同時に同じことを考える。しかし寡黙な者同士、どちらも何も口にすることはなく、ただ黙って身を寄せ合っていた。




TKB

小指ほどの長さのチューブから少量のクリームを絞り出して指にすくう。紅さし指でやれば、主要の三本の指が自由に使えてよいのかもしれないけど、どうにも塗りづらいので結局中指か人差し指を使ってしまう。どうせティッシュがそこにあるんだし良いかなあ、という現代の発展に胡坐をかいた考えだ。
ぬりぬり。特に意識せず、ぼーっとリゾットを見る。

ここはアパートの方の部屋で、私はテーブル席につき、リゾットはちょうどキッチンからカッフェを淹れて戻って来たところだ。さっきまでギアッチョとホルマジオがいて一緒に話をしていたが、話題の切れ目でホルマジオはトイレに立ち、ギアッチョは眼鏡拭きを忘れたと舌を打って自分の部屋に取りに戻っている。
「飲みたいのか?」
カップを口に運ぶ動きを追っていたら誤解されてしまった。大丈夫です、間に合ってます。
首を振って、指に残ったクリームをティッシュで拭う。ふと、リップクリームの、当然と言えば当然で意外といえば意外な効能を思い出した。
「(リップを乳首に塗るとぷるっぷるになるんだっけ)」
指を見て、それからリゾットを見た。自分を責めた。本当に、余計なことを考える癖をそろそろやめたい。ぷるぷるうるうる唇のリゾットだけで色んな意味で可愛すぎておなかを抱えてしまうのに、BLゲームの受けさながらにハイライトの入った胸の飾りヤバい。これは誰の乳首であってもヤバい。九人の最後にギアッチョを想像して、違和感がないことにびっくりして笑いの衝動が引いた。似合うわ。

ゲンドウポーズで己の脳みそを叱咤していると、ホルマジオが戻って来た。
「何やってんだオメー、珍しく真剣な顔してよォ」
ホルマジオにからかうような様子はなく、どうやら本心から心配してくれているようなのだが、その気遣いが有り難くないのはなぜだろう。ただテンションの波が一気に引いただけだから気にしないでほしいんだけど、なぜテンションが上がったのかと聞かれるとリップクリームの万能性について語らなければならないので、説明することもできない。会話がなくなった途端乳首のことを思い出す二十代後半の女、かっこ前世あわせて男日照りかっことじ。こいつあひでえや。

「……なんだよ似合わねえ顔してこっち見てんじゃねぇよ」
戻って来たギアッチョにも表情を指摘されてしまった。私は普段いったいどんな顔をしているのかな。
「笑っている時の方が多いから印象に残るんだろう」
そういうことだと思いたいね。




お は し

今読んでいる漫画のステージが日本の小学校に移ったので、みんなにある質問を投げかけた。
「ジャッポーネの小学校では『お・は・し』の語呂合わせを使って、災害から避難する時にしてはいけない基本的なことを学ぶんだけど、この『お・は・し』の中身は何だと思う?」

我が家のリビングルームは九人の成人男性で見るからにむさくるしい。うーん、むさくるしいというと語弊があるかもしれないな。自分の表現に修正をかける。
メローネやギアッチョやイルーゾォは九人の中でも年齢よりずっと若く見えるし、プロシュートはアラウンドサーティ略してアラサーたる色気を、第三ボタンまで開けたシャツの胸元からむんむんと放っている、ような気がする。くどくない男性らしさだ。そりゃあモテるわ。ソルベとジェラートはひょろっと背が高いけど、男の人とは思えないくらいほっそりしているので圧迫感は感じない。ペッシちゃんはたくましい体躯にふわふわオーラを兼ね備えているから癒しだ。
リゾットはしっかり筋肉がついてるし、背もある。でも彼は、肉体も精神も精錬されたこの集団の中に静かに溶け込んでいるから、そこまでがっつりとした存在感はない。別に、メタリカの能力で周囲の景色を身に投影しているわけじゃあないし、リゾットの影が薄いわけでもない。薄いのは気配だ。癖になってるらしいですよ。暗殺一家の三男かよ。子供の頃から電気を身体に流されているから電流の扱いに慣れていて念能力も電流を利用したものを開発しちゃうんですか?あっ、リゾットの念能力かっこ仮かっことじはメタリカだった。ごめん。
この部屋をむさくるしくしているのはただ一人、テーブルに片肘をついてジョッキに手酌でビールを注ぎ込む男ホルマジオ、こいつだ。筋肉のつき方も身長もこの中では平均的。それなのにどうしてこんなに『野郎』っぽいんだろう。性格か、立ち振る舞いか。剃り込みが問題なのかもしれん。

最初に答えたのはホルマジオだった。
「日本語だろ?イキナリ言われてもうまい具合にゃあ単語が出てこねェけど……『落ち着け』とか、『走んな』とか、そのヘンか?」
「そうそう」
言われてみれば、日本語で確実な日常会話が行える人は三人くらいだ。リゾットと私と、あと一人はなんかたぶんメローネは修めていそうだから数えた。彼の興味の範疇に私が含まれているので、私を構成する『日本語』という要素にも手を広げたに違いない。カンペキな推理だ。
マシュマロをプロシュートのジッポで炙ろうとして引っぱたかれたメローネが手を挙げた。
「避難訓練はどうでもいいけど、もし『お・は・し』で語呂を合わせてポルポを避難させるとしたら、俺はこう言うね。『俺から離れないで。死んだら俺も死ぬから』」
「うわメローネこわい」
私が死んだらお前も死んじゃうのかよ。不慮の事故でも駄目なの?前から思ってたけど君は重いね。いいけど。個人の自由だから何も言わないけど。おねえさん気をつけるね。
日本語を多く扱えないイルーゾォが頭をひねる。
「『お前を離さねえ、死なせねえ』……とかか?」
「ハートを狙い撃ちされた気分だわ。結婚しよ」
「しねえよ!!出来たとしてもしねえよ!!」
長袖の下に鳥肌が立ったのか、イルーゾォはせわしなく腕をさすった。
「こんなにカワイクて胸もデカくて金もあるポルポちゃんと結婚しねえワケが知りてぇなあ、イルーゾォちゃん」
「おにいさんに教えてくれよ。リゾットがどうしたって?」
「説明する前に言ってんじゃねえかよ!!」
当のリゾットは私たちの会話など、どこに吹く風かも気にしない。風力ゼロのまま私の口にキューブ型のチーズを押し付けている。ありがたくいただく。
トマト味のチーズに気を取られていたため、リゾットがイルーゾォをちらりと見たことも、イルーゾォがぶんばぶんばと首を振ったことも気づかなかった。

ホモ疑惑のかかる二人は仲良くソファに座っている。そういえば君たちは『お・は・し』を考えなくていいのかな?こういうネタにはまず食いつくと思ったんだけどな。
ジェラートはあっさりと言った。
「俺ら、答え知ってっから」
「え、そうなの?なんで?」
「ポルポが日本のテーマパークの話をしたことがあっただろ?マジに行ってみた時、リゾットだけが通訳じゃカワイソーだからな」
なんという理由。そして日本語はリゾットだけじゃなくて私も使えるって知ってるのに、通訳者をリゾットに限定しているところが笑いを誘う。だって二人は絶対にしつこくリゾットに言葉を訊ねるし、リゾットはそれらを完全に無視するだろ。ハッピーでドリーミングな夢の国で私の腹筋が鍛えられちゃう。
「それくらいやってくれんだろ、なあリゾット?」
「おにいさんたちのこと大好きだもんなー?」
うるさく絡んだソルジェラに、リゾットが返したのは沈黙だけだった。ほら、やっぱりね。

この青年がどんな回答を導き出したのか知りたくて、欲望のままギアッチョに水を向けてみた。
ギアッチョは焼き林檎にバニラアイスを添えたドルチェをナイフで切り刻み、丁寧に掬い取って口に運ぶ。への字に曲げられるみずみずしい唇はゆっくりと五回開き、五回閉じられた。リビングは話し声に包まれていたが、その間、ギアッチョは一言も喋らず、私もギアッチョを見つめて待機していた。焦らしプレイが上手なツンギレちゃんめ。
焦らしプレイが上手なツンギレちゃんはお皿を綺麗にして、ようやく言葉を発した。
「『押させねえ、走らせねえ、喋らせねえ』」
「限りなく近い!」
「近くねえよ女王さん」
「ある意味正反対だろ?」
確かに一瞬でもギアッチョの標語に反すれば即座に顔面を鷲掴みにして凍らされそうだわ。


私が元暗殺チームリーダーの研ぎ澄まされた優しい心に胸を打たれたのは、持ち込まれた数本のワイン瓶が空になり、2ダースと少しの空き缶が散らばる頃だった。『研ぎ澄まされた』と『優しい』とは矛盾する形容詞に思えるかもしれないけれど、この相反する属性を内包し昇華させる存在がリゾット・ネエロという男なのである。
しこたま酒をかっくらったプロシュートは、ほんのり目元を赤らめて、酒の席にふさわしい気軽さでリゾットに問いかけた。
「テメーはこいつになんつって避難させんだ?」
避難訓練の『お・は・し』の話だ。全員の視線がリゾットに突き刺さる。職業病か、性格か、一斉に注目されたにも関わらず、リゾットの声音には何の戸惑いもためらいもなかった。
「『俺の判断を信じろ』」
すでに考えていたのか、今浮かんだことを口にしたのか。そんなくだらない好奇心も吹き飛んでしまう。
「だ……、……誰を惚れさせるつもりなのリゾットちゃん」
そんなことを言われてぐらつかない人がいるか?私はぐらついた。たぶんプロシュートもぐらついた。私はプロリゾ派だけど、リゾプロもたべられるなって改めて感じた。
責任をすべて自分が負い、相手の命を決断によって守り抜こうとするこの強さ。断固として言い切り、相手に不安を抱かせないやさしさ。これですよ、これこそがリーダーの底力。元上司として自分が情けなくなるわ。惚れてしまうだろ!!やめろ!
「バカかお前!」
感服しきっていると、堪えかねたイルーゾォが思い切り椅子を蹴倒して立ち上がった。誰を惚れさせるつもりなのかという私の渾身の茶化しを全身で否定し異議を唱えてこそ、イルーゾォの本領発揮だし、私のハートも守られる。エロスの矢に九度打ち貫かれたこの大きな胸はもう限界だ。
私の期待を裏切って、イルーゾォは酔いのまわった呂律で叫んだ。
「俺ら全員もう惚れてっから!!」
ごちそうさまです。