26 声に涙が混じる頃


疲れたな。
いわゆるXデーまで残り2か月を切って、私はぱたりとペンを置いた。左腕の痛みはかなり消えて、もう数か月もすれば包帯が取れるのではないだろうか。年末にはこの輝ける左手を存分にふるい、腕立て伏せなんかもできちゃったりして。
「……今年の年末ねえ……」
いやはや、生きているのかしら。
麻薬密輸から手を引いて、ネアポリスは見かけ上は平和だ。私の知らんところで麻薬売買が横行していたら頭が痛いけど、今のところ報告も上がってきていないのでそれを信じる。麻薬が街に流れないとブチャラティがボスへの不信を抱かないのでは?などと囁く悪魔もいたのですがその悪魔ちゃんは天使が調教しました。パッショーネが麻薬取引やってることは暗黙の了解なんだから、うちで取り扱わなくてもどっかで耳にするだろうという他力本願だ。
ん、もしかして麻薬をやっている男の子の腕を自分にくっつけないと、ブチャラティは研ぎ澄まされた精神(笑)のままジョルノに殴り殺されるんだろうか。それは笑えない。
「いやいや、ルカの事件をこっちで処理すればいいのか?」
質問は拷問に変わっているんだぜとかあの謎のテンション。なんだろう、ボスから直接命令が届いたからあんなに浮かれていたのかな。まさかね。ボスもなんでブチャラティに依頼するんだって話だし、おそらく私を通る指令だろう。私が単独で行くか、ブチャラティにくっついて行くか、どっちかの予定で進めようかな。ふたりとも黄金体験さまにぶん殴られたらアウトだけどね。まあブチャラティの輝きがあれば何とかなるんちゃう?なってくれなきゃ困る。私は高楊枝でどっかり構えていたい。

がり、と音がしたわけではないが、イテエなと思ったら指を噛んでいた。ちょっと血がにじんでいる。すげえポルポさん指食ってる!食うよ。そりゃ指も食うよ。この先忙しすぎるもん。血がにじむほど指を噛むってなかなか難しいけど、考え事に熱中していたりするとうっかりやっちゃうよね。
そろそろ、癒されに行こうかな。
指を噛むのは一種のバロメータだ。よっこいしょと立ち上がって、冷え込むネアポリスの街に繰り出すため、コートを羽織った。自分でボタンをはめられるようになったのは先月のことだけど、その前までは前を開けっ放しにするか片手で押さえるか誰かに頼んでいたのだと思うと、傷の治りを実感できてうれしい。
おつかいに出かけているビアンカに書置きを残して、ハートマークを添えて仕事場を出た。ハートを描いておけばなんとかなると思っている。実際に何とかなっているし。

北風に吹かれる身を縮めて、コツコツ、ヒールが立てる音でリズムを取りながら、のんびりと石畳の街を歩いた。急がず、お土産も買わず、呼吸のたびに生まれる白い息を空に溶かしながら、二階建てのアパートを目指した。
足音を立てようと、立てないように気を遣おうと、家主は私の接近に気づいているだろう。どの辺りまでが索敵範囲なんだろうと気になって色々と試してみたけど、使用中のバスルームに侵入した瞬間にシャワーの水をぶっかけられて逆に脅かされたのでそれからは調査をやめた。知らない方がいいこともあるよね。腹抱えて笑ってたプロシュートいつか泣かす。
あってもなくても変わらないノックをして、鍵の開いている扉を開けた。ついていない靴の土を落とす。26年もやってりゃあ慣れもする動作だ。
リビングを覗いて、誰もいなかったので引き返した。リビングの入り口から数えてひとつめの扉は洗面所とその奥のバスルームにつながるもので、ふたつめがリゾットの私室というか寝室というか。反対側には客間とか物置とかトイレとかいろいろあるけどまあ割愛。とにかく重要なのはふたつめの扉だ。
「入ってもいいー?」
ノックをしても返事がないのはわかっている。いや、もしかしたら返事をしてくれているのかもしれないけど聞こえない。申し訳ないけど聞こえない。なので、私は声をかけることにしていた。予備動作がないと、エロ本とか隠す時間がないじゃん?リゾットが読んでるエロ本すごく気になるけど、ディ・モールト気になるけど、ベッドの下をさがしてもいいですかと言ったら好きにしろって言われるのが目に見えているので言わない。たぶんもっと巧みな隠し方をしていると思うんだよな。私は背表紙のしっかりしている映画雑誌の中身を全部切ってその隙間に詰めたりしていたが、それよりももっとずっと巧妙な。
くだらないことを考えながら扉の前でボーっとしていたら、かちゃりと静かに扉が開いた。目が合って、私は自分の表情が緩んでいくのを感じた。これこれ、これですよ、このこっちのことなんかどうでもよさそうな目。冬なのに前がら空きのコート。なんなの、そのクロスしたベルト。かわいいな。金属冷たくねえのか?
部屋の中に入れてもらって、コートを脱いだ。ほんのり暖房が利いていてあたたかい。チョーカーがずれた気がしたのでちょいっと指で直して、コート掛けに上着をかけさせてもらう。片手でやるのももう慣れた。
「仕事忙しい?」
「それほどでもない、というか、すべてお前から回ってきている仕事だ」
「それもそうだわ」
ナターレの期間はさすがに組織も浮かれたムード一色だけど、その間止まっていたお仕事は休み明けに一気に飛び込んでくるわけで。ちなみに言うと暗殺チームはおそらくほぼ世界じゅうが浮かれているその期間が刈り入れ時(書き入れ時ならぬ、命的な意味で)なわけで。その報告書とか、月初めの予算申請とか、お仕事は多くないものの途切れないのだ。
「……」
「……」
もちろん、そんな話をするために来たわけじゃあない。ないったらない。先に考えてかなしくなっておこう。私今年で26歳だけど!!これはいわゆる魂の息抜きだから!
ぎ、と背もたれを少し軋ませて、身体を椅子に預けたリゾットは、コート掛けの横でタイミングを見計らっている私を向いた。回転する椅子、超便利。リゾットの手は前でかるく組まれているけど、そういうの、関係ないよね?もう、行っちゃっていいよね?だって目の前にめっちゃくちゃおいしいアイスがあって、それのふたが閉まってたからって食べるの諦める?そんなわけない!ふたを、開ける!
「リゾットー!」
私は両手を広げてリゾットに駆け寄った。腕に響くと怖いので、インパクトの瞬間はそろり、と動きを止めて、リゾットに抱き着いた。帽子のあのなんか自分の名前が一文字ずつ彫ってあるあれがひんやりする。なんで彫ってるんだろうね。アピール激しいよね。全身で訴えてるもんね。
のんびりした動きで(のんびりってリゾットに似合わない形容動詞だけども)腕を広げたリゾットは、私の背中を軽く支えた。そうだね、私、いまかなりおかしい体勢だもんね。片脚を床について、片膝を椅子にひっかけて、上半身をリゾットに預けている。
すはすは呼吸を繰り返していると、だんだん胸が切なくなってきた。私、まじで、春を越せるのかなあ。
「……はあ……」
落ち着く。考えはまとまらないし結論は出ないけどとにかく落ち着く。ぎゅうと腕で締め付けて思いきり密着してからちょっと離れた。表情にまったく変化なし。またいつものあれか、みたいな雰囲気だ。そう、いつものあれだよ。
チョコラータとセッコにバイバイ事件で大泣きしてから、私がリゾットにとてつもない安心感を抱いていることに気づいたので、疲れたり、もうやってらんねえボス殴るぞ!って思った時にこうやってちょっと胸を貸してもらっている。胸って言うかもう全身だけどな。仕事できなくしてごめんね。でももう今年に入ってからカウントダウン入っちゃったからね。やばいね。でも、そんな時でもリゾットテラピー、とても落ち着く。ディ・モールト落ち着く。
じいいいいと見つめ合っているだけで目の奥の筋肉までほぐれそうだ。目薬要らず。ついでに涙腺まで緩んできたけどさすがにそれはない。26歳として、ない。このままだと本当に泣いちゃうな、と思ったので、リゾットから離れることにした。
「ありがとう、もう落ち着いた」
「そうか」
「うん。……あの、だから離してくれていいんだよ?もう足ついたよ?」
背中というか腰というか、後ろで手を組まれたままなので、椅子の背もたれに手をついた状態で身体が傾いている。バランスが悪いので、何となく腰を下ろした。オンザリゾットズ片膝。
「重くない?足痺れない?痺れたら教えてね」
「お前の重さには慣れている」
「……今のは嘘でも重くないって言うところなのでは」
「重くない」
「……おう、ありがとう」
汗かかねえから嘘なのかジョークなのか本気なのかわかんないしかいていたところで私は舐めても味がわからん。
「……」
改めて向かい合うと何を喋っていいのかわからない。特に何か話したいことがあったわけでもないから。抱き着きに来ただけだ。かなり暇な上司だな。リゾットたちはよくついてきてくれるよ。本当に、よく。
私は彼らに何かを返せているだろうか。特別ボーナスに私の人生をあげちゃう、なあんて格好いいことを言って、みんなの人生をかっさらってみたのはいいけれど、結局のところ、頼るばかりで何もできていないような気がする。
「……」
何か欲しいものがあるか、なんて、訊ねたところでどうにもならない。それを与えれば解決する話ではないからだ。私は口を開きかけて、やめた。

突き詰めてしまえば、きっと私は私自身に価値を見出してほしいのだ。誰かから必要とされたいのだ。エゴの塊でしかない。けれど、今はそれを考える時期じゃない。私には、私の自己満足を振り返って自分を嫌悪する時間なんて一生来ない。来てはいけないのだ。ひとの上に立つ人間として、もう、彼らが、そしてもうひとつの彼らが、私についてきてくれているというだけで、充分じゃないか。私のために誰かに怒り、立ち上がり、私を心配してくれて、私と笑い合って話をしてくれる。今までの自分を否定するということは、その想いを踏みにじるということだ。それは、できないし、一生しなくていい。だから私は後悔しない。
だけど、と、頭の片隅で誰かが囁く。それは私の影だろうか、それとも前世の私か。
その私は本物の私?
ふたつの人生を、前の記憶を持っているからだろうか。クソ、と悪態をつきたくなる、アイデンティティを揺さぶるそれ。"ポルポ"の役割を知っていた'私'が、それを演じているだけなのではないか。本当の私はそんな強く、物わかりがよく、おっぱいが大きくてギャングの幹部で、色んな人の命を受け止めて、つよく、つよく、つよく生きられる人間じゃあないのではないか。そう、日本人の××は、もっと弱くて矮小な生き物だった。度胸もない、普通の女だった。
「……」
リゾットと目を合わせていられなくて、黒い……これはなんなんだろう、コートを直着なのか?とにかく黒い服に視線を移した。
"私"っていったい誰だろう。
そんな小学校の道徳の教科書に載っていそうな、答えの出ないことを考えた。ポルポって、私のことかな。みんなから呼ばれて、返事をするから、たぶん私のことなんだろうなあ。
つうか、どんな家庭に生まれれば名前にタコってつくんだよ。おかしいだろ。タコはストレスで自分の指を食うんですよ、ってやかましいわ。今までの私の行動をすべて"ポルポ"がやっていたかと思うと腹がよじれそうなほど気持ち悪いが、イタリア語の感覚でポルポって呼ばれてへいへいタコね、って思いながら返事してたのもかなりきつい。タコな。タコだからな。タコってあれだぞオクトパスだぞ。ひどすぎる。

ポルポ、やめたい。
じわ、と涙が浮かんだ。そうだよ、ポルポやめたいよ。なんだよタコって。なんだよ、矢を飲みこんじゃったスタンドって。なんだよ、ギャングって。なんだよ、幹部って。なんだよ、なんで私なんだよ、アホか。死んじゃうよ。死にかけたこと、何回かあるし、このままじゃ、私死んじゃうじゃん。
なんで死ななきゃいけないんだ。話の流れか。ソルベとジェラートは死ななかっただろ。私も、私も死にたくないよ。
そうだよ。私、死にたくない。
自分の中で凝っていたいくつもの汚い感情の塊を押しのけて、生きたいという気持ちが胸に灯った。二度も死ぬのは嫌だとか、痛いのは嫌だとか、みんなを置いて行きたくないとか、そんなことは今はどうだっていい。とにかく生きなきゃ。そう思って、顔を上げた。
死なないためにフラグを立てなきゃ。イタリア人に限ってブチ折れる死亡フラグを立てなきゃ。
リゾットと目が合って、睫毛にたまっていた涙がぽろりと落ちた。ごめんズボン濡れたかも。
「私、この戦いが終わったら結婚する!」
「……」
「よし、これで無事に生き延びられるはず」
「意味がわからん」
だよね。わかんないよね。でもこれでいいんだ。私、イタリア人だから、これで生存フラグ立った。
小さく首をかしげているリゾットが可愛かったので、私はその首に抱き着いた。
「誰と結婚するんだ?」
「え?いやあ、……そうだなあ……うーん……」
言っておけばなんとかなるだろ、と思って口にしたものの、きちんと相手も決めておかないとダメなのだろうか。どうしようかな、手近なところで、と漁りたくても周りに男がいねえ。ドッピオとかスクアーロとかティッツァーノしか知らねえ。あいつらは、ない。ボスに近いという意味でも、ない。
「……相手も決めておかないとダメなのかな?」
「俺に聞くな。……何かのジンクスか?」
「うん、まあそんな感じ。戦いにおいて、イタリア人は婚約者とか恋人とかの存在をにおわせる発言をすると死ななくなる、みたいな?」
「なるほど」
リゾットの手がやんわりと動いて私の肩を軽く押した。されるがままに、抱き着いていた腕をほどいて、こぶしふたつかみっつ、みっつは入らないかな、というくらいの距離でリゾットと向かい合う。未だに私、オンザ片膝。痺れないのかな。
関係のないことに思いをはせかけた私は、するりと指で、頬にかかっていた天パの髪を耳にかけられて、ふるりと震えた。くすぐったい。
どうしたの、と訊ねようとした言葉が喉でつっかえた。髪を耳にかけたその形のまま、リゾットの手が頬に添えられる。親指で軽く目元をなぜられ、私の唇がうすく開いた。たぶん、何かを言おうとしたのだけど、微かに細められたリゾットの目をまともに見てしまって動きが止まった。
「ポルポ、この戦いが終わったら結婚しよう」
「……」
いま、なんて、言われた。
一瞬前の「ジンクス」という言葉がすっぽ抜けて、私はただリゾットの眼差しと手の暖かさだけを感じていた。言葉が心にゆっくり染みて、脳みそが回転するより速く、じわりと顔が熱くなった。やばい、と思った時には遅かった。
「うわああああ」
両手で顔を覆った。顔が真っ赤になっているのがわかる。自分でわかるんだもんもう傍目から見たらヤバい光景だ。26歳、26歳にもなってこの体たらく。自分から仕掛けるのは全然平気なのに受動耐性対男がなさすぎた。
「わ、私、ものっすごく照れてる!すごいごめん、ちょっと待って!!ダメだ、モテない人生送ってきたからこういうのに慣れてなくてごめん!」
慣れてなさすぎだろう。ジョーク仕掛けたらガチ反応が返ってきてリゾットもビビるよ。ごめん、すごいごめん。ディ・モールトごめん。でもリゾットに言われたらそりゃ転ぶわ。
ドン引きされたなとものすごく後悔していたら、頬に当てられていた手が頭の上に移動した。優しくなでられて、よけい居た堪れない。詰って。今すぐ私を詰って。常に非モテだった私を。うわあああ誰か助けてくれ、まだ顔の赤みが引かないんだよ。
「リゾット、わ、私を詰って!!」
「落ち着け」
「うわあああそう言いながら手を取らないで!」
顔を覆っていた両手が取られて、火照った頬には暖房の風も涼しく感じられるくらいだ。冷静になれ私は'ポルポ'、私は'ポルポ'とさっきまでクッソ悩んでいた現実を引きだして念じるくらい動揺していた。ようやく心臓が落ち着いてきて、私はハッとあることに気づいた。
「ご、ごめん!ジンクスとはいえ、凄いこと言わせちゃった!」
ここイタリアはカトリックに染まっている。人口の9割はキリスト教の教徒と言っていいほどだ。ぶっちゃけ私は八百万の多神教の国で生きた記憶を持って生まれてきたので、クリスマスイエーイとはしゃぎはしても、そこまで敬虔な信者ではない。だからというのは言い訳にならないが、特に何も考えずさっきの結婚云々を口にしてしまった。けれど、キリスト教が離婚をみとめない性質を持つ宗教であることもあって、イタリアの人はとても結婚に慎重だ。つまり何が言いたいかって、リゾットに非常に申し訳ないことをしてしまったということだ。いや、ジンクスだからいいのか?でもそのセリフは恋人に取っておきたかった、だろう、けど、えっと、でもちょっと待てよ、私が言わせたことになるんだろうか、これ。リゾットが乗っかってきただけで私は悪くないのでは?
「あれ?これ私が悪いのか?」
「なにがだ?」
なにがだ、って、なにがってあんた。
私は恐る恐るリゾットを見た。怒っている、ようには見えないし、至って平然としている。いつも通り、変わらない気がする。少し不思議そうにしているくらいか。
「人生に一回こっきりとも言われるイタリア人のプロポーズの言葉を言わせてしまって、悪かったかなと思ったんだけど……あんまり気にしてないね、リゾット」
「ああ、そのことか」
軽い。非常に軽い。この間じゃがいもに芽が出てたよね。そういえばそうだったな。そんな感じだ。
「ジンクスなんだろう?」
「……そ、そうね、ジンクスだね。うん、……いいならいいんだ。これでお互い生き残れるね」
「そうだな」
私はほっと安堵のため息をついた。よかった、普通のリゾットだ。
取られたままの両手を軽く引っ張ると、ちらりとそれを見たあと、リゾットが手を離した。私はもうどちらの体温がうつったのかわからない、ぬるい手でもう一度頬を押さえた。ああ、びっくりした。何にびっくりしたって、素直にときめいた自分にびっくりした。リゾットでよかった。プロシュートだったら目も当てられないしメローネだったらあの瞬間食われてた。落ち着いて何事もスルーできるリゾットでよかった。
「お、おじゃましました。……ベッド借りて寝っ転がってもいいですか?」
「俺は……構わないが」
「うあー、ありがとう……」
私はよたよたとリゾットの膝から立ち上がって、ちょっと歩いて、リゾットのベッドの脇で靴を脱いだ。つやりとした高いヒールがころんと横を向いたけど、もうなんでもいいや。
両方脱ぎ捨てて、しばらくじっとして、ふっと思い出してしまって照れた。
「(うううああああ)」
ため息みたいな呻き声を、顔を覆った両手の中にしまって、私はこてんと横に倒れた。リゾットの枕やわらかい。柔軟剤使っただろ。使ってません!はあ、もうどうでもいいよそんなこと。背中にリゾットの視線が突き刺さっている気がするんだけどこれは気のせいだよね、気のせいだって言ってくださいミサッさあん!混乱する思考の中でシンジ君が叫んだ。そしたら心の中の葛城三佐が逃げちゃダメよリゾットから何より自分から、って言ったので、もぞもぞと身体ごと振り返って、顔だけをリゾットの方に向けた。目の所だけ指の隙間を開けて見てみたら、ばっちり視線が合ってシンジ君が悲鳴をあげた。脳内で。悲鳴をあげたいのは私だ。
「ゆるして!」
「何も咎めていない」
「知ってる……くっ……くそう……危なかった……、ポルポでよかったあ……一生起き上がれなくなってるところだった……」
「……」
私は"ポルポ″、私は"ポルポ"と念じる。ブフゥーと息を吐かないとクラッカーも食べられないデブ。よし、よしよし、いい感じに落ち着いてきた。そしてそう考えると"ポルポ"にプロポーズの真似事をしたリゾットが可哀そうすぎる。ごめん。
はふー、と息を吐きだして、仰向けのまま正面を向いて天井を眺めて、ぱたんと両手を下ろした。横に投げ出しているのもしっくりこなかったので、お腹の上で指を組んだ。膝を立ててみたり、おさまりが悪いなと思って片方だけ伸ばしてみたり、頭の位置を調節したりする。そういえば、そもそも仰向けで寝る習慣がないもんだからそれがイカンのか、と気づいて、いつも家で寝る時みたいに右側を下にして、ちょっと背を丸めた。左腕を庇うために始めた寝方なんだけど、意外と寝心地がいいのだ。うずくまるような姿勢は母親の胎内に帰りたいという回帰願望を表すというが、本当だろうか。もしそうだとしたら、私は誰の所に帰りたいのだろう。ま、難しい話はいいや。
「寝るのか?」
「……ダメですかね?」
完全に寝る体勢で待機しておきながらいまさら聞くのかよ、と言う感じですよね。リゾットは珍しく、言葉を迷う様子を見せた。
「……客間じゃなくていいのか?」
「うん、リゾットんとこがいい。だってリゾットちゃんとハグするとめっちゃ落ち着くし、手つないでると安心するし、もうこりゃリゾットちゃんの匂いに包まれて寝るしかないと思う。最近、……ちょっと、疲れたし」
言ってることきもちわるいな私。ごめん。今日何度目かわからない謝罪を脳内で済ませた。眠りに移行する前の、できているのかできていないのかわからないくらい浅い呼吸も、ふいに訪れる深呼吸も、とても心地よい。リゾットの香りとかいうアロマが出たら買ってしまうな。よだれだけはたらさないように気をつけよう、と考えながら、私はゆるやかな眠りに落ちていった。

「ん……?」
間近に誰かの気配を感じて、なんて言えば格好いいけれど、感じたままに表現すればマットレスの一部がふいに沈んで、なんとなく体のバランスが崩れたため、私は眠い目をこじ開けた。
薄暗くてよく見えない。鳥目かな。ビタミンとらなきゃ。ぼけっとそんなことを思いながら、すぐそばにある人影に手を伸ばした。よく考えればここはリゾットの部屋だから、リゾット以外に人がいるはずがないんだけど、いかんせん寝ぼけているので、この時の私にはここがどこかもよくわかっていなかった。
「起きるか?」
そんな鼓膜にじんわり染みる良い声で言われても、起きられん。リゾットの声だなあとよけいに安心してしまって、私は起きない、とつぶやいた。
「もしかして、リゾットちゃん、寝らんない?」
「……寝られない、ということはない」
このベッド、結構広いもんね。やっぱ身体のデカさの違いだろうか。場所取っててごめん。
色々なことが取り留めなく浮かんで、私はずりずりとリゾットと反対側に寄った。下がり切って、壁に背中がぶつかって、これ以上は無理、という意味を込めて空いたスペースを軽くたたいた。後から思うと、本当にリゾットに申し訳ない。ここは誰のベッドだってリゾットのだよね。本当にすまん。とはいえ、何度も言うようだけどこの時の私は半分夢の中だった。
「やっぱあれか……あれか……背中を…………」
「……」
「……あっ……なんだったかな?」
夢と現の狭間をたゆたって、気持ちいいなあ、ずっとこのままでいたいなあ、そんなことを思いながらへらへらしていたので、首の後ろに触れた手がチョーカーをしゅるっと外しても、くすぐってえー、のひと言で終わらせてしまった。そのまま少しの間離れた手が、指がまた首筋に寄せられて、ぴた、と私の耳の下ら辺を軽く押さえた。
「お前の名前は何というんだ?」
「なまえ……私の名前は―――……」
あまりにも自然に、さっきと変わらない低めの声でそんなことを訊ねられたものだから、私はふわふわと浮かんだ名前を舌にのせかけて、そこでぱっと目が覚めた。
「うおあああああ!何だ今の!?何訊いてんだよ!!ポルポだよ!!」
あっぶねえええ。ありもしない罪を自白させられるところだった。
一気に覚醒して壁にぴったりくっつくように逃げて、軽く頭も持ち上げたため、心臓がばくばく言っている。胸に右手を当てて上がった息を整える。私がいきなり動いたにもかかわらず、ベッドに軽く手をついてバランスをとったリゾットの伸びた腕、その先の指はまだ私の首筋に当てられたままだ。なんで嘘を発見しようとしてるんだよ。これ眼鏡の小学生がFBIの潜入捜査官にやられてたよ。
「……ポルポ?」
「う、うん、ポルポ、……そう、私はポルポだよ。びっくりさせないでよ、寝起きに悪いよ……」
「すまない。お前が眠る前に言っていたことが少し気になってな」
「な、なんだ……?私なんか言ったかな?」
寝る間際の記憶なんてあいまいだよ。リゾットはじっと私を見て、いや、と短く言った。指が離れる。
「覚えていないのなら、いい」
すげえ気になる。私はいったい何を口走ったんだ。私の名前を訊いてきた、ってことは、なにかうっかり前世の話をしてしまったのだろうか。それ厨二すぎる。この年になって前世を語り出すとかかなりきつい。アウトかセーフで言ったらどんアウトだ。
もやもやしている私をよそに、リゾットが私に背を向ける形でベッドに横になった。もうこの話は終わりということか。アドバンテージが取れません!
むしゃくしゃしたので、肩まで掛け布団を引き上げたリゾットに後ろから貼りついた。このまま寝づらい夜を過ごすといい。おやすみ。
「……こ、こいつ寝ている……!?」
反応ねえな、やっぱり慣れてるのか?と思ってそっと起き上がって覗き込んだら、なんとリゾットは寝息を立てていた。馬鹿な、早すぎる!
マジで?
そーっと手を伸ばして頬をつついた。反応なし。指の背中ですりすりすりすり撫でた。反応なし。パターン青、寝てます!
「まじかあ……あ、でも前みたいに実は起きているっていうのアリアリアリアリアリーベデルチだからな……」
ベッドにお邪魔したら寝かせてくれって懇願されたことを思い出す。あの時はなんて可哀そうなんだと同情したけど、今の私にはさっきビビらされた恨みがあるので強いぞ。デーボ並みに恨みで強くなるぞ。呪いのポルポ。なんかB級ホラー映画みたいだな。ポルポってつまりタコだし。
それにしてもなんだろうね、ひとつのベッドに男と女が寝てるというのにこの色気のなさは。いや、色気を期待しているわけじゃあないんだ。昼間みたいなマジ照れ1000%な出来事が起きても困るからな。膝に矢どころかハートに矢を受けてしまって死ぬよ。
リゾットの寝息がすやすやすやすや心地よさそうだったので、気持ちよい眠りを妨げられた身としては(そもそもここが誰のベッドかって言う話は置いといて)、多少なりとも寝苦しくなってもらわねば気が済まんね。リゾットは寝苦しく、かつ、私は気持ちよく。ところで、時々頭に浮かぶ顔文字がだいたい樹海に走るそれだというのは何かの暗示なのかな。閑話休題。
私は横を向いていたリゾットの肩をできるだけ優しく引き倒して、もぞもぞと布団にもぐりこんで、べちゃりとリゾットの胸の上に乗っかった。腹筋かたい。あったかい。私の身体が三分の一くらい乗っかっているのに呼吸に問題がないみたいですごい。トトロの上ってこんな感じなのかな。硬すぎるトトロ。気に入らない侵入者をメタリカ。森が血に染まるわ。
「はあ……寝るか……」
すりすりと腹筋とか腕の二頭筋か三頭筋かごっちゃになる筋肉とかを撫でさすってからリゾットの胸の上に頭を戻した。よかった心臓動いてる!このひと顔色変わらないし体温低めだからちゃんと生きてるのか心配になるんだ。
しばらく、ゆっくりした呼吸を繰り返して、それから気づく間もなく、私は眠っていた。

朝起きると隣、いや、下には誰もいなかった。早いなあ暗殺者の朝。まだ小鳥が鳴いてる時間なんだけど、まさか早撃ちの練習ならぬメタリカの練習をしていたりするんだろうか。は、それともドッピオの足元に投げたあのナイフの投擲の腕を鍛えているとか。地道な努力があの場面につながっているのかもしれない。まああのあとズタズタになるのはどちらかというとリゾットなんだが。
私は掛け布団に頭までくるまって、ちいさくちいさく丸まった。冬は布団から出たくないよね。冬の朝の二度寝は最高だ。それが許される職場でよかった。おかげでどんどん退勤時間が遅れて宵っ張りになっていくよ。
布団の中にこもったあたたかさを感じて目をつぶっていると、かちゃり、と小さな音を立ててドアが開いた気配がした。リゾットちゃんが戻ってきたのか、二度寝するのかな。様子をうかがう。
うん、わからん。足音が全然しないから、どこにいるのかも定かじゃない。自然と息を詰めて耳をそばだてていたので、ぎし、とベッドが軋んで死ぬほど驚いた。声は出さなかったけど肩が跳ねた。ていうか私今、寝ながらにして飛んだ?感覚の目で見たらチャリオッツが鎧を脱いでいたりしないかな?
「……」
なぜか寝たふり、いや、何もしていないふりをしてしまう私。願わくば、リゾットがあっち、反対のほうを向いてベッドに無造作に腰かけたのでありますように。
願っておいて身もふたもないことを言うようだけど、んなわきゃないよな。毛布と羽毛布団で隔てられているのに、色んなところから視線が突き刺さるような気がしているよ。起きるタイミングを完全に逃している。リゾットが入って来た時点で起きているよと示すべきだった。
二度寝どころかギンギンに冴えてしまった目を暗い毛布の中で凝らして息を殺していると、布団の外でリゾットが言った。
「朝食を用意したが、寝ているなら―――」
「食べます!!」
飯には勝てん。
「そうか」
「リゾットちゃんの手作りなの?」
「……まあ、半分はそうだな」
もう半分はなに?牛乳とゆで卵を用意して、たまごは茹でたぞ、みたいなオチだったら腹抱えて笑う。そんでリゾットのことをブチャラティレベルの天然だと位置づける。いや、ブチャラティは真剣に天然なのだけどリゾットはちょっと狙ってるのかわからんところがあるからな。8歳差、かなり違う。関係ないけど8歳差のリゾブチャもすてきだなって前々からなんとなく思ってたんだ。いつか仲良くなって一緒にお出かけとかできるといいね。私が。
「さすがにひでえ格好だから着替えてくわ」
「ポルポが気になるならそうするといい。着替えは……知っているか」
「うん」
マジでリゾットちゃんはイタリア人なのかな?イタリアの人はかなりマナーに厳しいけど、なんていうか放任主義、だよね。26歳にもなってもっとしゃんとしろ、とか言わないしね。まあアバッキオにしか言われたことないけど。
着替えて向かった食卓には、わかるわかるーイタリア人って朝あんま食わねえよな、みたいなテンプレ通りの朝食と、それよりも量の多い、パンに野菜とかお肉挟んだり彩を添えてみたりしたものがわっと並んでいて、思わずリゾットに結婚を申し込みそうになった。なんていう良妻なんだ。見て感動して、食べてさらにおいしくて感動したので、私はすべての感情をこめてリゾットに言っておいた。
「リゾット、いいお嫁さんになれるよ!」
「……」
返事もしてくれなかった。