無駄なこと


静かな夜、さざめく笑い声と揺れるキャンドルの明かりに囲まれたホテルのバーラウンジに私たちはいた。
背中がざっくり開いたワンピースは一目惚れして購入したものだったけれども、“ファスナー、上げてくれる?”とかいうお色気要素が徹底的に排除された設計だと気づいたときにはちょっとだけ後悔した。救済措置であろう首の後ろで留めるタイプの留め金もぼぇーっとしたまま自分でやってしまったし、狙った獲物をしとめる準備はぼろぼろだ。気取らない服装すら全身をブランドモノで固めたように見えるイタリアーノを手玉に取るには甘すぎる。
「何飲む?なんでもいいなら私が決めちゃうけど」
「任せて良いか?こういうことはお前のほうが詳しそうだ」
そいつぁどうも、と上質紙をめくって軽くメニューに目を通す。
リゾットちゃんの好みはある程度理解しているつもりだ。べたべたと甘いものよりもからいほうが好きだとか、白ワインよりも赤ワインのほうがするする飲むとか、度数の高いもので一気に酔うより雰囲気を楽しむことに意義を見出すとか、葉巻はやらない、とかね。たぶんリゾットがシガーカッターで切り落としたものの本数は葉巻よりも敵対組織の小指のほうが多い。
それからこれが一番肝心な点だけど、リゾットは私の注文に文句を言ったことがない。私が文句を文句と判断できていないアッパラパーな可能性からは積極的に目を背けていくぞ。
「じゃあロングアイランドアイスティーね」
「……」
「おいしいよ?」
「お前のやりたいことは察せるが、段階を踏まなくて大丈夫か?」
「最終的にリゾットちゃんをお持ち帰りできれば完全勝利Sだから過程や方法はどうでもいいのよ」
部屋は取ってあるから安心してね。足下がおぼつかなくなったら支えてあげるしスイートルームの天蓋付きクイーンサイズのふかふかベッドに優しく横たえて部屋の明かりを落とした上で最高の眠りをご提供するよ。なんと今なら抱き枕としておっぱいがついてくる!え?いらない?おっぱいまくらいらない?ふかふかのふにふにだぞぉ。
初っ端から"飲みやすいくせに酔う"タイプのお酒を飲ませる私と飲まされるリゾットの関係をどう判断したのか、カウンター越しに見るバーテンダーの表情は読めなかったがこれでノンアル仕様に変更して提供する機転が利かされていたらヤバイな。リゾットは何も言わないだろうし完全に私が道化になる。
いや、逆に考えるんだ。ロングアイランドアイスティーがただの爽やかで甘いジュースだったにも関わらずお持ち帰りされてくれるリゾット・ネエロ、はちゃめちゃに可愛いじゃないか。私がお持ち帰りごっこをしたいって駄々をこねたから付き合ってくれるんでしょ。
ぶっちゃけこの男、私の稚拙なお持ち帰りごっこでスイートルームにご案内されても全然ダメージ食らわないしね。上質なベッドですやすや寝るだけでしょ。たとえ私が無体を働こうとしてもこっちがリゾットの手首を手錠で拘束して乗馬鞭を取り出した瞬間に破ァー!!っつって"アレッこの手錠って糸こんにゃくでできてたかな?"みたいな身軽さで脱出するんだよ絶対。ポルポ知ってる。そういうのイルーゾォからの話で聞いた。リゾットにかかれば乗馬鞭すらちょっと弾力のあるグミみたいなもんだよ。
「お前は何を飲むんだ?」
「シャンディーガフ」
「わかりづらい自虐だな」
「わかりづらい自虐だとわかってもらえるって信じて頼んだ」
差し出されたグラスをそっと持ち上げる。リゾットちゃんの瞳に乾杯。ストローで飲んでってお願いしてストローで飲んでもらってるんだけど、思ったとおりストローで飲み物を飲むアラサーの暗殺者めちゃくちゃ可愛いわ。煩悩はシャンディーガフと一緒に飲み込んで正気を装った。飲み込みきれず「かわいい」って呟いてしまったけどこれくらいなら微罪だろう。ちなみに罪は罪である。
「お酒にまつわる笑い話しよ」
「……というと?」
「毒盛られたとかそういうやつ」
「お前の笑い話はおかしい」
「まあまあ堅いことを仰らずに。ほらもうひと口飲んでほらほら」
細いグラスを指でさす。
喉仏が少しだけ動き、彼の胃袋に性悪なジュースが滑り落ちる。
僅かに伏せられた白銀のまつ毛と赤い瞳が綺麗で、つい見惚れてしまった。ここが場末の酒場じゃなくて良かったね。遠くのテーブルから粗野な男たちに『おい見ろよアイツ』『ヒューッ……上玉じゃねーか』とか口笛吹かれて馴れ馴れしく肩を抱き寄せられているところだったよ。
と、不意にリゾットがこちらを見た。おかしな考えを巡らせていたのがバレたか。無垢を装っておめめをぱちぱちさせておこう。
「……起伏のある話ではないが、お前が喜びそうなネタなら一つある」
「ナニナニ?」
秘密を打ち明けるように軽く顔を近づけられたので、こちらも身を乗り出して耳を傾ける。
口元に翳された手がテーブルに影を落とし、揺れるキャンドルの火がその黒を滲ませる。いったいどんなアングラな話が出てくるのか期待する私は「ポルポ」と名前を呼ばれても何の疑問も抱かなかったし、リゾットの声がさっきよりもずっと潜められていたことにも、その吐息を感じることにも、短いキスが終わるまでまったく気がつかなかった。
ノイズも残さず、唇は触れ合っただけで離れていく。
リゾットはグラスからストローを引き抜いてロングアイランドアイスティーを普通に飲み始めた。置いてけぼりな私が可哀想だと思わないんですか?そういうのよくないと思います!めっちゃ面白い話が聞けるって信じてハッスルしてた女もいるんですよ!!
私も身体を戻してお酒を身体にぶち込んだ。やってらんねえわ。やめろこれは喪女に刺さる。ときめき的な部分に刺さる。あとこれまでの木枯らしメモリアルにしみる。
「駄目か?」
「最高過ぎて反応に困ってんのよ」
「そうか」
リゾットちゃん知ってる?そうかの一言で喪女に対する今の行為が許されたら乙女ゲーは要らないんだよ。知らなかったかな?だったらお願いだからこれから心に刻んでね。刻んだうえでやってね。
激しい感情を抑えるうちに手元のお酒はなくなっていた。見るとリゾットも残りが少ない。
「何か頼むか?」
バーテンダーに向けられそうになった視線を、彼の手を握って制止する。
「飲みたかったらごめん。でももう待てない。部屋行こう」
「……」
「君が今のテクニックをどこの誰からどんなふうに教わってどうやって練習して誰に使ってどんな成果を挙げてきたのか根掘り葉掘り聞かないと落ち着いて眠れない。そんでその話をするにはここはあまりにも静かすぎるし投げる枕も殴る壁もない」
「……」
「駄目だマジで手が震えてきた。見てほらこれ。ウケる」
オラすっげぇワクワクすっぞ。今夜はきらびやかな街を見ながら朝が来るまで修学旅行の夜を再現してやる。まあ私は修学旅行とはあんまり縁がない学生生活をしていたし、リゾットの御事情もそこんところは私にもよくわからんけど、私の傍で過ごしていたら"修学旅行の夜"が何を意味するかくらいはわかるだろう。先生の目を盗みながら天井を見上げて話す恋への憧れや不満の話。女子と男子で話の内容は分かれるかもしれんが、今回は私に合わせて女子verをお願いしたい。ねっ、リゾットちゃん。

「念のため枕追加していい?」
「好きにしてくれ」
ニンニクマシマシ野菜マシマシ、今宵のベッドは枕マシマシ。
天蓋の紗を閉じ、山と積まれた枕にもたれかかる。
「よーし、準備完了!爆弾エピソードでも胸キュンストーリーでもなんでもどんと来い!」
「"なんでも"」
「おおっと嘘でーす!!ごめんねポルポさん嘘ついたわ!心に検問敷いてっから何でもは無理でーす!!あぶねえなお前!!」
「俺はお前が心配だ」
君それってもしかしてオメーは大した量の酒も入ってねえのに脳みそゆるゆるだなっつってる?たぶん今の心配は"簡単に言葉尻を捕らえられるような危機管理の甘さでよく幹部やってられたな"的な優しみなんだろうけど、真顔で言い放たれると心臓つるつるポルポさんだからすぐ傷ついちゃうよ。
「……」
「……」
投げる体勢だった枕を持ち替え、念のため、壁にした。