メローネ


部屋が暗くなっていることに気がついたのは、次のページをめくろうとして指が滑った時だった。もうすっかり空は紺色になっていて、夕暮れは窓際のカーテンを冷え冷えとさせていた。
なんだ、と肩を落とす。そろそろポルポを起こさなくてはいけない。
ポルポの部屋を借りていたのは、ただ単に居心地がよいからだった。メローネはポルポのことが好きだし、ポルポもメローネのことが好きだ。色めいたものがなくとも、想いが通じ合っている仲なのだから、そばにいて心地よいのは当たり前だとメローネは頬杖をつく。人生がその限りではないことも彼は同時に知っていたが、今は陳腐な言葉ですべてを済ませてしまいたかった。ポルポの近くにいることは、メローネに安定をもたらす。それだけが結果として残るから、それでいい。
ポルポはお気に入りの大きなビーズクッションに身体をうずめてうたた寝をしていた。
折りたたみのしっかりしたテーブルを借りてパソコンのキーボードを叩いていたメローネは、しばらくの間、ポルポが眠っていることを察せなかった。ポルポの寝息は静かで、ローマを舞台にした映画の音に紛れていたし、メローネは画面に集中していた。もともと、ポルポの周りにはなんだか穏やかな空気が流れている。それが眠りの気配に変わっても、メローネには違和感がなく思えた。
甘いタルトを食べてから、日が暮れるまでの時間だ。大したことはない。映画をリプレイしたけれど、最初から最後まで流れ切るだけで、もう一周はできそうになかった。
持ってきた資料は途中だった。紙束を置いて、メローネは立ち上がる。カーテンを勝手に閉めると、ポルポの隣に戻って胡坐をかく。腹の上に置かれた女の手を取って、ぐい、と引くと、ポルポは何の夢を見ているのやら、メローネにこう言った。
「わかった、もうやらない……」
「ナニを?」
面白がって追及したが、ポルポは返事をよこさなかった。メローネは、無視かよ、と心にもないことを呟いてポルポの爪を撫でる。ネイルサロンへ行ったと話していた通り、ポルポの爪は綺麗にされていた。つるつるした感触は、メローネにとって馴染みがあるものだ。メローネと会う女性は、みんなこうして身綺麗に自分を飾っていた。
「なあポルポ、起きろよ。飯だぜ」
リーダーの、と口の中で付け加える。もちろんポルポは知る由もなく、うん、と不明瞭な相槌を打った。
「起きてる……」
「起きてんの?」
「うん、メローネが仕事してたのも知ってるし……」
「じゃあ俺がポルポにキスしたのも知ってる?」
ポルポは薄く目を開いて首を振った。
「知らない」
「うん、してねーもん」
ポルポが本当に嫌がることはしない。
「(でも……)」
嫌がるのか?ポルポって。
唇だけは許されないけれど、もしもメローネがこっそりその貞節を奪ってしまったら、ポルポはどうするのだろう。警戒、してねえのかな?
寝起きのポルポに質問をすると、彼女はのそりと起き上がって身体をのばした。うん、と間延びした声がする。
「メローネはそういうことはしないって知ってるし」
「信頼ってことかい?」
「そうかもね。メローネは……」
ポルポはぴたりと口を噤むと、メローネを引き寄せて頬にキスをした。突然のことに、メローネはまたたく。
「こんなんで固まってる純情ちゃんには無理でしょう」
メローネは純情ではないし、頬にだって唇にだって、とても言えないような所にだって口づけを受けたことがある。突然のことにかたまってしまうのは、メローネが悪いのではないはずだ。ポルポのそれが愛玩だと知っていても、驚いてしまう。受動的なポルポからの積極的な行動に、いつまで経ってもメローネは慣れない。それだけだった。
「まあ、いいけど、さ」
頬を押さえて、暗い部屋の中で唇をとがらせる。今は、やるつもりは不思議と湧き起こらない。
無理やりに迫ればポルポはどうするのか、気にならないわけではない。平手打ちや蹴りで抵抗されるのかもしれない。けれど、平手打ちや蹴りを受ける方法なら他にもいくらだって知っていた。例えば、手を伸ばしてポルポを思いっきりくすぐればいい。ポルポとの関係を崩すほど重要なことには思えなかった。
でも、とメローネは暗闇の中でポルポをじっくり眺めた。
「でも、俺、あんたを見てるとむらむらしてくるんだけど」
「そうなの?よくわかんない仕組みよね、男の人って。私はメローネを見ても何も思わないわ」
「じゃあリーダーは?リーダーを見るとむらむらするかい?」
「いや別に……」
「あんたって枯れてんの?」
ポルポは首を振った。諦めたように肩も竦めている。
「この歳までモテなかったから仕方ないんじゃないかな。男イコール発情とは結びつかないのよね」
そういうものか。メローネにはその気持ちはわからない。
「潤いたくなったら来なよ」
半ば本気でそう言ったが、もう半分の、本気ではない部分を感じ取ったのか、それとも本当に面白がっていたのか、ポルポは少しだけ笑ってメローネの肩を叩いた。
「今の良かったよ。さ、ご飯食べにいこ。リゾットに任せきりにしちゃって悪かったなー」
ポルポが立ち上がってメローネに手を差し伸べたので、メローネはその腕ごとポルポを引き寄せると、傾いだ身体を担ぎ上げる。
「腹減ったよな!飯はなんだろ」
「いや、意味がわからない!!」
「なんとなくやりたくなっちった」
「なんじゃそりゃ……」
そのまま薄暗い部屋を抜け出して廊下に出る。リーダー、飯は何?訊ねる声はいつもと変わらず楽しそうなもので、応える階下からの返事も、いつもと変わりのないものだった。