食中毒にご用心


気がつけたのは幸運だった。
不意に鼻先をくすぐった薔薇に似た香りが鼻腔の奥でぶわりと膨らんだ。うわっこの人香水きっついな。そんなことを考えた。一瞬だけだ。当然表情には出さないし、そもそも単にすれ違っただけの間柄で、顔見知りでも何でもない。
薔薇の香りが振り返り、吊り上がった眦が私を非難して止まなかった。オマエノコトヲミテイルゾ。そんな目だった。
「(顔に出ちゃったか?悪いことしたな)」
かすかに触れ合った肘が離れ、通りすがりの通行人は香りで道を作るように大股で去っていく。
何となしにその後ろ姿を肩越しに見送りながら足を進め、おっと、とたたらを踏んだところを親切に支えてくれる手があった。大丈夫ですかと言われああすみません躓いちゃって、としなびた笑顔でお礼を言う。前方不注意も良いところだ。人混みを歩くならもっとしっかりしなくちゃいけない。
もう一度お礼を言うために今度は正しく笑顔を浮かべ、相手の目を見ようとして、その襟首から覗く白い鎖骨に視線を引かれた。
「(あ、キスマークついてる)」
「えっ、うそ……、あ、ッあいつ……出がけに……!?」
「え?」
「あ、あの、教えてくれて……あの、……ありがとうございます!……それじゃあ!」
親切な人は両手でシャツの襟をかきあわせ、逃げるように雑踏へ消えてしまった。
「……えええー……?」
まともにお礼も言えないまま終わった会話が、頭の中で冗談みたいな回路をつなぐ。

まるで私が考えたことが伝わったみたいだなあ。

何を暢気に感想をぶっこいとるんだ私は、と光の速さで今の麻呂なら百回なら言える。百回どころか百万回言える。zipでおじゃより素早く言える。
伝わってんだわ。
RAPよりも強烈に。
頭痛薬より即効で。
私の脳内は駄々洩れだった。





私の脳内が駄々洩れであっても地球は回る。時間も進む。どうしたもんかと一人で悩んでいてもしょおおおがない話なので、頼りになるオブ頼りになる男たちが九人も集まるむさくるしい巣に帰ることにした。
合鍵でドアを開けて、くつろぐ男の数をかぞえる。ふむふむ三人。リゾットホルマジオペッシ。ペロッ……これは詰みだな。侮りではなく専門性と共感の問題だ。ここ以上に安全な場所はないものの、コネクションや謎の知識に強そうな人材がいない。まああえて言うとしたら、リゾットはサトリサトラレの辻スタンド使いに一撫でされて一時的な特殊能力持ちになってしまった経験があるから、多少は対処法に心当たりがあるかもしれない。
「というわけです。どう?」
「……って言われてもなァー……」
ホルマジオは大げさに腕を組んだ。
「でも、本当に原因に心当たりはないの、ポルポ?」
「ないのよこれが」
仕事がら四方八方から恨みを買いまくっている覚えはあるけれど、スタンドを失った身でも視認は可能なのだ。攻撃されれば、よほど隠蔽されていない限りわかるだろう。
基本、身近にはセコムとしてガチつよ勢がついているのでおかしな出来事に巻き込まれかけても小指一本で阻止されそうだし、仮にコンビ芸で襲い掛かられたとしても"背後から近づいてきたもう一人のスタンド使いに気づかなかった"、なんて事態も想像しづらい。
「オメーに触ると、オメーの思考が読めるってわけか」
「そのようですね」
「なるほどなァ」
心配げな顔をしたペッシの横からホルマジオの手がぬっと伸びる。差し出されたら掴んでしまうのが人のさが。
硬くて乾いた分厚い感触が、想像よりも強い力で私をつかんだ。えっ。
「つまり質問すりゃあ嘘偽りなく答えていただける、ってワケだよなァ」
「はぇ?」
「"結局オメーは『あの時』にナニをされた"?」
「おま」
振りほどこうとしても無理だった。力が強い。引っ張り寄せられ、たたらを踏んで、無情な質問をきっかけに脳裏を駆け巡った気色の悪い記憶が体温を通じて流れ出す。おいふざけんなポルポだって人間だぞ。隠し事だってあるしびっくりさせられたら驚く。
遠心力に任せて放り投げるように腕を振り回しても拘束は外れず、馬鹿が馬鹿なりに馬鹿馬鹿しく隠していたつまらない悲喜劇がつらつらと体温を伝ってホルマジオの記憶に焼きつけられたのがわかった。女の子かっこ二十六歳かっことじに対してありえない無体を働いたくせに、無作法な側が渋面を作るのはいかがなものか。ひたすら呪詛と最近見ためっちゃ怖い映画の一場面を思い浮かべた。
「もおおおおほんっとにやだ。こいつやだ。マジで何なの。終わった話を掘り返して誰が楽しいわけよ」
「あのなァ……オメーが正確に話さねーからだろーがよ。こっちとしちゃあナニが地雷か把握しておかねェとおちおち乳も揉めやしねェ」
「おそるおそる私の乳を揉んでた時なんざ一瞬もないじゃん。常に堂々と揉んでたじゃん」
今さら思慮深いつらをするな。あとリゾットに私をパスするな。きみもどっちかっつーと躊躇なく揉むだろ。
思考だだ洩れの経験を持つネエロ先輩は、軽々投げて寄越された私を難なく受け止めて肩を支えた。大きな手はするすると腕を下り、手に手を重ねて指の隙間を埋めるように絡めとられる。うわっ動きがめっちゃ手慣れてるな。これ何人にやってきたんだ。普通に急所とかむき出しだから雌猫を暗殺するときのハニトラにも使えそう。空いてる片手で首をシュッてやるんでしょ。ポルポ知ってる。本で読んだもん。ていうか普通にこれ余計な下ネタとか考えたら鯖折りされる危険性あるな。ソルベとジェラートとゲーム周回さぎょイプしてた夜中にねえあのさーチーム時代に"あっこいつにゃんにゃんして来たな"って察したこととかあるー?って訊いてめっちゃ普通にあるあるーてかもはや俺らン中じゃあ隠す必要もなかったっつーかポルポが俗語とかネットスラング使うの真似して"俺ちょっと賢者の気分になって来ようーッと"とか言ってふらっと出てくやつもいたからなギャハハ、って深夜でしか許されなさそうな話をしたことがバレたらすんごい冷たい目で見られそうアーッいけませんポルポさん思い浮かべてはいけません伝わってしまいまアーッポルポさんいけませんいけま、い、いけませ、アーッ無理だ。無理無理の無理だ。無になるしかない。無とは。宇宙とは。一枚のカードから始まったギャラクシーのビッグバンを考えて一点の揺らぎが第三魔法で那珂ちゃんはいつも可愛くてパソコンの容量が足りないから知り合いに増築を頼みたいと思ってたんだった連絡しないとアーッ無理です。
「リーダー、ポルポが死にそうな顔をしているよ……」
「俺はまだ何も言っていないんだがな」
「自爆していやがる」
「もうやだおうちかえる!ポルポちゃんおうちかえる!こんな所にいられるか私は部屋に引きこもらせてもらう!!」
「ポルポ、原因を見つけない限り泣いても喚いても無駄だ」
成年誌にありがちな台詞を耳元で言わないで。早急に心の忍足侑士を召喚しないといけなくなるから。
「おかしなものを食べたりはしていないんだよね?」
「ペッシちゃんは私を何だと思っているのかな……」
食べてないよ。
「……"今日、俺の作った朝食の他に口にしたものは何だ"?」
屋台で売られてた甘栗たべた。季節の味覚じゃないから余計にたべたくなっちゃったんだよね。リゾットに"モンブラン食べたい"っておねだりした手前、リゾットにはマロンの誘惑にメロメロになっちゃったっていうのは秘密にしておきたかったんだけどあーはいはい全部バレましたね。今バレた。はい終わり。私の隠し事全部終わり。
「スタンド使いの攻撃を受けたっていうのは確かだと思うけど、ポルポだってスタンドが視えるんだから攻撃されたらわかるよね」
「背後から攻撃された可能性もある」
「こいつの心を読んで得するってなると同業者の可能性がたけェわな」
「だけど"それらしい"質問は誰からもされていないんじゃあ、敵対勢力よりも愉快犯を想定したほうが良くはないかい?」
「ホルマジオ、何か手掛かりになりそうな情報は無いか?」
「リーダーよォー、人使いが荒かアねェか?便利なメモ帳じゃあねエんだぜ」
「と言うと、無いのか?」
「有るモノ以外はな」
慣れたやり取りに置いて行かれる私が可哀想だ。
片目をつむったホルマジオはこめかみに人差し指を当て、わざとらしく唸って見せた。
「ま、こいつはちっと前に聴いた話だ。酒の席だし裏づけもねエから信憑性には欠ける」
「構わない」
「目に見えねェ程に微細で、"菌のように"モノにくっついて対象に寄生する独立型のスタンドがあるって噂だぜ」
「ええッ……ホルマジオ、そんなものが存在したら色々とマズいことになるんじゃあ……」
震えたペッシに、ホルマジオが肩をすくめた。
「あくまでも噂だっつーの。ま、もしも実在したとなると、"そいつ"が……あー、そうだな、オメーの食った甘栗にくっついたまんま食われてスルッとその頑丈な胃袋に潜り込んじまう……みてーな事態が起きねェとは限らねーが」
めっちゃ信憑性高いし今私の胃袋にはナニが入ってんの?蛙みたいに胃袋裏返しに吐き出して生理食塩水とかで丁寧に水洗いしたくてたまらないんだが?仮に違ったとしても全身を支配するこの不快感に対してどう責任を取ってくれるんだ君は。テツテツのアッパンの上でサンバ踊らせるぞ。
不意にリゾットが私の眼を覗き込んで首を傾げた。
「……"熱々の鉄板"ではなく?」
「うわびっくりした」
マジレスありがとね。でも無許可で私の心を読むのはポルポ条例第五項に定められた"下ネタの自由"に抵触するおそれがあるからやらないほうがいいしお願いしますやらないでください。純粋無垢なはずの眼差しにすべてを見透かす深淵を感じて特に怖い。覗かないので覗かない、そういう不可侵条約を結ぼうよ。
「ねえリーダー。イルーゾォが戻ったら事情を話して協力してもらうのはどうだろう?」
「そうだな。試してみる価値は十分にある」
「思えばあいつのスタンドは小器用なモンだよなアー。『許可する』か『許可しない』かの二択って部分はあいつらしいが、持ち主の戦法にかなり小回りを利かせられるんだからよ」
そうねえ、と相槌を打つ。普段のイルーゾォは卵の黄身と白身を分けて割ろうとして殻ごと砕くようなぶきっちょさがあるけれど、新品の筆で塗りつぶしたのかな?ってレベルでお目目からハイライトが消え去っているときの彼は必殺仕分け人と化すからね。
要は一回私を鏡に収納したあと、"スタンドだけ"を取り残せばいいのだ。サバスたんがいないからこそできる作戦だね。
問題は、事情を説明されたイルーゾォが浮かべるであろう心底から馬鹿にしたような視線に私が耐えられるかどうかだけど、安心してください、我々の業界ではご褒美です。
「そんじゃあ、せっかくだ。イルーゾォが戻ってくるまでたっぷり遊ぶとしようぜ、ポルポ」
落書きまみれの路地裏にたむろしてるチンピラみたいな顔をするんじゃあないよ。
ちょいちょい、と人差し指で呼ばれても行くわけがなく、私はリゾットの背中に隠れて舌を出した。子どもっぽいと言うなかれ。
つまらなそうにしたホルマジオだったが、彼は頭のいいチンピラだった。
「"ここ最近やらかしたうっかりは"?」
「言うわけないっしょ」
「リーダー、通訳頼むぜ」
「つまらない電話依頼の暇つぶしに見ていた実況動画が意外に面白かったせいで声を上げて笑ってしまい相手から本気で怒られたことだそうだ」
「きゃー!!」
「意外にでけェうっかりだなおい」
「三十分も叱られたらしい」
「ガキかよ」
「数日前に徹夜していたのはこの案件か?」
「はいそうです」
「ダメだよ、ポルポ!信用が第一だ、ってよく言うのはポルポじゃないか」
「ごめんなさい」
掴まれたままの腕から全部だだ洩れだったしリゾットはさりげに面白がってるしペッシちゃんは真面目だった。はい。大人にあるまじき行為でした。反省しています。

イルーゾォの帰宅をここまで心待ちにした日はこの六年間と少しのなかで初めてだった。